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アレクサンドロス大王の戦い 7

みなさんこんにちは。

ガウガメラの戦いに勝利し、ダレイオス3世率いるペルシアの大軍を打ち破ったアレクサンドロス軍は、イッソスの戦い同様ペルシア軍が置いていった莫大な金銀を手に入れます。そしてバビロン、スサ、バサルガダイ、ペルセポリスといったペルシアの4大都市に軍を進めました。しかしこれらの都市のうちペルセポリスを除く他の都市は、もはやアレクサンドロスに抵抗する意志も力も無く、早々に降伏して城門を開いたので、彼はほとんど何の抵抗も受ける事無く無血入城を果たしたのでした。

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上は17世紀にヨーロッパ人が描いたバビロン想像図です。(あのバベルの塔が描かれていますね。)下がこれも有名なバビロンのイシュタル門の模型です。(イシュタルとは古代メソポタミア神話の性愛と戦を司る金星の女神だそうです。さらにドイツのベルリンにあるペルガモン博物館に展示されているものは、1930年代のヒトラー政権下に復元されたレプリカらしいです。)

これらの都市に入城したアレクサンドロスはここでも大量の金銀財宝を接収しますが、その規模は、これまでの戦闘で得た(というより敵が置いていったものを拾った。)金銀をはるかに凌ぐ莫大なもので、歴代のペルシア王が帝国各地から集めた使い切れないほどの金銀が山の様に積まれ、蓄えられていました。これにより、遠征開始から悩まされていた戦費の問題は一気に片付き、彼はもう金の心配をする事無く今後いくらでも遠征を続ける事が出来る様になりました。

アレクサンドロスはこれらの金銀を鋳潰し、彼の横顔と名を刻んだ大量の貨幣を作らせると、この時から自らを「大王」と称し、その宣伝のためにこれらを各地に流通させました。(ペルシア遠征でアレクサンドロスが得た金銀は、記録によればおよそ5500トンにも登ったそうです。)

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上がそれらの金銀貨です。

アレクサンドロスは紀元前330年の初め、いよいよペルシアの都ペルセポリスへと進軍します。しかしここまで来てペルシア軍の激しい抵抗に遭い、遠征開始以来始めて苦戦を強いられますが、彼の巧みな陽動作戦が功を奏し、ペルセポリスを陥落させます。そしてここでも膨大な量の金銀を手に入れ、それまで兵士たちに許していなかった略奪を許可します。(古来略奪は兵士たちへの報酬とは別で、数日間とか日数を限定して彼らに与える特権だった様です。)

アレクサンドロスはこの地で数ヶ月滞在し、戦後の残務処理をしながらある決意を胸に秘め、それを実行に移します。それはペルセポリスの壮麗な宮殿を焼き払う事です。しかし、なぜ彼はその様な事をしたのでしょうか?

その理由はペルシア帝国の象徴であるこの大宮殿を破壊する事で、アケメネス朝ペルシア帝国を完全に滅ぼしてこの世から抹殺し、自らが世界の支配者として君臨する「大王」である事を誇示し、人々にペルシアに代わる巨大権力が誕生しつつある事を知らしめるためでした。

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上の一連の画像がペルセポリスの遺跡です。復元図をご覧になれば分かりますが。遺跡に現存する高い柱や礎石の一つ一つが、元はこの巨大な宮殿の屋根を支えていた事が確認出来ます。また良く見ると、宮殿の様々な石像の顔が削り取られていますが、これは後の時代にこの地に興隆した偶像崇拝を禁じているイスラム勢力の仕業ではないかと思われます。またこれも後の時代に遺跡から大量の石材が、諸勢力や付近の住民によって城壁や都市の住居の材料として転用するために持ち去られてしまった様です。

さてペルセポリスを落としてなお勢い収まらぬアレクサンドロスは、今だ逃走中の敵王ダレイオス3世を追撃するためにさらに東へと出陣しますが、ちょうどその頃ペルシア側でもある異変が起きていました。敗れたダレイオスが態勢を立て直すために逃れたバクトリア地方で、その地域のサトラップ(総督)であった部下ベッソスの裏切りに遭い暗殺されたのです。

1024px-Greco-BactrianKingdomMap.jpg

上はアレクサンドロス大王の死後に建国されたバクトリア王国の領域を表す地図ですが、位置を知ってもらうためにお載せしました。ダレイオス3世の先祖であるダレイオス1世はもともとこの地域の総督であり、王家ゆかりの地でした。ダレイオスはここで再起を図ろうとしますが、二度も戦いに敗れて逃げ続けるという醜態をさらした彼に、もはや王としての権威も信用もありませんでした。せめて祖先の地で死ねた事だけが唯一の慰めとでも言いましょうか。いずれにしても、初代キュロス2世から数えて12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は彼の死をもってここに滅亡します。

そのダレイオスを暗殺した総督のベッソスは自ら「王」を名乗りますが、これはアレクサンドロスにとって好都合でした。彼は主君を殺した「裏切り者」であるベッソスを追討して、ダレイオスの仇を討つという大義名分を得たからです。(自分で散々ダレイオスを追い詰めておきながら、今度はその仇を討つというのもおかしな話ですが、一般にその様に解釈されています。)

ベッソスはバクトリアに侵攻したアレクサンドロス軍にあっさり敗れ、今度は自分自身も仲間に裏切られて捕らえられ、耳と鼻を削ぎ落とされた挙句、ダレイオスを殺害したその場所で磔にされ処刑されてしまいました。

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ダレイオスの死はペルシアの残存勢力にも大きな衝撃を与え、ペルシア貴族や総督たちが続々とアレクサンドロスに投降し、彼を「大王」として認め、新たな支配者として彼に服属を申し出ました。アレクサンドロスはこうした貴族や総督たちを統治に利用するため、それまで同じ同族のマケドニア人かギリシア人ばかりを支配地の長官に任命していたこれまでの姿勢を改め、彼らをそのまま留任させるか再登用していきます。そして統治政策なども、ペルシア式の優れた点をどんどん取り入れ、自らもペルシアの衣装を身にまとうなど、言わば「東方化」していきました。

しかしこの彼の方針転換と「東方化」は、これまでアレクサンドロスに付き従って来たマケドニア人やギリシア人の部下達はおろか、末端の将兵たちの間にまで不満の種を蒔く事になり、この頃からアレクサンドロスと彼らとの間には、様々な問題が生じて来る様になりました。

次回に続きます。
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