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恐るべき日本核武装計画 ・ 宰相佐藤栄作の極秘指令

みなさんこんにちは。

みなさんは現在、世界にどれだけの数の国があるかご存知でしょうか? 外務省の最新のデータによれば、現在この地球上には196の国があるそうです。(2013年時点)そしてその中で、国連に加盟している国は193カ国に上ります。(加盟していないのは、宗教上の理由から加盟していない「世界で最も小さい国」として知られるバチカン市国や、独立したばかりで加盟準備が出来ていない国などです。)

さらにその中で、核兵器を保有している国は8カ国あります。言わずと知れたアメリカとロシアをはじめ、イギリス、フランス、中国の5カ国に、東西冷戦終結後、「自衛のため」に世界の反対を押し切って核兵器を開発したインド、パキスタン、北朝鮮です。それ以外に、公式ではありませんが中東のユダヤ人国家イスラエルが核兵器を持っているといわれています。(「いわれている。」というより、確実に持っているでしょう。なぜならイスラエルと4回に亘る熾烈な中東戦争を繰り返したアラブ諸国が、その後1度もイスラエルと戦争していないのは、もしイスラエルを攻撃すれば、彼らは間違いなく核で反撃して来るので、周辺のアラブ諸国の方が危険だからです。)

「核兵器」 それは原子核分裂による膨大なエネルギーによって、鋼鉄をも溶かす高温の熱線と猛烈な爆風で、地上の生きとし生けるもの全てを一瞬にしてこの世から消滅させる威力を持つ、人類がこれまでに作り出した究極の最終兵器である事は誰もがご存知ですね。そして世界196カ国の中で、その核兵器による攻撃を唯一受け、筆舌に尽くせない被害と惨めな敗戦により300万以上の尊い人命を失い、その自虐的な反省から「平和国家」なる妄想的理想を掲げているのが今日のわが日本です。

その世界で唯一の被爆国にして「平和国家」である日本で、かつて政府が核兵器を保有しようと具体的な検討と調査研究を進めていたという恐るべき事実をご存知でしょうか? 今回はその「幻の日本核武装計画」についてお話したいと思います。

話は1964年(昭和39年)にさかのぼります。

この年の10月10日、わが国ではアジア初の東京オリンピックが開催され、国内はこの一大イベントに浮かれ騒いでいました。あの惨めな敗戦と見る影も無い無残な焼け跡からわずか19年、日本は国民のたゆまぬ努力によって世界が驚嘆する驚異的なスピードで復活を成し遂げ、その日本復活の国家的シンボルイベントともいうべき夢の祭典であるオリンピックに国民が酔いしれていた頃です。


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上は第18回国際オリンピック東京大会開会式におけるわが日本選手団の入場行進の様子です。名誉総裁として昭和天皇が開会の宣言をお読みになられ、当時のわが国はこの盛大なスポーツイベントに、上は天皇陛下から、下は街角の子供たちに至るまで心躍らせていました。またこのオリンピックに合わせ、これもアジア初の超特急「新幹線」が少し前の10月1日に開業し、全国では高速道路の建設が急ピッチで進められるなど、日本はその歴史上初めて経験する空前の高度経済成長時代の真っ只中にありました。

しかし、日本政府と国民がその夢のオリンピックに夢中になっていたわずか1週間後の10月16日、日本政府を驚愕させる事態が起きていました。隣国中国がアジアで初の核実験に成功したのです。


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上の画像1枚目がこの時に中国が実験に使用した核爆弾のレプリカで、2枚目がその時のキノコ雲です。写真で見るとずんぐりむっくりした形をしていますが、これはこの爆弾が、長崎に投下されたタイプと同じウラニウム型核爆弾で、構造上この様な丸みを帯びた形になるのだそうです。そして3枚目が実験が行われた新疆ウイグル自治区の位置です。実験はなんとあの「さまよえる湖」と消えた幻の都市国家「楼蘭王国」で知られる有名なロプ・ノール周辺地域で行われました。もし古代へのロマンに魅せられて、この放射能まみれの地域に旅行など計画されている方がおられましたら、「絶対に」お止めになる事を心からご忠告いたします。

この現在「新疆ウイグル自治区」なる名で呼ばれる「新疆」とは「新たな征服地」を意味し、かつてこの地を征服した中国最後の王朝である清王朝でそう呼んでいた事に由来しています。つまりチベットと並んでこの地はもともと中国ではないのです。また、この地で中国はこれまでに合計40回以上もの核実験を住民へ知らせもせずに行い、この地域の数十万のウイグル人が放射能汚染の犠牲となって死亡し、その影響から現在も3万人以上の奇形児が次々に生まれてきてしまっているそうです。「中国」という国がどういう国なのか、多くの国民の方々に知って頂きたいものです。(怒)

さて、日本ではこの事実に最も脅威を感じていた人物がいました。その人物とは、オリンピック終了直後に就任した時の佐藤栄作首相です。


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上が当時の内閣総理大臣佐藤栄作氏です。(1901~1975)彼は前回お話した岸信介元首相の実弟で(兄信介氏の姓が違うのは、信介氏が佐藤家の婿養子であった父の実家である岸家を継ぐために、岸家の養子になったためです。戦前の日本はこうした封建時代の厳格な家督相続の制度がありました。)兄と同じく東京帝国大学(現東京大学)法学部を出て鉄道省に入省しましたが、早くから順調にエリート官僚の道を進んだ兄と違い、若い頃の彼は長い地方勤務や左遷などでかなり苦労した様です。しかしこうした苦労が、後に彼をしたたかな政治家へと成長させ、日本の歴代首相で最長となる7年8ヶ月もの長期政権を実現させる事になりました。(現安倍信三首相の母方の大叔父に当たる人です。)

佐藤首相は就任から2ヵ月後の1965年(昭和40年)1月に訪米し、日米首脳会談で当時のアメリカのジョンソン大統領にこの中国の核実験成功と、これに対する「懸念」を伝えます。しかしこれは、日本首相としての彼の立場上の遠まわしの表現であり、個人としての彼は、これを日本に対する大きな脅威であると断じ、はるかに踏み込んだ考えをジョンソン大統領に伝えていました。

「個人的には、中国が核兵器を持つならば、日本も核兵器を持つべきと考えている。」


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上が会談するリンドン・ジョンソン大統領(1908~1973)と佐藤首相です。ジョンソン大統領は暗殺された先代のケネディ大統領の後任として副大統領から昇格し、政権を引き継いでいました。理想主義で議会との対立が多かったケネディの失敗から、巧みな議会工作で人種差別撤廃の公民権法を成立させるなどの功績の傍ら、当時激化していたベトナム戦争に一気に「ケリをつける」ために50万を越える大軍を送り込む積極攻勢で、逆に泥沼の戦いに陥ってしまいます。

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上は佐藤首相が日本と中国が戦争になった場合に、アメリカに中国を「先制核攻撃」する事を希望したという驚くべき事実を掲載した新聞記事です。彼はそこまで考えていたのです。

個人的とはいえ佐藤首相のこの発言にジョンソン大統領は驚き、彼にそれを思いとどまらせるよう説得します。この時は2人の個人的見解を述べるに留まりましたが、この佐藤の発言がジョンソンに与えた影響は大きかった様です。アメリカはその後「核軍縮」の名の下に、これ以上核兵器保有国を増やさないため(というよりこれ以上他の国に「核兵器を持たせない」ため。)たまたま核兵器保有国が国連の常任理事国5カ国と同じであった事を良い事に、1968年(昭和43年)7月に「核拡散防止条約」(NPT)を制定、各国にこの条約への加入を促し、62カ国がこれを批准します。

当然日本も真っ先にこの条約を批准したと思われるでしょうが、実は以外にもわが国はこの条約の批准を先送りしていました。確かにこの条約により、これ以上核兵器保有国が増える心配はなくなりましたが、佐藤首相の懸念と不安は払拭されたわけではなかったからです。また日本政府内では佐藤首相と同様の危機感を持つ者が多数いると同時に、それとは別の考えを持っていた者たちがいました。というのも、この条約は「核軍縮」の大義名分の下に、経済成長で力を付けた日本やドイツ(当時は西ドイツ)などに核兵器を持たせない事が目的であったからです。

「これを批准すれば、わが国は永久に2流国として格付けされる事になる。それだけは絶対に耐え難い。」

日本政府内ではこうした意見を持つ政治家や官僚が多く、それが日本のNPT参加保留の大きな理由でした。彼らは日本が唯一の被爆国であるといった情緒的な理由で頭から核兵器を持たないというのではなく、日本国家の至高の利益が脅かされる様な緊急事態になれば、日本も自衛のために核武装して当然であると考えていたのです。

そこで佐藤首相は、首席秘書官ら側近たちにある極秘指令を命じます。それはなんと日本が核武装するに当たり、その技術的かつ物的な可能性を調査研究し、報告せよという驚くべきものでした。側近たちは早速その指令を政府直属のある「特殊機関」に実行させます。その特殊機関とは、日本の国家情報局ともいうべき内閣調査室でした。(現在は「内閣情報調査室」略して「内調」と呼ばれています。)


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上が内閣調査室のある内閣府の建物です。現在内調はおよそ170名ほどで構成され、そのほとんどが警察官僚出身者である様です。

内調はその極秘任務のために、当時の日本の第一線級の核物理学者や安全保障の専門家、防衛庁の担当幹部らも集め、極めて詳細な調査研究を行い、それを報告書にまとめて上層部(つまり佐藤首相)に提出しました。その主な内容は以下の通りです。

1 核爆弾製造の技術

2 核物質製造の技術

3 ミサイルに使うロケットの技術

4 目標を正確に攻撃するための誘導装置の開発技術

さらに核兵器の原料となるプルトニウムの製造法などです。そして報告書は結論として「原爆を少数製造する事は可能であり、比較的容易である。」としています。

では、当時の日本に内調が報告した様な核兵器開発の技術が果たして本当にあったのでしょうか? 実はそれがあったのです。ちょうど1966年(昭和41年)7月、日本で最初の原子力発電所が茨城県東海村で稼動を開始していたからです。報告書は、この東海原子力発電所で核爆弾の製造に必要な純度の高いプルトニウムが年間100キログラム以上取り出す事が出来るとしています。これは長崎に投下された原爆を10発以上製造出来る量でした。


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上が日本初の東海原子力発電所です。この発電所は1998年(平成10年)に老朽化により稼動を停止、現在廃炉作業が進められています。(この原発は出力が16万キロワット程度と小さいのですが、それでも年間10発もの核爆弾を作れるだけのプルトニウムが抽出出来たのですから、その後に全国に建設されていった100万キロワットを越える大出力の原発を合わせれば、恐ろしい数の核兵器を製造出来る事になりますね。驚)

しかし内調の報告書は、日本の核武装について「容易に可能であるが、その実現には大きな困難がある。」と結んでいます。なぜなら日本が核武装すれば、周辺国はもちろん日本にとって最大の(というより唯一の)同盟国アメリカをも敵に廻す事になり、また広島と長崎の経験から国民も大反対する事が目に見えていたからです。

報告書を読んだ佐藤首相は、これにより最終的に核兵器開発の構想を断念したものと思われます。しかし、これでは彼が最も恐れた中国の核兵器に対して日本を防衛する手立てが無くなってしまう事になります。そこで彼は1967年(昭和42年)の2度目の訪米で、ジョンソン大統領にその意向を「日本の意思」として伝えます。その代わり、彼はアメリカに対して次の様な要求を求めました。

「わが国に対するあらゆる攻撃、核攻撃に対しても日本を守るという約束を期待しています。」

それに対し、ジョンソン大統領はこう答えたそうです

「私が大統領である限り、我々の間の約束は守りましょう。」

同時に佐藤首相は、当時のロバート・マクナマラ国防長官にもこう言っています。

「日本の安全確保のために核兵器を持たない事ははっきり決心しているのだから、日本は米国の核の傘のもとで安全を確保する事に致します。」

こうしてわが日本は、戦時における自国の防衛を大きくアメリカに依存する道を自らの意思で選択したのです。この選択は日本としては、当然の帰結としてやむをえないものでしたが、先に述べた政府内のNPT反対派は不満をあらわにします。

「これではわが国は、2流国どころか自国の防衛すらアメリカに依存する属国になってしまうではないか。」

帰国した佐藤首相を待っていたのはこうした政府内の大きな不満でした。そこで彼はこうした不満を取り除くために新たな方策を講じる必要に迫られます。そこで彼の側近たちが考え出したのが「非核三原則」でした。これは核兵器を

「持たず、作らず、持ち込ませず。」

という3つの単語を並べた、まるで小学生の標語の様な極めて単純なものですが、実はその単純さの裏には、その表す言葉の意味の他に、もう一つの秘められた大きく複雑な事情と目的が込められていました。

「彼らNPT反対派は、日本が核保有国とならぶ超大国として世界を主導していくのを望みとしている。ならばわが国は核兵器を持てない以上それを逆手に取り、唯一の被爆国という他国に無い強みを生かして逆に核兵器廃絶を世界に訴える事で、別格の存在として世界をリードして行けば良い。」

この非核三原則は1968年(昭和43年)1月に佐藤首相の施政方針演説で披露されました。

「われわれは、核兵器の絶滅を念願し、自らもあえてこれを保有せず、その持ち込みも許さない決意であります。」

佐藤首相は国会演説で高らかにこれを読み上げます。しかし当の佐藤首相は、この非核三原則を「ナンセンスだ。」と言って嫌っていたそうです。(本来極秘で核武装を計画したほどの人物ですから当然ですね。しかし彼は、首相としての立場と政権維持のために政府内の不満派を抑える必要があったのです。それにしても、これほど表と裏で行動と考えが別なケースは、他に例を見ないのではないでしょうか?)とはいえこの非核三原則は国会で決議され、その後日本の「国是」となるのです。

それでも、政府内の不満派を完全に納得させる事は出来ませんでした。その筆頭が日本の外交政策を司る外務省の幹部たちです。彼らは日本が「超大国」として世界に君臨するための手段として、日本の核武装を完全否定出来ずにいたからです。そこで外務省幹部らは1969年(昭和44年)2月、世界で日本と同じ立場にあり、かつて第2次世界大戦でともに戦い敗北した同盟国ドイツ(当時は西ドイツ)に極秘で会談を申し入れ、日独両国で連携して核保有を目指そうと協力を要請します。


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上がその日独極秘会談におけるドイツ側の代表であった当時の西ドイツ外務省の政策企画部長エゴン・バール氏です。(1922~)彼は後に西ドイツ首相府副長官(日本で言えば内閣官房副長官でしょうか。)となり、東西ドイツ統一にも大きく貢献した人物です。

第2次大戦の同盟国であった日独の接近は他国(とりわけアメリカ)を警戒させてしまう事から、会談は箱根の旅館で「接待」という形で極秘に行われました。この極秘会談で日本の外務省幹部らは、バールとその部下の参事官らドイツ側に次の様に話を切り出します。

「日本と西ドイツは、アメリカからもっと自立する道を探るべきです。そのために両国が連携する事が、超大国になるために重要だと思います。」

これに対し、バールらはこう答えます。

「あなた方日本とわれわれ西ドイツのおかれている状況は違いすぎます。冷戦で東と西に分けられているドイツでは、こうした問題について自分たちで決定は出来ないのです。」

慎重なドイツ側に対し、日本側はさらに踏み込んだ発言をします。

「15年以内に、インドなど中国以外の他のアジア諸国が核兵器を保有する様な非常事態が起こるものと考えています。その場合、わが国は核保有を検討せざるを得ません。それにわが国は、憲法9条がある事で平和利用の名の下に、すでに誰にも止められる事なく原子力の技術を手にしています。日本は核弾頭を作るための核物質を抽出する事が出来るのです。」

この極秘会談は、結局双方のおかれた立場の違いから物別れに終わりましたが、とかく「弱腰外交」と批判される事の多いわが日本外務省が、なんとアメリカすら欺きながら、この様な強硬的な裏取引を他国と交わしていたという事実は、極めて興味深い出来事として記憶に値するでしょう。

さて、最後にこの極秘の日本核武装計画の主役である佐藤首相のその後についてお話しておきましょう。彼はその後、1965年(昭和40年に)の日韓基本条約締結や、1968年(昭和43年)の小笠原諸島に続いて1972年(昭和47年)の沖縄のアメリカからの返還を実現させ、先送りしていた核拡散防止条約にも1970年(昭和45年)に署名(批准はさらに遅れて6年後の1976年。やはり政府内の反対は根強かったのでしょうか?)国内においては、1967年(昭和42年)に高度経済成長の負の遺産である公害対策基本法の制定や、1970年(昭和45年)の大阪での日本万国博覧会の開催などといった功績を上げます。高度経済成長の助けもあって、7年8ヶ月という日本歴代首相で最長の長期政権を維持しますが、当時の自民党内部ではさすがに「政権が長すぎる。」と他の派閥から遠まわしの勇退を薦められます。

その意を理解した彼は1972年(昭和47年)7月に退陣し、あの「ロッキード事件」で有名な「コンピューターつきブルドーザー」(笑)こと田中角栄が次の首相となったのは、昭和世代の方なら良くご存知でしょう。


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上は政権を田中角栄に移譲する佐藤栄作です。

退任後の佐藤氏は、1974年(昭和49年)12月に、日本人としては初めてのノーベル平和賞を受賞します。受賞理由は「非核三原則」を打ち出し、世界に先駆けて核軍縮に大きく貢献したというものでした。


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上はノーベル平和賞受賞の電報を受け取って笑顔を見せる佐藤元首相です。しかし、その笑顔の裏で、彼はその受賞理由とは全く正反対の考えで、極秘に核武装を計画した中心人物であった事は、この世でこれ以上ないほど皮肉な事でした。当のご本人は、本来のご自身の意思とは相反する受賞理由という運命的な皮肉に、内心なんと思っていたのでしょうか?

それから40年以上の時を経た今日、わが国の周辺では隣国中国が再び不穏な動きを見せ、日本やフィリピン、ベトナムなどとの間で領土領海を巡って激しい対立が生じています。現在わが国は、その中国の動きをけん制・封じ込めるためにアメリカと共同で南西諸島方面の軍事力を強化し、最新鋭の艦艇と戦闘機を続々と増強配備していく計画です。海上航空戦力で日米に敵わない事を最も良く分かっている中国が、最後の切り札として持ち出して来るのは当然核戦力でしょう。

現在のわが日本政府がこの時にどうするつもりでいるのかは分かりません。しかし、実際にそんな非常事態に立ち至り、核戦争の危険から自国を守るためにアメリカが日本防衛を放棄する様な事になれば、わが日本はそこは怖い国で、「非核三原則」などあっさり捨てて、必ず躊躇する事なく速やかに核戦力を保有するでしょう。

日本核武装計画――真の平和と自立のために

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日本が核武装する可能性は、非核三原則の出現によって決して消滅してしまったのではありません。それは今でも日本政府の中で生き続け、日本国家存亡の最後の究極の手段として残されているものと思われます。なぜならわが国は「3日もあれば」核兵器を持てるほどの国なのですから。ご興味のある方は上にご紹介する本をどうぞ。あの田母神俊雄(たもがみ としお)元航空自衛隊空将(空軍大将に相当)閣下の著作の一つです。氏は航空自衛隊(いつまでこの曖昧な名で呼ばなければならないのか。早く「日本空軍」と呼びたいものです。)航空総隊司令官や航空幕僚長を歴任し、わが皇国の空を守った現代の軍人です。

私たち日本国民は、国家に対して経済活動ばかりではなく、外交と国防という国の存亡に関わる重大事案にも注目し、上層部の人々に一任してしまうのではなく、もっと国民的な議論を盛んにしていくべきであると痛切に考えます。40年以上前の「幻の日本核武装計画」は、それを今日のわれわれ日本国民に突きつけているのです。

終わり。
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