太平洋資源輸送作戦(前編) ・ 大海運帝国日本の誤算

みなさんこんにちは。

今年はわが国が死力を尽くして戦い、持てる国力の全てを使い果たして敗れたあの太平洋戦争(大東亜戦争)から70年に当たります。天皇陛下も新年の恒例のご感想でその事に言及され、その中で

「戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていく事が、今、極めて大切な事だと思っています。」

とのお言葉を述べておられます。お正月気分で飲み食いに明け暮れ、すっかりだらけていた自分は、この陛下のお言葉を聴いて新年早々「往復ビンタ」を食らわされた様な激しいショックを受け、同時に自己嫌悪で顔が赤くなる思いでした。そして、いついかなる時でもその事をお忘れにならず、過去の反省と、それを踏まえたわが国の進むべき未来を、常に1億2700万のわれわれ日本国民にお示しになる天皇陛下を改めてご尊敬申し上げる次第であります。

そこで、卑しくも日本国民の端くれの一人として、一体自分に何が出来るかという事を考え、今回から新たに「大日本帝国はなぜ敗れたのか?」と題するテーマを立ち上げる事にしました。思うに国家の歴史とは、そこに住む人間たちの歴史であり、当然国家が過去に犯した過ちや失敗から得られた教訓は、それすなわち私たち個々の一人一人の人間が歩んでいく人生にも活かしていけるはずだと考えるからです。

といっても、わが国が先の大戦においてどんな経緯で敗戦に至ったかを時系列で並べ立ててもつまらないので、これまでほとんど注目されていないが、間違いなく日本が敗れるに至ったその大きな原因を分野別に分けていくつかご紹介し、縁あってこの駄文を読んで頂いた方々に、ビジネスやそれぞれの日常で活躍されている場で、戒めとして役立てて頂ければうれしく思います。

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かつてのわが国すなわち大日本帝国が、なぜ太平洋戦争に突入し、いかにして戦い、そして破滅するに至ったかを詳細にお知りになりたい方は、上の本が良書です。アメリカ人戦史ノンフィクション作家ジョン・トーランド氏(1912~2004)の代表作で、彼はこの作品でピューリッツァー賞を受賞しています。全5巻400~430ページで各定価1300円ほどになりますが、日本人作家の書いた自虐史観的な面のない米国人の目から見た優れた作品です。

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また、太平洋戦争をビジュアル的にたどって見たい方には上の本が良書です。上が文庫版で各900円前後、全10巻でページ数は250ページ前後。そして下がそれを刷り直した大型本で、各3400円程度で全5巻、ページ数は320ページ余りになります。主要な戦いにおける日米両軍の艦隊、部隊の装備、兵力、戦力なども写真と共に詳細に文章で記されており、戦史、戦力研究がご趣味の方に良いと思います。ご興味がある方でどちらを買われるかはそれぞれ違うと思うので難しいところですが、何かの資料用としては大型本、暇つぶしや寝ながら読む(笑)なら文庫版が良いでしょう。

さて、第1回は、島国であるわが国と南方占領地との間の知られざるシーレーン防衛戦と、日本輸送船団の奮闘の記録を前・後編の2回に分けてお話したいと思います。

1941年(昭和16年)11月、大日本帝国は重大な決断を迫られていました。前年の9月にアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツおよび、ベニト・ムッソリーニ統帥率いるファシスト・イタリアとの間で結んだ「日独伊三国同盟」と、1937年(昭和12年)から始まる日中戦争の早期決着を目論み、当時の中国の蒋介石政権への米英の物資支援ルート遮断のために陸軍が強行したフランス領インドシナ(現ベトナム)進駐への対抗措置として、アメリカが行った在米日本資産の凍結と、日本への石油と屑鉄の全面禁輸措置によって、資源の無い日本は戦争はおろか、国家そのものが存亡の危機に立たされていたからです。

当時のわが国は石油の90%と屑鉄の全てをアメリカからの輸入に頼っていました。これが一切入ってこないのです。これらがなければ戦争はもちろん、アメリカ、イギリスに次いで世界第3位の勢力を誇っていた連合艦隊がいずれ動けなくなってしまいます。


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上の画像は1枚目がヒトラーとムッソリーニ。2枚目が日独伊三国同盟調印式の様子。3枚目がフランス領インドシナ(当時は仏印)に進駐するわが陸軍部隊です。

「以前の様に石油の輸入再開を望むならば、日本はインドシナはもちろん中国の全てから兵を引け。」

これがアメリカの日本に対する要求でした。もちろん日本としては、この様な要求を受け入れられるはずがありません。もしこれを受ければ、明治以来、わが国が多大の犠牲を払って築き上げてきた中国大陸の広大な征服地を失う事になり、これまでの苦労が全て無駄になるからです。

この事態に当時の大日本帝国では、発足したばかりの東条内閣が、大元帥たる昭和天皇ご臨席の元に、日中戦争勃発の1937年(昭和12年)以来宮中に設置されていた大本営において何度も御前会議を開き、政府と陸海軍の最高首脳らが、今後の日本の国策をどうするべきか議論を重ねていました。

もはやアメリカとの戦争が避けられないのは誰の目にも明らかでした。しかし、相手はあの大国アメリカです。この当時における日米の国力比較は、様々な統計から総合的に日本1に対してアメリカは10ないしそれ以上というもので、中でも原油生産量は、日本1に対してアメリカは720という絶望的な差がありました。(ちなみに、あまり知られていませんが、日本でも石油は新潟や山形などの日本海側で戦前から産出されています。しかしその産出量は、この時代年間20~30万トン程度で、当時の日本の年間最低需要の20分の1以下でした。これでは民間の船も海軍の艦隊も動かせませんね。)


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上がその御前会議の様子です。

当時日本はおよそ850万トンの石油を備蓄していました。これはアメリカによる日本への石油の全面禁輸措置までに、日本政府がアメリカの目をかいくぐり、あらゆる手段を講じて必死で溜め込んだもので、当時の日本の年間石油消費量の2年分に相当する量でした。当面の間はこれを取り崩す事で凌げるにしても、戦争では大量の石油を消費するため、例えば最も石油を消費する海軍が大作戦を行う事を想定すれば、それを差し引くと持ってせいぜい1年半程度です。

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上は山口県徳山市(現在は周南市)にあった海軍第3燃料廠の石油備蓄タンク群です。日本政府と海軍は横須賀、四日市、福岡(外地では朝鮮と台湾にそれぞれ1ヵ所。)などにも上の様な石油備蓄基地を建設して石油を蓄えていました。

そこで大本営陸海軍部は思い切った作戦を天皇に奏上します。それは一刻も早くアメリカやイギリスと開戦し、それと同時に東南アジアの資源地帯を迅速に占領、その資源を海上輸送で持ち帰って生産活動を続け、アメリカと長期自給の戦いが出来る国力を維持する。その間にすでにヨーロッパで戦争をしていた同盟国ドイツが破竹の勢いで勝利を続けるならば、日本もいずれ良い機会を狙って有利な条件で講和出来る様仕向けていく。というものです。

では、この戦略で最も重要な役割を果たす船舶について、太平洋戦争海戦直前の昭和16年末における当時の日本は、一体どれだけの船舶を保有していたのでしょうか? それについては詳細に研究された資料がいくつかあり、それを見ると大小合わせておよそ2440隻、トン数にして約640万トンであったそうです。(この数字は民間船舶の総数であり。戦艦や空母などの軍艦は含まれていません。)つまり、戦前のわが国はイギリス、アメリカに次ぐ世界第3位の大海運国だったのです。

この内、国民生活と国内の生産活動を維持していくためには、最低でも300万トンの船舶が必要とされていました。一方で日米開戦となれば、戦場は広大な太平洋であり、軍が兵や物資の輸送のために大量の輸送船が必要となります。これを残りの数に抑えていく事が長期戦を戦う絶対条件とされ、政府と陸海軍もこれに同意していました。

しかし、この戦略には1つの重大な「見落とし」がありました。それは海上輸送に使用する船舶が敵の攻撃を受けた場合の損害はどの程度なのか? という事がこの数字に含まれていないのです。

そこで政府側が軍部に質問したのが、

「アメリカの攻撃を受けた場合に日本の海上輸送をどうするのか? またその場合のわが船舶の損耗率はどの程度と見積もっているのかお伺いしたい。」

というものでした。しかし、それに対する大本営陸海軍部の答えは、実に虫のいい楽観的なものでした。

「船舶の損失は年に相当あると思われる。しかし防御を強化し、それに沈められた船に代えて新たに建造される船舶もあるのだから、日本の海運に差し支える事はない。」

軍部がこんな大雑把な答えに終始したのには理由があります。実はこの時日本には、それまで戦時における民間船舶の損失の経験がなく、当然それに関する資料が全く無いのです。しかし、天皇ご臨席の御前会議において、その様な根拠の無い無責任な返答をするわけにはいきません。そこで海軍が慌てて引っ張り出したのが、同じ島国の事例という事で、第1次大戦中のイギリスがドイツの潜水艦「Uボート」に受けた損害に関する資料でした。

それによると、輸送船の平均損失はトン数にして年間およそ60万トン前後と推定され、その程度ならば「なんとかやっていける。」と軍部は考えていたのです。また輸送船の長いシーレーンをどう守るのか? についてですが、実際には海軍は海上輸送に対する防御対策などほとんど考えていませんでした。当時の帝国海軍は、日露戦争が終わった直後からアメリカを仮想敵国としていましたが、その戦略は巨大な戦艦を海上戦力の中心とする相変わらずの「大艦巨砲主義」であり、当時の日本海軍の全ての艦艇はこうした時代遅れの考えで建造計画が進められ、整備されていました。つまり開戦当初、輸送船を護衛する専門の艦艇などほとんどなかったのです。(実際には、大正時代に建造された旧式の駆逐艦が30隻以上あり、海軍はこれらを輸送船の護衛に当てるつもりでいました。しかし、実戦ではレーダーもソナーもないこれらの古い老朽艦は、後のアメリカの潜水艦の雷撃の餌食になっただけでした。)

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上は太平洋戦争開戦直後の12月に完成した新型戦艦「大和」です。世界最大最強の戦艦としてあまりにも有名ですが、彼と2番艦「武蔵」の任務は、アメリカの大型戦艦をその巨大な主砲で打ち砕く事でした。(この大和級戦艦は戦局の悪化により2隻のみしか完成していませんが、すでに海上戦闘は航空機と空母を組み合わせた機動部隊が主力となっていたのに、日本海軍はこの大和級の超弩級戦艦を4隻建造する計画でいたのです。)この事自体、日本海軍が日本の生命線ともいうべき海上輸送(シーレーン)の防衛というものを全く考えていなかったのがお分かりいただけるでしょう。

こうして大日本帝国はアメリカとの戦争を決定してしまうのです。

1941年(昭和16年)12月8日、アメリカ太平洋艦隊の基地ハワイへの奇襲攻撃と時を同じくして、日本軍は一斉に東南アジア侵攻作戦を開始しました。開戦に当たり、日本は2つの戦争目的を掲げます。それは「自存自衛」と「大東亜共栄圏の建設」の2つです。開戦から半年で、大日本帝国は太平洋の西半分を征服し、本来の目的であった石油や鉄などの戦争遂行に必要な資源の獲得に成功します。このあたりは、歴史好きの方であれば良く知られた話ですね。


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上は太平洋戦争中の日本の最大版図として良く知られた地図と、インドネシアのスマトラ島パレンバン油田に降下する「空の神兵」ことわが陸軍空挺部隊です。

一方、アメリカは対日反攻作戦として、日本とは全く別の戦略を準備していました。それは「無制限潜水艦作戦」です。アメリカは、日本が資源も食糧も自給自足出来ない島国であるという決定的な弱点を良く熟知していました。そこでアメリカは日本を海上封鎖し、いわゆる「兵糧攻め」にするために大量の潜水艦を放って日本の船舶を片っ端から沈めていく作戦を開始します。

「日本に対して、空中からと潜水艦による無制限攻撃を開始せよ。」

この時、太平洋に展開していたアメリカの潜水艦はおよそ50隻で、これらは開戦と同時に日本の船舶を攻撃するため、西太平洋全域に散らばって行きました。しかし、この頃の戦局は日本軍が圧倒的優勢であり、船舶の損失も予想の範囲内でそれほど多くはありませんでした。そのため日本軍はアメリカ潜水艦を侮り、輸送船に単独航海を続けさせる愚を犯してしまいます。

開戦から半年間の予想外の勝利と大戦果に、当時の日本では国民が歓喜し、全国で戦勝祝賀のイベントが盛大に繰り広げられていました。特に、南方攻略作戦における最大のヤマ場であり、東洋におけるイギリス最大の要塞シンガポールを陥落させた際には、喜色満面のわが帝国政府が戦勝記念のお祝いとして、13歳以下の子供たちに箱入りのチョコレートやドロップ、ケーキなどを配ったそうです。(この時、いったい誰がそのわずか3年後の惨めな敗戦と、見渡す限りの焼け野原の中で飢えに苦しむわが国民の姿を想像出来たでしょうか?)時の東条首相は国民の戦意高揚を図るため、次の様な演説をしています。

「およそ戦争に勝つためには、物質的な武装とともに、精神的な武装が大切であります。物には限りがありまするが、ただ無限にして、無尽蔵なるものは、実にこの精神力であります。」


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上は当時の大日本帝国首相にして、陸軍大臣兼内務大臣の東条英機大将です。(1884~1948)すごい勲章の数ですね。(笑)アメリカに比べてはるかに劣る国力も、精神力で補えるのだというのが彼の持論でした。彼については太平洋戦争開戦の事実上の責任者として、世界中では下のイラストの様にヒトラーやムッソリーニと並ぶ「日本の独裁者」として極悪人扱いをされる事が多いのですが、陸軍を代表して開戦を強硬に主張していた彼も、昭和天皇から首相に任命され、陛下が和平を強く望まれている事を知ると自らの考えを変え、戦争終結に向けて見えない努力をしていた事実をここで述べておきます。

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上は拾いもののイラストです。(笑)

こうして初戦の勝利に酔っていた大日本帝国でしたが、その中で帝国海軍だけはとても焦っていました。なぜなら時間を置くに連れ、次第にアメリカとの国力、すなわち生産力の差が表れるのは目に見えていたからです。情報によれば、アメリカはすでに工業地帯をフル稼働させて大量の艦船の建造を進めており、そのペースは「4ヶ月で戦艦1隻、1ヶ月で巡洋艦1隻、10日で空母1隻、3日で駆逐艦2隻、1日で貨物船2隻を作る。」 という驚異的なもので、このまま時が過ぎれば、2年後の昭和19年以降には艦船の数だけで3倍以上の差が出てしまい、日本海軍が進めていた戦時建造計画など到底太刀打ち出来ないものであったからです。そのため海軍は一刻も早く太平洋で決定的な打撃をアメリカに与え、戦争の早期終結を図る必要に迫られていたのです。

そこで大日本帝国は、海軍主導の下で大幅な作戦地域の拡大を決定します。それは北はアリューシャン列島から南はフィジー諸島に至る広大な海域で積極攻勢に転じ、アメリカが続々建造中の艦船が完成しないうちに、アメリカ太平洋艦隊を撃滅して太平洋の制海権を全て日本の手中に収めてしまおうというものです。その第1段作戦として1942年(昭和17年)6月、日本海軍は総力を挙げてミッドウェー島の攻略を狙います。

その目的はハワイのアメリカ太平洋艦隊をおびき出し、艦船の数では4倍にも達する圧倒的な日本の全艦隊をもってこれを撃滅するというものです。(当時の日本海軍が、ハワイの攻略やアメリカ本土西海岸への攻撃まで考えていたかは諸説あって不明ですが、いずれにせよハワイの太平洋艦隊を叩かなくては先には進めない事は事実です。)しかし、その結果は無残なものでした。海軍の目論見は完全に裏目に出て作戦は大失敗、アメリカ軍の待ち伏せ攻撃で大事な主力空母を4隻も失い、これ以後、日本海軍は1度も戦局を挽回出来ずに一方的な敗退を繰り返していく事になるのです。

さらに同年8月、はるか南のオーストラリアの近く、ソロモン諸島のガダルカナル島で日米両軍の攻防戦が始まります。事の起こりは、日本軍がオーストラリアとアメリカとの連携の遮断を狙った「米豪分断作戦」の最前線基地として、この島に飛行場を建設した事に脅威を感じたアメリカが、太平洋での反攻作戦の第一歩をこの島の奪取に定めた事でした。日本軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪い返すために何度も陸軍部隊を上陸させます。

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上がそのソロモン諸島とガダルカナル島の位置です

しかし、この島は日本軍の補給基地ラバウルから1000キロも離れており、日本軍は上陸部隊への物資補給のために輸送船団を満足な護衛も付けずに何度も強行突破させたため、待ち構えているアメリカ軍機の攻撃で次々に輸送船を沈められてしまいます。結局、日本軍はガダルカナル奪還を断念して撤退しますが、この半年間の戦いで、日本軍は大事な輸送船を30隻以上も失ってしまったのです。やがて1943年(昭和18年)に入ると、海軍があれほど恐れていたアメリカの新型艦船が次々に就役し、太平洋にその姿を現し始めます。その中には大量の潜水艦も含まれており、日本の輸送船の被害が大きく増大していきました。

ここに来て船舶不足が深刻な問題となって大日本帝国に重くのしかかって来たのです。軍は開戦時に政府と取り決めた国民生活維持に必要な最低限の民需用船舶300万トンから、新たに62万トン軍用に廻すよう要求します。それに対し、東条首相はその半分を認めます。しかしこれでは戦争にならないと大本営は強く抵抗し、断固拒否していた東条首相もついに折れて大本営の要求を認めてしまうのです。そしてそれは日本の物資海上輸送の崩壊の始まりでもありました。

次回に続きます。
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