マリアナの七面鳥撃ち ・ ゼロ戦を破った空の盾

みなさんこんにちは。

みなさんは、現代のわが国が世界でも高度に科学技術が発達した「科学技術立国」である事は良くご存知の事と思います。それは下は私たちが日常使用している多くの高性能電化製品や、高燃費の自動車にはじまり、上は全く独力でロケットと人工衛星を打ち上げ、欧米人以外で最もノーベル賞を授与されている事からも立証されています。

その日本の「お家芸」である科学技術は、一般には戦後に培われたものというイメージがありますが、実際にはわが国は戦前から、局所的かつ限定的な範囲ではありましたが、相応の科学技術力は有していました。しかし、当時のわが大日本帝国は貧しく、大学以上の高等教育を受けられるのは、華族、軍人、官僚、地主などの裕福な家庭や上流階級の子弟といった生まれながらの身分に限られた人々のみで、その割合は3%程度(つまり大学進学者が100人の内3人という事です。ちなみに現在の日本の大学進学率は50%前後だそうです。)であったそうです。そのため、戦前の日本の科学技術は欧米諸国には遠く及ばない二流以下のレベルに留まるものに過ぎませんでした。

さらにもう一つの理由として、わが国は欧米諸国と違って明治維新の近代化から太平洋戦争開戦まで70年余りと短く、この年数では科学や技術の知識の蓄積や経験に雲泥の差があった事も挙げられます。そんな貧しく、高等知識人口も極めて限られた極東の島国である大日本帝国が、数少ない貴重で優秀な技術者たちを総動員し、太平洋戦争開戦の前年の1940年(昭和15年)に、世界を仰天させる驚異的な新型戦闘機を開発させました。その名は「零式艦上戦闘機」みなさんも良くご存知の「ゼロ戦」です。


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上がその「ゼロ戦」です。正式名称は「三菱A6M零式艦上戦闘機」といい、たまたま正式採用された昭和15年が、皇祖にあらせられる初代神武天皇ご即位の年を紀元元年として数えた皇紀2600年にあたり、その最後のゼロを取った年式で「ゼロ戦」と呼ばれる様になったという話は、歴史好きな方ならば良く知られているでしょう。その名の通り三菱重工業で開発された大日本帝国海軍の主力戦闘機です。(日本人なら子供でもいつしかその名を記憶している名戦闘機ですね。独特の丸みを帯びた翼が印象的な実に美しいデザインの戦闘機と思います。)

戦前のわが大日本帝国陸海軍の全ての兵器は、昭和に入ってからは軍艦を除いて皇紀の最後の数字を取った年式で呼ばれ、また当時は海軍の戦闘機は三菱、陸軍の戦闘機は中島飛行機(現在の富士重工)が製造していました。このゼロ戦は大きく分けて4つのタイプがあり、その中でも52型が最も多く、およそ6千機も生産されました。

最高時速565キロ、航続距離(これは簡単にいえば、燃料満タンの状態でどれだけの距離まで飛べるか? という事です。)およそ2200キロ、武装は強力な20ミリ機銃2門を装備し、小型ながら速力と格闘性能に優れ、その速力と軽快な運動性を生み出すため、脚を機体に折り曲げて格納し、機体に打った鋲を埋め込み型にし、エンジンの排気すらスピードアップに利用するなどといった最新の様々な工夫を凝らした、まさに当時の大日本帝国の科学技術の粋を集めた戦闘機でした。


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上の一連の画像はゼロ戦に施された画期的な技術です。1枚目はゼロ戦の骨組みと内部構造で、最高時速500キロを越えるために徹底して機体の軽量化が図られ、機体の骨組みには無数の穴が設けられています。2枚目は博物館に展示されているものですが、エンジンの排気を速度向上に利用するために設けられた後方に流す排気管です。(エンジンのカウリングと機体の間に見える4~5本の「パイプ」です。)これを取り付けた事により、最高速度は最初の530キロから20キロ以上も上がったそうです。3枚目はこれもスピードと運動性能向上のために機体に打たれた鋲を埋め込み型にしたものです。これにより空気抵抗が大きく減り、エンジンの馬力に比して時速500キロを越えるスピードを実現させました。

しかし、このゼロ戦には大きな致命的弱点がありました。それは徹底した軽量化のために防弾装備が全くなく、そのため銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまうという点です。そのツケは後の戦いで日本軍に重くのしかかる事になります。

ともあれ、このゼロ戦こそ大日本帝国の主力戦闘機として、太平洋戦争を戦うために生まれて来た存在といえるでしょう。このゼロ戦が太平洋戦争の前年に開発された事自体、まさに運命的なものを感じます。日本はこの戦闘機をもって今次大戦に突入し、大戦の全期間を通じておよそ1万400機ものゼロ戦を生産しました。ゼロ戦は期待に違わぬ性能で太平洋中を飛び回り、日本陸海軍の進撃を空から援護、連合国の戦闘機を次々に撃破し、アメリカをはじめとする連合国のパイロットに「ゼロファイター」と呼ばれ、

「死にたくなければゼロ戦と空中戦をしてはならない。後に付かれたらお終いだ。」

というブラックジョークが出るほど恐れられました。

このゼロ戦の出現は、特にアメリカに大きなショックを与えました。なぜなら当時アメリカ海軍にとって最大の敵であった日本海軍は、世界で最も空母を多く保有しており(開戦時10隻、そのうち大型主力空母は6隻で、その6隻の空母が搭載する日本の第一線航空戦力はおよそ400機。)その優れた熟練パイロットたちが操縦するゼロ戦の攻撃によって、アメリカはその艦艇がみな沈められてしまうのではないかという言い様のない恐怖感を持つに至ったからです。(その懸念はすぐにハワイの真珠湾で的中してしまいます。)

そこでアメリカは、このゼロ戦をはじめとする日本の攻撃機から水上艦艇を守るために、全米の大学、企業などからなんと「3万人」という日本とは比較にならない数の優秀な科学者や技術者を総動員し(当時の日本なら、全国からかき集めても果たして千人に達したでしょうか?)防御のための3つの大きな「盾」の開発を急ぎました。

1つ目はゼロ戦を上回る性能を持つ新型戦闘機の開発です。アメリカは各地で鹵獲した日本のゼロ戦を集め、それらのサンプルを徹底的に研究し、ゼロ戦を超える性能を持つ戦闘機を開発させました。それが「グラマンF6Fヘルキャット」です。


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上の画像は1枚目がアメリカ軍に鹵獲されたゼロ戦で、2枚目が復元された機体によるアメリカの航空ショーのものです。一緒に飛んでいるわがゼロ戦と比較してかなり大きくずんぐりした形をしていますね。(ちなみにこの「ヘルキャット」とは、直訳では「地獄の猫」という意味だそうですが、「性悪女」という意味もあるそうです。いかにもアメリカ人が好みそうなネーミングですね。笑)

このヘルキャットはアメリカの軍用機メーカーグラマン社で開発され、最高時速610キロ、航続距離は最大2500キロ、武装は12.7ミリ機銃6門、運動性もゼロ戦を上回る最新鋭戦闘機でした。また、このヘルキャットにはゼロ戦にはない大きな外形的利点がありました。それは「折りたたみ翼」です。


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上の画像を見ればお分かりの様に翼を大きく折りたためるのです。これによりアメリカの空母は日本の空母よりはるかに多い100機もの艦載機を搭載出来る様になり、それは直ちに航空兵力に大きな差を与える事になりました。一方日本はここまで折りたたむ技術を敗戦まで作れず、そのため日本の空母は最も多く艦載機を積めた翔鶴級空母で最大搭載機数は72機(実際は84機で、その差の12機は「補用機」として機体をパーツごとに分解し、普段は格納庫の側面に貼り付けて置いて、いざ大海戦となればそれらを格納庫内で組み立てるというやり方でした。)でしかありませんでした。まさに日米の技術力の差が大きく現れた一例でしょう。

2つ目は接近する敵の攻撃機を遠方から探知する電波探知機、いわゆる「レーダー」の開発です。


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このレーダーについては特に詳しい説明は不要でしょう。電波を出して対象物に跳ね返ったエコーからその距離と方向を知る事が出来る単純な論理の探知機ですね。アメリカは開戦前からこのレーダーの開発に力を注ぎ、上の2枚目の様に自動的に360度全方向を表示する「PPI」と呼ばれる優れたレーダーを完成させていました。(上の1枚目は空母レキシントンの艦橋にびっしりと装備されていた各種レーダー群です。方向や距離、高度などが極めて正確に探知出来、その情報を持っていち早く敵機の接近を知り、全艦に速やかな迎撃準備を行わせるためのものです。

これに対し、わが大日本帝国においてもレーダーの開発は開戦前から行われていました。しかし、その開発ペースは遅々として進まず、硬直化した精神主義に凝り固まった軍人たちの科学技術に対する無理解の下で、一部の技術者たちが細々と続けている程度に過ぎないレベルのものでした。

それでも、開戦後には徐々に帝国海軍の主要艦艇に続々とレーダー(当時は「電波探信儀」略して「電探」と呼んでいました。)が装備されていきます。しかし、その性能はアメリカのそれとは比較にならない低レベルなものでした。


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上は当時日本海軍で最大の空母であった翔鶴(しょうかく)型空母の2番艦である瑞鶴(ずいかく)の艦橋に設置された日本のレーダーです。しかし、アメリカのレーダーの様にクルクル回転して360度全方向を探知出来る様にはなっておらず、なんとアンテナを人力で動かし、その向けた方角しか探知出来ないという極めて不正確なものでした。また故障も多く、画像も不鮮明で、当時電測員と呼ばれた専門の技師が「勘」に頼って読み取ったというシロモノだったそうです。

当時の日本の艦艇は、優秀な視力を持った「見張り」の水兵たちに艦の防御が任されていました。双眼鏡や望遠鏡で遠くの目標を見分ける訓練で鍛え上げられ、それは「名人」とさえ呼ばれるほどでしたが、所詮は限界がありました。それに、そうした見張りは海上でしか役に立ちませんでした。なぜなら海上であれば「水平線」という指標があるのに対し、空の上には指標となるものなど何もないからです。

3つ目はこれが最も大きな威力を発揮したもので、敵機を確実に撃墜する驚異的な命中率を誇る画期的な対空砲弾「VT信管」(近接信管)です。


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上がこのVT信管の断面図です。弾頭内部に電波を放射する機器が詰め込まれています。このVT信管というものは、従来の対空砲弾の様に直接敵機に砲弾を命中させるというのではなく、砲弾から周囲15メートルの範囲に電波を出し、敵機がその範囲に入るとそれを感知して自動的に爆発、その破片と爆風によって直接砲弾が命中しなくても敵機を撃墜出来るという画期的な対空砲弾です。このVT信管も、アメリカがゼロ戦などの日本の新型戦闘機の脅威から自国の水上艦艇を守るために開戦前から多くの科学者を動員して開発した新兵器でした。

ゼロ戦と、それに対抗してアメリカが開発した3つの空の盾、これら日米の科学技術力を結集した兵器が、やがて本格的な対決をする時がやって来ます。1944年(昭和19年)6月の「マリアナ沖海戦」です。

この戦いは、第2次世界大戦の枢軸国すなわちドイツ、イタリア、日本の3カ国のうち、すでに前年9月にイタリアが早くも脱落し、もはや劣勢が明らかとなったドイツ、日本に対し、本格的な反抗作戦を開始したアメリカ、イギリスなどの連合国が、太平洋における日本への反撃の第2弾として狙った中部太平洋の要衝サイパン島攻略に対し、サイパンを絶対国防圏と定める大日本帝国が、その阻止と敵艦隊の撃滅を図って起きたものです。

それではなぜアメリカはこのサイパン島を狙ったのでしょうか? それはある「秘密兵器」の存在が大きく影響していました。その秘密兵器とは、アメリカが開発した長距離大型戦略爆撃機「B29」です。


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上がそのB29です。日本ではこの名が一般的ですが、アメリカ軍では「スーパーフォートレス」(超要塞)と呼ばれていました。航続距離はおよそ6500キロ、最大速度はゼロ戦並みの570キロで、最大9トンもの爆弾を搭載出来、日本機の飛行上昇限度をはるかに越える最大9700メートルもの高度まで飛行出来るまさに「空飛ぶ超要塞」でした。(この独特の丸いコックピットは、われわれ日本国民にとって「憎たらしい」顔ですね。このB29こそ、大日本帝国の息の根を止めた「地獄の使者」といえるのではないでしょうか。)

このB29は1944年には運用を開始、サイパンを基地とすれば、日本本土への長距離戦略爆撃が可能となるのです。そこでアメリカ軍は、このサイパン奪取のために前回お話したレイモンド・スプルーアンス大将麾下のアメリカ第5艦隊を主力とする大艦隊と、上陸部隊総勢7万からなる大軍をもって進行して来たのです。

これに対し、迎え撃つ大日本帝国ではアメリカ艦隊を撃滅する「あ号作戦」を発動します。日本海軍はアメリカ艦隊との決戦に備え、戦艦中心だったそれまでの艦隊編成を改め、戦艦を主力とする第1艦隊を廃止し、戦艦と重巡洋艦などの水上打撃部隊からなる第2艦隊と、空母を主力とする第3艦隊に分け、この第2、第3艦隊を合わせて「第1機動艦隊」を編成し、アメリカ艦隊との決戦に備えていました。日本機動艦隊の総司令官は小沢治三郎(おざわ じさぶろう)中将で、彼はこの時に備えて温存してきた航空戦力と、とっておきの作戦を準備してこの戦いに臨もうとしていました。


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上が第1機動艦隊司令長官小沢治三郎中将です。(1886~1966)彼はもともとは敵艦隊に魚雷攻撃を仕掛ける水雷戦隊(駆逐艦隊)出身でしたが、空母の重要性にいち早く目を付けてからは熱心に空母の戦術を研究し、それを買われて自らその指揮を取る事になった海軍でも開明的な提督でした。

この時に小沢が秘めていた取って置きの作戦とは、「アウトレンジ作戦」というものです。これは日本の空母艦載機の航続距離がアメリカのそれより長い事の特性を活かしたもので、簡単にいえばアメリカ艦隊の艦載機の行動範囲の外からいち早く攻撃隊を発進させれば、理論上は「必ず勝てる」(少なくとも味方艦隊への損害は無い。)という作戦です。

1944年(昭和19年)6月15日、アメリカ軍はサイパン攻略作戦を開始、迎え撃つ日本軍守備隊との間で凄まじい水際での攻防戦が繰り広げられます。この報に際し、すでにB29の存在と脅威をご存知であられた昭和天皇は、陸軍大臣に参謀総長も兼任していた東条首相と、海軍大臣兼軍令部総長の嶋田繁太郎大将を宮中にお呼びになり、東条参謀総長に対してサイパン島喪失の場合のB29による本土空襲への懸念を述べられています。また嶋田軍令部総長に対しては、次の様な激励のお言葉を発せられました。

「この度の海戦は、帝国の興隆に関わる重大なるものなれば、日本海海戦のごとく立派なる戦果を挙げる様、作戦部隊の奮励を望む。」


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上は大日本帝国第124代天皇にして、帝国陸海軍大元帥にあらせられた昭和天皇です。

天皇からのお言葉は嶋田総長から小沢中将に伝えられ、彼は必勝の信念を胸に、全艦隊を率いてマリアナ沖へと出撃していきました。この時点における日米の戦力比較は、わが日本艦隊が戦艦5隻、空母9隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦23隻に、支援艦船として艦隊へ給油する燃料を積んだ油槽船(タンカー)6隻、これを護衛する軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻、海防艦5隻など総勢68隻に空母艦載機は450機(この数字については、440機から498機など補用機を含むか否かで諸説あります。)を数えました。対するアメリカ艦隊は戦艦7隻、空母15隻、重巡洋艦8隻、軽巡洋艦12隻、駆逐艦67隻など、水上戦闘艦艇だけで総勢100隻、空母艦載機に至っては900機に達する大艦隊でした。(この時、日本は持てる艦船と航空機の全てを投入していましたが、アメリカの方はこの時期すでに艦船、航空機ともに日本の2倍に達していました。)

第1機動艦隊はマリアナ沖に群がるアメリカ艦隊を撃滅するため、6月19日にマリアナ諸島近海に接近します。小沢長官は「アウトレンジ作戦」の発動を指令、第1次攻撃隊240機が次々に発艦して行きました。この瞬間、艦隊司令部も東京の軍令部も喜びに包まれ、大戦果を待ちわびました。この時、9隻もの空母から次々に飛び立ち、空を覆うわが航空部隊の姿に、第1機動艦隊では戦う前から

「これは勝ったも同然だ。これだけの大軍ならば今度こそ負けるはずはない。」

と小沢長官以下、幕僚や多くの将兵たちがそう思い込むほどの興奮に包まれていたそうです。しかし、彼らの期待はこの後大きく打ち砕かれてしまう事になるのです。

日本艦隊が第1次攻撃隊を発進させた後、アメリカ艦隊では最新のレーダーで日本の攻撃隊の接近を察知していました。アメリカ軍は直ちに迎撃のために戦闘機を発進させます。その主力は先に述べた「ヘルキャット」でした。そうとは知らない日本編隊は、アメリカの戦闘機隊が待ち受ける空域に飛び込んでしまいます。アメリカ編隊は日本編隊の真上から何段にも重なって攻撃を開始、重たい爆弾や魚雷を抱えて身動きの遅い日本編隊は大混乱に陥り、次々にヘルキャットの餌食となって撃墜されていきました。

この時の日本の攻撃隊のパイロットたちは、その多くが操縦経験も未熟な二十歳前後の若者たちでした。なぜならこれまでの戦いで大日本帝国は多くの熟練パイロットを失っており、また彼らはこの大事な作戦の前においても、燃料不足などから空母への発着艦の訓練すら満足に受けられませんでした。そのため、敵機との空中戦や回避のための高度な技量が身に付くはずがなかったのです。

それでも、なんとかヘルキャットの迎撃をかわした攻撃隊の一部は目指すアメリカ艦隊を発見、攻撃のため猛然と突っ込んでいきます。しかし、その日本攻撃隊に待ち受けていたのは、あのVT信管付き砲弾をセットした猛烈な対空砲火の炸裂の嵐でした。


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上がその様子です。1枚目はアメリカ軍の40ミリ機関砲で、2枚目はVT信管付き砲弾の炸裂する様子です。(海上に落下して水しぶきを上げている砲弾の破片に注目して下さい。1つの砲弾でこれだけの範囲に破片が散らばるのですから、そこに飛び込んだ飛行機はひとたまりも無いのがお分かりいただけると思います。)

どの砲弾もかつてないほどの精度で日本機の近くで炸裂し、この凄まじい対空砲火のために日本攻撃隊は全く手も足も出ずに壊滅してしまったのです。

一方大戦果を待ちわびる日本艦隊司令部では、次第に不安の色が出始めます。それもそのはずで、攻撃隊から全く何の連絡も入らないのです。しかし、この時わが攻撃隊はその大半が戦況報告の打電をする暇もなくほぼ全滅していました。

翌日、アメリカ艦隊の反撃が始まります。日本艦隊追撃のため、アメリカ攻撃隊216機が発進します。一方日本艦隊も、この時主要艦船にレーダーが装備されてはいましたが、日本艦隊旗艦、空母大鳳(たいほう)のレーダーがアメリカ攻撃隊の接近を探知した時には、もう敵は間近に迫っていました。(この時の司令部の幕僚だった方の証言では、もう肉眼で敵機が見える頃になって「敵機接近」の報告が来たのには「呆れてしまった」そうです。)

前日の戦闘で大量のゼロ戦を出撃させ、そのほとんどを失っていた日本艦隊には、これを迎え撃つ援護の戦闘機も、それを発進させる時間すらもありませんでした。


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上はアメリカ軍機の攻撃を受け、対空砲火で応戦しつつ回避行動をとる第1機動艦隊です。しかし、射撃を全て目測に頼る日本艦隊の対空砲火では、襲いかかる200機以上の敵機の攻撃を完全に防ぐ事は出来ませんでした。

この2日間の海戦で、大日本帝国は出撃させた9隻の空母の内、就役したばかりの新型空母であった旗艦大鳳をはじめ、大型空母3隻が撃沈、軽空母4隻を大破され、さらに艦載機400機以上を失い、これ以後、太平洋における制海権と制空権を完全にアメリカに奪われてしまいます。マリアナ沖の大敗は東京の日本帝国海軍軍令部の期待を大きく打ち砕きました。当時の軍令部の士官だった方の証言では、みんな徹夜で軍令部に泊り込んでいたそうですが、朝になって軍令部総長の嶋田海相がこの敗北の報告を聞くと、彼は居並ぶ海軍幕僚たちの前ではばかりもせず、

「がっくりと肩を落とし、椅子から立ち上がる事も出来ずにいつまでも座っておられた。」

そうです。(この時の彼らの心情は想像を絶しますね。)

一方勝利したアメリカ軍側では、第5艦隊司令スプルーアンス大将がワシントンに次の様な報告をしています。

「これほど損害の少ない勝利は、わが軍にとって開戦以来初めての事であった。レーダーなどの新型兵器の開発に心血を注いできた事が、決して無駄ではなかった事が立証された。」

このあまりの一方的な勝敗の結果に、アメリカ軍将兵はこの戦いを「マリアナの七面鳥撃ち」と名付けて一層勝利への自信を深めました。ほどなく救援の望みを絶たれたサイパン島の日本軍守備隊約3万は、日本人住民2万2千を道連れに玉砕して全滅。サイパンはアメリカ軍の手に落ち、昭和天皇が恐れられたB29の日本本土空襲によって、大日本帝国は敗戦へと追い込まれてしまうのです。

戦後、アメリカは日本の科学技術について詳細な報告書を作成しています。その中には次の様な一文がありました。

「日本の軍部は、現代の戦争における科学技術の兵器への活用の重要性を認識出来なかった。優れた科学者を擁しながら、人的資源を有効に活かせなかったのは、全て軍部の独善と偏見によるものである。」

次回に続きます。
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