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ガダルカナル島攻防戦(前編)・ オーストラリアを目指した日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは「攻勢終末点」という言葉をご存知でしょうか。これは言葉を変えて言えば「攻撃の限界点」とも言えるもので、戦争において敵国に侵攻し、優勢であった攻撃側の国が、占領地域の拡大と本国との距離の増大、そしてその国の国力の限度からその維持が限界点に達し、やがては攻守が逆転していくという考え方です。

これは19世紀初頭のナポレオン戦争時代に、当時ドイツ東部にあったプロイセン王国の将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツによって提唱された軍事理論の1つで、彼は戦争の拡大と長期化が招く危険性を指摘し、戦争は出来る限り短期決戦で臨み、大勝利を収めた時点で攻撃側が優勢なうちに早期講和と外交的解決を図るべきであると説いています。


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上がそのカール・フォン・クラウゼヴィッツです。(1780~1831)彼は上で述べた様にナポレオン戦争期のプロイセンの陸軍少将で軍事学者でもあり、自らもそのナポレオンと戦った名将です。ナポレオンの栄光と転落を目の当たりにし、ナポレオンが続けた戦争とその失敗の事例から多くを学び、それを研究して著した著作「戦争論」は、その後の世界中の軍人、歴史学者に大きな影響を与えました。現在でも欧米の陸軍士官学校はもちろん、わが国の防衛大学校においても必ず学ぶ人物です。

戦争論〈上〉 (岩波文庫)

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このクラウゼヴィッツの「戦争論」は、中国の兵法家孫子の「兵法」と並んで戦争の常道を表した古典的名作として名高いものですが、孫子の兵法の様に「簡潔」なものではなく、残念ながら未完成かつ非常に文章が長くて難解(自分の読感でも説明が長くてまわりくどいと感じました。しかし、そもそも学者の書いた研究論文的なものですし、また小説や物語の様に面白おかしいフィクションではないのですから当然でしょう。)である事から多くの方が途中で挫折してしまう様です。(笑)

岩波文庫から上・中・下巻(各巻1100円程度でページ数は360~480ページ)また中公文庫から上・下巻(各1300円程度でページ数はそれぞれ600ページを越えます。)などが出版されており、ご興味を持たれた方はこのどちらかを選ばれるのが良いでしょう。(表紙のデザインは岩波文庫版の方が良いと思います。)

このクラウゼヴィッツの理論は、その後の幾多の戦争においてもその正しさが立証されていますが、当ブログの今回のテーマの主役であるわが大日本帝国も、その自らが引き起こした大戦争である太平洋戦争において、クラウゼヴィッツがその危険性を訴えた国力の限度を越える戦争の拡大という愚を犯し、絵に描いた様な彼の理論通りの展開を招いてしまいます。今回はそのターニングポイントとなった「ガダルカナル島の戦い」についてのお話です。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は東南アジアのほぼ全域を制圧。翌1942年1月下旬にはニューギニアの近くビスマルク諸島の要衝ラバウルを占領しました。このラバウルはその地形と良港に恵まれた天然の要塞で、日本軍はここを南太平洋における最大の軍事拠点として活用します。


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上が日本軍占領下のラバウルとその位置です。多くの日本艦船が湾内に停泊しています。(上空を飛んでいるのはゼロ戦と並んで大戦中の日本海軍の主力爆撃機であった「一式陸上攻撃機」です。)

日本軍がこの地を占領した理由は、大日本帝国にとってアメリカ以外の連合国としては最大の敵である南のオーストラリアの動きを抑え、そのオーストラリアとアメリカとの連携を遮断するためでした。しかし、ここで日本軍内部において、今後の戦争遂行と作戦面における見解の相違が露呈します。日本海軍は巨大な生産力を持つアメリカに対して長期戦は絶対不利として、早期決着のために戦線を拡大し、積極攻勢でアメリカ太平洋艦隊を撃滅してアメリカの継戦意欲の喪失を図るとともに、同時にオーストラリアを占領して大日本帝国の資源供給地である東南アジアへの連合軍の反抗を阻止する事を主張します。


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上は日本海軍が思い描いた占領地域の拡大図です。オーストラリアはおろか、インドやニュージーランドまで入っていますね。当時のわが帝国海軍は本気でこんな事が可能だと思っていたのでしょうか?

こうした海軍に対し、中国戦線の早期決着を図りたい日本陸軍は、東南アジアを占領した時点で長期持久戦に入り、それ以上戦線を広げない方針でした。(実は意外なのですが、日本陸軍は開戦後においてもアメリカと戦う事などあまり考えていなかったのです。その理由は日本陸軍の仮想敵国は当時のソ連であり、中国大陸や満州を主たる戦場に想定していたからです。)

それに兵力と物資輸送の問題もありました。海軍は陸軍3個師団(およそ4~5万)をもってオーストラリアに上陸、ポートダーウィンなどの北部沿岸地域を占領するつもりでいましたが、中国大陸と満州に40個師団、およそ130万以上もの大軍を釘付けにされていた陸軍は、東南アジアを占領するために兵力と輸送船をかき集めるのが精一杯で(日本陸軍が東南アジア征服のために準備出来た兵力は、開戦時11個師団およそ21~22万程度でした。)オーストラリアにまで差し向けられる兵力など、とてもそろえる事は出来なかったからです。

そこで大本営陸海軍部は作戦面で妥協を図ります。それはオーストラリア侵攻を断念する代わりに、ソロモン諸島のさらに南に広がるフィジー、サモア、ニューカレドニア諸島などを攻略、これを占領する作戦です。海軍はこの程度であれば、兵力は多くても1個連隊(約2~3千)程度で済み、最小のコストでオーストラリアとアメリカの連携を遮断出来るだろうと提案し、陸軍の同意を引き出します。

日本海軍は1942年(昭和17年)4月から早速作戦を開始します。まずはこれらの島々の近くにそのための前線基地を造らなくてなりません。しかし先に述べたラバウルでは遠すぎて兵や物資の輸送が困難です。そこで海軍が目を付けたのが、ソロモン諸島中央部に浮かぶガダルカナル島でした。


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上の画像の1枚目がガダルカナル島の位置と日本との距離です。ざっと5500キロも離れていますね。そして2枚目が日本軍が島に建設した飛行場で、島のルンガ岬の近くであった事から「ルンガ飛行場」と名付けられました。3枚目はその飛行場の現在の姿で、今はソロモン諸島の空の玄関「ホニアラ空港」として使用されています。

ここで、このソロモン諸島とガダルカナル島の名前の由来について簡単にお話しておきますが、このソロモン諸島は16世紀の大航海時代にこの地にやって来たスペインの探検隊がこの島で「砂金」を発見し、これが旧約聖書に登場する「ソロモン王の財宝」であると信じた事からその名が付けられたそうです。また、「ガダルカナル」というのはその探検隊のスペインの故郷の地名から付けられました。(現地の固有名詞ではないのですね。)

その後、19世紀の終わりごろにイギリス領になりましたが、今次大戦で日本軍によって占領され、太平洋戦争の激戦地として知られる様になるまで歴史に登場するはずのなかった南の島です。大きさは日本の栃木県とほぼ同じくらいで、島としては大きいですね。現在はソロモン諸島共和国の首都が置かれ(首都はホニアラで人口はおよそ5万、ソロモン諸島の国全体の人口は52万ほど。)かつてここで、合計10万に達する日米両軍の血みどろの激戦があったとは思えないほどの静かで平和な常夏の国です。

この急ごしらえの短い滑走路1本だけの小さな飛行場が、日本軍の南方における最南端の前線基地でした。1942年(昭和17年)8月、飛行場はいつでも基地として活用出来るまでに完成していましたが、これに大きな脅威を感じたアメリカ軍は、太平洋における日本への反攻作戦をこの島の奪還から開始する事に決定し、輸送船23隻に分乗した第1海兵師団1万9千と、それを護衛する空母3隻を主力とする50隻ほどの艦隊で上陸作戦を開始しました。


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上は1942年8月7日、ガダルカナル島に上陸するアメリカ海兵隊と、第1海兵師団長アレクサンダー・ヴァンデグリフト少将です。(1887~1973)彼は後に大将に昇進、アメリカ海兵隊総司令官に就任します。当時アメリカはまだ戦時生産体制が整っておらず、艦艇は既存のものを使うしかありませんでした。そのためアメリカは、太平洋にあったほとんど全ての艦船をこの作戦に動員したそうです。

この時島にいた日本軍はおよそ2200名でしたが、戦闘部隊は陸戦隊が400名足らずで、大部分が飛行場建設の労働者でした。そのためアメリカ軍はその日の内にガダルカナルを無血占領したのです。これに対し、日本軍はただちに反撃を開始します。ラバウルにあった使用可能な全機(先に述べた一式陸上攻撃機27機、艦上爆撃機9機、護衛のゼロ戦17機)を発進させて飛行場を爆撃すると同時に、駐留していた第8艦隊(重巡洋艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦1隻)にも出動を命じ、その夜にガダルカナル島近海に群がるアメリカ艦隊に夜襲をかけ、重巡洋艦4隻と駆逐艦1隻を撃沈する大戦果を挙げます。(第1次ソロモン海戦)

この海戦で日本艦隊は軍艦ばかりに攻撃を集中したために、今だ多くの輸送船に分乗していたアメリカ軍部隊はからくも難を逃れましたが、それでも一夜にして沈んだ艦船の乗組員1000名以上が犠牲になり、アメリカ艦隊は大変な心理的パニックに陥ります。何しろ先に述べた様に、アメリカ軍はこの時に太平洋艦隊のほとんどをこの作戦に投入しており、大事な空母3隻などを失う恐怖感から、一時的に護衛艦隊の大半が上陸している味方を残して日本軍の手が届かない安全海域まで退避してしまったからです。

夜が明けてからこれを知ったヴァンデグリフト少将ら上陸していた海兵隊は、味方艦隊の弱腰に怒り、同時に今だ飛行場に航空機すら一機も配備されていない状態で、敵日本軍の制海・制空権下にあるこの地に取り残された絶望感に打ちひしがれたそうです。(後に圧倒的な物量と最新兵器で日本を追い詰めていく強大なアメリカ軍も、この頃はまだ見ぬ敵日本軍に対して恐る恐るだった事が分かりますね。)

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上は作戦行動中の一式陸上攻撃機の編隊です。この爆撃機は最高速度450キロ、爆弾搭載量1トンの双発爆撃機で、日本軍の主力爆撃機として2400機以上生産され、大戦の全期間を通じて使用されましたが、前回お話したゼロ戦と同様防弾装備が全くなく、主翼部分がそのまま燃料タンクとなっていたために、一発でも銃弾を受けるとすぐに燃えてバラバラになってしまう事から、アメリカ軍パイロットに「ワンショットライター」と揶揄される脆いものでした。

このアメリカ軍のガダルカナル島上陸は、直ちに東京の大本営陸軍参謀本部に伝えられました。しかし、当の大本営では、その時このガダルカナルという島がどこなのか、誰もその名前すら知りませんでした。当時大本営陸軍部の参謀であった方はこう証言しています。

「太平洋は海軍の担当だというのが開戦前からの取り決めであり、これは海軍の事だから大した事は無いと参謀本部の者は誰もそれに注意を払わず、ガダルカナルという島がどこにあるのか、地図を引っ張り出して初めてその位置を知る様なそんな状態から事は始まったのです。」

ともかく大本営陸軍部は、8月18日にガダルカナル奪還のための第1陣が送り込みます。しかし、それは一木清直(いちき きよなお)大佐率いる1個連隊(2300名)の先遣隊およそ900名というわずかなものでした。


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上がガダルカナル奪還部隊第1陣の司令官一木大佐です。(1892~1942)彼の連隊は、北海道の旭川第7師団に所属する日本陸軍の精鋭部隊でした。

それにしても、2万近いアメリカ軍に対してなぜ日本軍はこれほどわずかな兵力しか差し向けなかったのでしょうか? それはなんといっても情報を自身に良い様にしか受け取らない日本軍の悪いクセが災いしたのが大きな理由でしょう。日本軍はこんな最果ての小さな島に、アメリカがこれほどの大軍を差し向けてくるとは思わず、せいぜい1個連隊(2~3千程度)と甘く見積もっていたからです。また、当時日本陸軍は中国の蒋介石政権を屈服させるためにおよそ100万の大軍を動員する「重慶侵攻作戦」を計画していました。そのため、南太平洋方面に差し向ける陸軍兵力はわずか1万程度でしかなかったのです。

さて、駆逐艦6隻に分乗してガダルカナルに上陸した一木部隊は、敵がこれほどの大部隊であるとも知らずに夜陰に乗じて白兵突撃による飛行場奪還作戦を開始します。これを支援する火力は機関銃8丁と大砲2門だけでした。一方日本軍のこの動きに対し、アメリカ軍はすでにそれを察知していました。飛行場の周囲に塹壕が掘られ、なんと300丁以上の機関銃を配備して日本軍を待ち構えたのです。深夜、日本軍900名は闇にまぎれて銃剣突撃を開始します。しかし、その彼らの前にかつて目にした事のない光景が広がりました。凄まじい機関銃の十字砲火です。


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この攻撃に日本軍は全く手も足も出せず、夜が明けると日本軍は司令官一木大佐以下ほぼ全滅していました。上はその時の写真ですが、これは歴史上それまで不敗を誇ってきた日本軍の敗れた姿を写した最初のものといわれています。

この第1次ガダルカナル奪還作戦の失敗は、すぐに東京の大本営に伝えられます。大本営は現地軍に再びガダルカナル奪還部隊を差し向けるよう指令、その第2陣として9月に入り、川口清武(かわぐち きよたけ)少将率いる1個旅団がガダルカナルに送り込まれます。今回の兵力は6200名に増強されました。


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上の写真最前列中央が川口少将です。(1892~1961)この時の日本軍はアメリカ軍の3分の1に過ぎず、その戦法も一木部隊と同じ夜襲による白兵突撃で、これを支援する火力も機関銃60丁と大砲20門しかありませんでした。

川口旅団およそ6千は再び夜襲による銃剣突撃を決行、そして一木部隊と同じ目に遭って多大な犠牲を出し、作戦はまたも失敗してしまいます。この時、川口少将は慌てて撤退する途中で、彼がルンガ飛行場奪還に成功した暁に着用するつもりであった礼装用の軍服を置き忘れ、それを発見したアメリカ軍将兵はこんなジョークを言ったそうです。

「カワグチ将軍は、きっとシドニーの社交界で大いにモテるつもりだったに違いないよ。」

一方、2度の失敗に東京の日本帝国大本営は業を煮やします。そこで大本営は事態打開のため、現地軍に任せきりにしていた作戦を大本営直轄に切り替え、参謀本部きっての名参謀を当地に派遣します。その名は辻政信中佐。そしてその後日本軍は、ガダルカナルの戦いにおいてこの1人の参謀に大きく振り回されていく事になります。

次回に続きます。
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