ガダルカナル島攻防戦(後編) ・ 距離に敗れた日本軍

みなさんこんにちは。

1942年(昭和17年)5月、飽く事を知らぬ野望を抱いたわが大日本帝国は、ついに赤道を越えてその手を地球の南半球に伸ばし、その周辺の島々に軍を差し向けました。「米豪分断作戦」の始まりです。この作戦はそもそも海軍が立案し、陸軍に持ちかけたものですが、その目的は前回もお話した様に、オーストラリアとアメリカの間に連なって横たわる周辺の島々(フィジ-、サモア、ニューカレドニア諸島など)を攻略、これを占領する事で、両国の間に「楔」を打ち込み、その軍事的連携を遮断してオーストラリアを孤立化させる事でした。

日本海軍はそのための前線基地として、ソロモン諸島のほぼ中央に位置するガダルカナル島に飛行場を建設し始めます。しかし、これに大きな脅威と不安を感じたアメリカとオーストラリアは、これ以上の日本軍の南進を阻止すべく、陸海共同でガダルカナル島に上陸、これを占領してしまいました。

ここに、半年間に及ぶ日米両軍の太平洋の支配権をかけた死闘が始まったのです。日本軍はアメリカ軍に奪われた飛行場を奪い返すために、これまで2度に亘って陸軍部隊を差し向けました。しかし、その兵力は合計7千余りと、2万に達するアメリカ海兵隊の3分の1程度に過ぎず、しかも2度とも無謀で時代遅れな銃剣による白兵突撃を繰り返し、その都度アメリカ軍の数百丁の機関銃の十字砲火の餌食となって壊滅してしまいます。

この2度の失敗により、はるか離れた東京の大本営は、ようやく事態の深刻さを悟る様になりました。そうでなくてもこのところ大日本帝国は、1942年(昭和17年)4月のアメリカ軍爆撃機16機による史上初の日本空襲、5月に実施したニューギニアのポートモレスビー攻略作戦の失敗、そして何よりショックだった6月のミッドウェー海戦における空母4隻の喪失など、戦局の低迷が相次いでいるのです。こうしている間にも、アメリカは着々と戦時生産体制を整えており、この様な所でモタモタしていれば、アメリカに日本への一大反攻への時間と猶予を与えてしまう事になってしまいます。大本営中央は焦りを募らせていました。

そこで大本営は、それまで現地軍に任せていたガダルカナル奪還作戦の指揮権を「大本営直轄」とし、今度は本腰を入れて直接作戦を指揮するために大本営直属の参謀を現地に派遣し、一気に戦況の打開を図ろうとします。その名は辻政信(つじ まさのぶ)中佐と言い、開戦時のマレー・シンガポール攻略作戦を成功させた名参謀でした。ところで、戦時中の日本を語る上で必ず登場するこの「大本営」というものは、そもそも一体どんな組織なのでしょうか? ここでごく簡単にそれをお話して置きたいと思います。

歴史好きの方でなくても、ごく普通に教育を受けていれば、現代国家というものが司法・立法・行政の3つの権利を基礎として成り立っているという事は、一般常識としてご存知の事と思います。(いわゆる「三権分立」というものです。司法は裁判を行う権利、立法は法律を制定する権利、行政はその法律を執行する権利ですね。)これらはそれぞれ独立しており、わが国であれば司法は裁判所、立法は国会、行政は内閣がそれぞれその権利を行使しています。

しかし、戦前のわが大日本帝国では、今の日本にはないもう一つの大きな権利がありました。それは「統帥権」というものです。この統帥権とは、簡単に言えば軍の指揮権、すなわち大日本帝国陸海軍の指揮命令権の事で、これを持つのは大日本帝国の統治者であり、帝国陸海軍の大元帥であった天皇でした。


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上は白馬にまたがり、大元帥として軍を閲兵されている昭和天皇です。

しかし、現実には天皇お一人で全軍の指揮統率をする事は非常に困難です。そこで天皇の統帥権を補佐し、天皇に代わって実際に帝国陸海軍に指揮命令を下していたのが「大本営」という組織です。この大本営は陸軍と海軍でさらに別れ、陸軍の事ならば大本営陸軍部が、海軍ならば同じく海軍部がそれを担っていました。ちなみにこの「大本営」は、戦時に大元帥である天皇の下に置かれるものであり、常設のものではありません。戦時に天皇のおられる場所が「大本営」であり、そのため大本営という決まった建物などが存在していたわけではありませんでした。(つまり、天皇が皇居におられれば宮中に設置され、軍の視察などで各地に臨幸される場合は、その滞在地が臨時大本営です。そもそも「大本営」という語源も、軍の総司令官が陣を敷く司令本部の意味を表しています。)

先に述べた三権同様この統帥権は独立したものであり、何より天皇の持つ絶対神聖不可侵の大権でした。そのため大本営の参謀たちはその無敵の威光を背景に、軍の作戦決定に当たって行政を担う帝国政府の長である内閣総理大臣でさえ口をさしはさむ事は一切出来ない強い権限を持っていたのです。そして、大日本帝国において何者も逆らえないその強大な権限を持って現地に乗り込んだのが辻中佐でした。


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上の1枚目が東京の市ヶ谷にあった旧陸軍省の建物です。もともとはその4年前の昭和12年に陸軍士官学校の本部庁舎として建てられたものですが(そのせいか、飾り気も素っ気もない学校の校舎の様な外観をしていますね。笑)1941年(昭和16年)以降、向かって左側に陸軍省、右側に参謀本部が置かれる様になりました。(現在は、平成19年の防衛省の移転と同時に取り壊され、一部が記念館として同じ敷地内に移築されています。かつてここで、戦後に極東国際軍事裁判が開かれ、作家の三島由紀夫が自決するなどのセンセーショナルな事件があったいわく付きの建物です。)

2枚目が大本営陸軍部参謀の辻政信中佐です。(1902~1961)彼は陸軍士官学校から陸軍大学校まで、常に主席か次席というトップクラスの優秀な成績で卒業した日本陸軍のエリート中のエリートで、開戦以来の日本陸軍のほぼ全ての作戦の立案に携わり「作戦の神様」などと周囲から持ち上げられていました。しかしこの人物、頭の回転は速いものの非常に気性の激しい極端な性格で、それは彼の一連の強気の作戦指導にも現れており、そのために日本軍は大きな犠牲を払う事になります。(彼にまつわるエピソードは枚挙に暇がないので、ここでは割愛させていただきますが、非常にキャラクターの濃い問題人物であった事だけはここで申し上げておきます。)

1942年(昭和17年)10月、大本営は兵力をさらに増強し、丸山政男中将麾下の第2師団およそ1万3千を現地に派遣します。すでにラバウルに到着していた辻参謀は、2度の作戦の物理的な失敗は「火力の不足」にあると断じ、今度は出来るだけの火砲をガダルカナルに陸揚げして正面突破を試みるつもりでいました。


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上がガダルカナル奪還部隊の第3陣として送り込まれた第2師団長丸山政男(まるやま まさお)中将です。(1889~1957)彼の率いる第2師団は、宮城県仙台市基幹の部隊で、「夜襲」を得意とする歴戦の師団でした。

一方、日本軍の2度の攻撃を撃退したアメリカ軍は、日本軍から奪い取ったルンガ飛行場を「ヘンダーソン飛行場」と名付け(由来はミッドウェー海戦で戦死した同名の人物にちなんでいるそうです。)戦闘機を常駐させて周辺の制空権を握るとともに、新たに「第2飛行場」を建設して日本軍の来襲に備え、迎撃態勢を整えていました。


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上の1枚目が上空から見た「ヘンダーソン飛行場」です。右端に写る本来の飛行場に加え、アメリカ軍が新たに建設した第2飛行場が左にあるのがお分かりいただけるでしょう。(日本軍が1本の滑走路を作るのに2千の人員の手作業で3カ月かかっていたものを、アメリカ軍は数十台のブルドーザーで、少なくとも4本の滑走路をわずか1ヶ月で築いていました。)2枚目はずらりと並ぶアメリカ軍戦闘機です。

1万3千もの大部隊である第2師団をガダルカナルに上陸させるには、この飛行場の敵機が邪魔です。そこで辻参謀は、上陸作戦の間この飛行場を「黙らせておく」ために、海軍に次の様に要請します。それは

「わが軍の上陸の間、戦艦と重巡による艦砲射撃をお願いしたい。」

というものでした。しかしなぜ彼は、陸軍の参謀でありながら海軍にこんな要請をしたのでしょうか? それはこの戦いが始まって以来日本軍を悩ませてきたある物理的な問題が大きく影響していました。その日本軍を悩ませる物理的問題とは戦場の「距離」の遠さです。

前回もお話した様に、このガダルカナル島は日本軍のソロモン方面最大の補給基地ラバウルから千キロも離れています。この距離は、日本軍の主力戦闘機であるゼロ戦にとってはちょうど1往復出来る距離ですが、帰りの燃料を考えると、上空での戦闘時間はわずか15~20分しか取れないのです。そのためラバウルから発進した日本の爆撃隊と、それを護衛するゼロ戦隊がヘンダーソン飛行場を爆撃して滑走路に穴を開けても、アメリカ軍はブルドーザーなどの機械力ですぐにそれを埋めて復旧してしまうのです。


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上は作戦行動中のゼロ戦隊を空中撮影したものです。パイロットの方の表情まで良く分かりますね。

この一大航空基地と化したヘンダーソン基地から発進したアメリカの戦闘機隊により、日本軍は容易に島に近づけませんでした。そこで辻参謀は、艦隊に夜間艦砲射撃させてヘンダーソン飛行場を敵の戦闘機隊もろともなぎ払い、その間に第2師団と多くの火砲と弾薬を満載した大型高速輸送船団を島に突入させ、上陸作戦を決行するという作戦を立案します。

海軍でも、この飛行場の存在を何とかしなければならないという必要性は、辻から受けずとも良く分かっていました。そこで海軍は、日本海軍が持っている最も高速な「金剛」型戦艦4隻を交互に出動させ、さらに戦艦に次ぐ大型艦である重巡洋艦部隊も加えて砲撃作戦を実施します。


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上は日本海軍の高速戦艦「金剛」(こんごう)と重巡洋艦「古鷹」(ふるたか)です。海軍はこれらの大型艦の強力な主砲で海上から陸軍の上陸作戦を援護しました。

この作戦は部分的には成功しました。日本艦隊の猛烈な艦砲射撃によって飛行場の戦闘機は吹き飛ばされ、滑走路は穴だらけになり、一時的に基地は使用不能になります。そして何より、アメリカ軍将兵に与えた心理的恐怖は大変なものでした。なぜならヘンダーソン飛行場を守るアメリカ海兵隊は、昼間は轟音とともに連日飛来する日本軍の爆撃隊に飛行場を爆撃され、さらに夜には日本艦隊の恐ろしい砲撃にさらされる事になったからです。そのわずかな間隙を縫って、日本軍輸送船団は夜間上陸作戦を決行、陸軍部隊の大半を上陸させる事に成功しました。しかし、ここで先ほどお話したアメリカ軍の第2飛行場が力を発揮します。

日本艦隊は第1飛行場の砲撃に集中したため、第2飛行場の方はほぼ無傷でした。アメリカ軍はこの第2飛行場に避難させていた戦闘機隊を出撃させて物資の揚陸途中だった日本の輸送船団を攻撃したのです。重たい火砲や砲弾、食糧など、浜辺に積んであったこれらの物資はアメリカ軍機の攻撃で破壊され、燃やされてしまい、輸送船も次々に沈められてしまいます。


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上はガダルカナルの海岸に各坐した日本の輸送船の姿です。

火砲と弾薬の陸揚げが上手く行かず、当初の目的であった多くの火砲の援護射撃で飛行場を奪還するという辻参謀の作戦は変更を余儀なくされます。しかし、第2師団とともにガダルカナルに上陸していた辻参謀は全く動じる事無く、日本陸軍が最も得意とした伝統の戦法である銃剣による白兵突撃で総攻撃を仕掛ける作戦を立てるのです。

「わが軍は第2師団と川口旅団の残存兵力を合わせて合計1万5千の大部隊である。これだけの兵力で総攻撃を仕掛ければ、あんな小さな飛行場の奪取など造作のない事だ。」

というわけです。

彼の立てた作戦は、これまで2回日本軍が行っておびただしい犠牲者を出し、無残な失敗に終わったものでした。しかし辻は、同じ場所で再びそれを繰り返そうとしているのです。これには前回総攻撃を加えた川口少将が大反対をし、最低でも攻撃位置を変える様進言します。これに対して辻は激怒し、作戦開始前日、川口少将を罷免してしまいます。(階級でははるかに上の少将を一中佐が罷免するなど本来なら有り得ませんね。いかに大本営参謀の権力が強かったか分かります。)


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10月24日、日本軍は3度目の夜間総攻撃を決行します。それに当たり、辻参謀は東京の大本営に次の様な自信に満ち溢れた電文を送りました。

「天佑神助(てんゆうしんじょ)により、一挙飛行場付近の敵を撃滅せんとす。」

そして日本軍は再び時間も場所もバラバラに飛行場に突撃を敢行、はるかに強化されたアメリカ軍陣地の機関銃の十字砲火の前に壊滅してしまうのです。夜が明けるとヘンダーソン飛行場の周囲の丘は日本兵の死体で埋め尽くされ、「血染めの丘」と名付けられる事になります。

さらにこの無謀な作戦の総責任者である辻参謀がマラリアにかかり、高熱を発して逃げる様に東京に帰還してしまいます。(バチが当たったのでしょうか?)もはやガダルカナルの奪還が不可能である事は誰の目にも明らかでした。しかしその後も大本営はガダルカナルを諦め切れず、またも陸軍部隊を乗せた輸送船団や高速の駆逐艦隊を差し向け、強行突破させようと試みます。しかし、アメリカ機動部隊から発進した戦闘機隊がこれを待ちうけ、1隻も島に近づけまいと空から襲い掛かり、日本軍は一連の突破作戦で大事な輸送船30隻余りと10隻以上の駆逐艦を失ってしまいます。


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上はガダルカナル上陸部隊に食糧と武器弾薬を送り届けるために海岸に乗り上げた日本の輸送船です。船の上に設置された高射砲が、来襲するアメリカ軍機を最後まで迎え撃った様子が目に浮かびます。手前には小型の潜航艇が転がっていますね。日本軍は潜水艦やこんな小型艦まで使って何としてでも食糧を送り届けようとしたのです。しかし、これでは運べる量はわずかなものでした。

輸送船団の壊滅は、ガダルカナル島に上陸していた日本軍残存部隊をさらに窮地に追い込む事になります。食糧の補給がないため、兵は飢えに苦しみ、辻参謀も倒れたマラリアや熱帯での喉の渇きから、ジャングルの小川の水を飲んだ兵たちが赤痢にかかり、次々に倒れていったのです。

一方はるか離れた大日本帝国本国でも、ガダルカナルの戦いの影響が出始めていました。このテーマの最初の輸送船団の回でお話した様に、物資輸送に必要な大型船舶が不足し始めたのです。この様な状況の中で、ついに大本営はガダルカナル奪還を断念し、1942年(昭和17年)12月31日の天皇ご臨席の御前会議において、正式にそれが決定されました。大日本帝国は戦勝気分に酔い痴れた1年前とはうって変わり、悲嘆に暮れた年末年始を過ごす事になります。

明けて昭和18年2月、日本軍はガダルカナル島からの撤退作戦を開始します。ケ号作戦と呼ばれるものです。その由来は「捲土重来」(けんどちょうらい)からで、20隻もの駆逐艦により3回に分けて行われました。日本軍はかなりの損害を覚悟していましたが、実際には駆逐艦1隻を失ったのみで、島に残っていた残存部隊1万余の撤退を無事終える事が出来ました。(アメリカ軍はこれまでの激しい日本軍との戦いで、日本軍が新手の増援軍を送り込んできたものと思い込んでいました。そのため、まさかその逆に日本軍が撤退していたとは全く知らず、日本軍が島からいなくなった3日後にそれを知ったそうです。)

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上はアメリカ軍機が撮影した日本の駆逐艦隊です。35ノット以上(時速64キロ)の高速で強行突破を試みるその姿が、上空からは列車の様に連なって見える事から、アメリカ軍パイロットに「東京急行」(トーキョー・エクスプレス)などと呼ばれました。

この半年間におよぶガダルカナル島の戦いで日本軍が投入した兵力はおよそ31400名、そのうち無事に撤退出来た兵は1万600名ほどで、2万以上の兵が犠牲になりました。そのうち、実際の戦闘による戦死者は5千ほどで、残りの1万5千は飢えと病による死者でした。(アメリカ軍の戦死者はおよそ1500名ほど。)2月に行われた撤退作戦においても、1人で歩く事が出来ない兵士はそのまま島に置き去りにされたそうです。(その大半は、自決と味方兵士による「介錯」(かいしゃく)によって「処分」されていました。戦友をこんな形で手に掛けざるを得なかった兵士たちの心情は想像を絶します。号泣)

この戦い以降、著しく戦力と物資を消耗した日本軍は疲弊し、積極攻勢はすっかり鳴りを潜めてしまいます。そうしているうちにアメリカはすっかり戦時増産態勢を整え、太平洋方面に新型の艦艇や戦闘機を続々と送り込み始めていました。海軍や大本営が恐れていた事態がついに現実のものとなったのです。

このガダルカナルを巡る戦いは、一般にはアメリカ軍との激しい消耗戦が大きな敗因の様にいわれています。しかし、実際にはこの戦いの敗因は、当時の大日本帝国陸海軍の組織が持っていた体質的な欠陥と、時代遅れな白兵突撃戦法に固執した日本陸軍の武士道的精神主義、そして何よりもガダルカナルの島の距離の遠さにあるものと思います。

日本から6千キロ近く離れたこの様な地の果て(というより海の果て)にまで戦線を拡大した事自体、当時の大日本帝国がいかに自らの国力とその限界を度外視していたかが分かります。このガダルカナルには、その犠牲となって死んでいったわが兵士たちの多くの遺骨が今だ残されたままなのです。

次回に続きます。
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