剣は銃よりも強し? ・ 武士道の驕りが招いた敗戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、今日のわが国が先進の科学技術が生み出す産業と、それを生業に年間500兆円ものGDP国内総生産を稼ぐ強大な経済、さらに古くから伝わる伝統工芸と、アニメや新しいキャラクター、先進のファッションなどに代表される自由で豊かな想像力に富んだ文化国家である事は良くご存知の事と思います。その点については世界中から異論を差し挟む国は存在しない事でしょう。

全く世界中でこれほど平和で繁栄した国家も珍しいですね。自分は心の底から日本人に生まれて良かったと常に思っています。しかし、歴史というものはそれぞれの国でいろいろあれど、わが日本ほど昔と今で国のあり方が違う国家は世界でも珍しいのではないでしょうか? なぜなら歴史好きな方ならば良くご存知の様に、わが国が国運を賭けて引き起こした太平洋戦争敗戦前の日本は、現代の日本とはまったくかけ離れた「超軍事国家」であったからです。

今年2015年(平成27年)は、1868年の明治維新によって、わが国が近代国家としての道を歩みだしてから147年目に当たります。その147年間に及ぶ日本の近代国家としてのキャリアは、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦を境に、前半の77年間の偉大なる大日本帝国時代と、敗戦後の70年間の自虐的「平和国家」日本国という、歴史を学ぶ上では非常に分かりやすい区切りで分けられるでしょう。

そのうち前半の帝国時代の日本は、「富国強兵」の明快な国家スローガンを掲げて急速に近代化と軍備増強を推し進め、台湾、南樺太、朝鮮半島、南洋諸島を次々に征服し、アジア、太平洋に燦然と君臨した一大軍事帝国でした。


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上は戦前の大日本帝国の領域図です。この地図は純粋に当時の日本の領土を表したものであり、中国東北部いわゆる満州などは含まれていません。それはこの地域が日本の傀儡とはいえ「満州国」という独立国であり、「日本の領土」ではないからです。

その一大帝国を築いた原動力は、何をさて置き当時の日本が心血を注いで増強してきた強大な軍事力だったのですが、明治初年の何もない状態から、これほどの規模の領域国家へと日本が成長した背景には、その興隆を支えたもう一つの大きな力がありました。それは日本独自の価値観である「武士道」です。

明治維新以降、わが国はそれまでの封建制から四民平等の社会へと大きく進歩しましたが、実際には日本社会の至る所で「身分制」が厳然として残っていました。中でもとりわけそれが顕著だったのが帝国陸海軍です。戦前の日本は、当時の欧米諸国同様当然の事ながら「徴兵制」が敷かれていましたが、兵の多くはそのほとんどが貧しい農家の次、三男が大半でした。(理由は単純です。軍に入れば薄給とはいえ給与が貰え、さらに軍服も食事も無料で支給される上に、住まいも兵営があてがわれ、つまり悪い言い方をすれば「食っていける。」からです。その代わり、兵たちには徹底した天皇への忠誠心が叩き込まれ、厳しい訓練が待ち受けていましたが、それが天皇に命を捧げる筋金入りの日本兵を創り上げていきます。)


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上は戦前(昭和12年以降)の一般的な日本陸軍兵士の方々です。みなさんまだ20代前半か半ばの若者たちですね。

この様に軍隊の大半を構成する兵は貧しい農民でしたが、それを指揮する将校以上の者は、裕福な地主や、元は名のある武士階級出身者がその大半を占めていました。これらの者たちは、軍隊を指揮するエリートとして別格とされ、その教育も士官学校や陸軍大学校(海軍は海軍兵学校)で特別な高等教育を受けます。そしてそれを修了すると、その証として所持を許されたのが「軍刀」です。


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上は陸軍大学校を優秀な成績で卒業した士官たちです。帝国陸海軍では彼ら成績上位者に対し、大元帥である天皇から菊のご紋章入りの豪華な「恩賜の軍刀」(おんしのぐんとう)を拝領する慣わしでした。これを拝領した将校らは一般の将校と違い、「軍刀組」と称されて参謀本部や軍令部、そして前回お話した大本営の参謀などの要職に付き、これら日本軍部の中枢を担うエリートとなっていたのです。

この軍刀は、まさに日本の階級社会において、長くその頂点に君臨していた武士階級の証であり、武士の魂でした。そのため日本帝国陸海軍の将校たちは常にそれを腰に下げ、特に陸軍においては突撃の際にそれをもって戦闘に臨んでいたのです。この軍刀に対する思い入れは、将校はもちろん農民出身者が大半の一般の兵士たちも強くそれを持っていました。なぜなら先に述べた様に、刀は武士の証であり、農民たちにとって何よりの憧れであったからです。

しかし、帯刀を許されるのは上の様に尉官(少尉~)以上の階級の人々であり、一般の兵士には手の届かないものでした。そこで、その代わりに兵士たちが大事にしたのが「銃剣」です。


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「銃剣」とは上の写真の様に銃の戦端に付けるものです。一般の兵士たちは軍刀の代わりにこれを腰に下げていました。

この銃剣は一般の日本兵士たちにとって、軍刀の代わりとなるものであり、これを持った兵の多くは自分の身分が上がった様な、高揚した気分になった者が多かった様です。

大日本帝国は、こうした封建時代の武士道の名残りを強く受け継ぎながら明治以来の対外戦争に勝利していきます。しかしそれは日本の軍事的隆盛に大きく貢献しましたが、同時に弊害も招いてしまいます。なぜならそうして勝利を重ねるうちに、当時の日本人は次第に自分たちが「無敵」であり、「神」に守られた特別の存在なのだという思い上がった「錯覚」に陥いらせる事になってしまったからです。そしてそれは日本軍部において、戦争に欠かせない武器や装備、戦術の発達と進歩を大きく遅らせてしまう事にもつながりました。

さて、太平洋戦争におけるわが大日本帝国陸海軍の「主力兵器」とは何でしょうか? ゼロ戦? 戦艦大和? いや違います。正解は下に載せた「三八式歩兵銃」(さんはちしきほへいじゅう)です。


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この銃は1904年(明治38年)の日露戦争時に日本陸軍に正式採用された事から、武器の名を固有名詞ではなく年式で表す日本独特の習慣によりその名が付けられました。ドイツ製のモーゼル小銃を改良した頑丈なボルトアクション式小銃で、上の様に5発の弾薬クリップを上から装填する仕組みです。日露戦争から太平洋戦争まで40年以上に亘り、日本軍の「主力兵器」として使用されました。

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上は三八式歩兵銃を手に南方攻略作戦に従事するわが軍将兵たちです。この銃と将兵たちの武士道的精神主義のコンビネーションが、大日本帝国の躍進を底辺で支えたのです。

しかしこの三八式歩兵銃も、日露戦争当時は最新鋭でしたが、太平洋戦争勃発時にはすでに旧式化していました。何よりこの銃は連続発射が出来ず、1発撃つ毎に手元のボルトを後へ引いて空薬莢を出さなくてはならない「単発式」だったからです。

そこで疑問に思われるのが、なぜ日本軍は自動小銃すなわちマシンガンを開発し、全将兵に持たせなかったのか? という点です。すでに同盟国のドイツ軍はもちろん交戦国のアメリカも多くの将兵にマシンガンを持たせていました。これさえあれば、戦闘でも敵に大きな損害を与える事が可能です。しかし、もちろん日本軍も機関銃は多数保有してはいたものの、それはあくまで戦闘での援護射撃のためのものであり、一定の数の部隊に1丁という割合で配備される程度で、全ての兵士にそれを持たせる事はありませんでした。


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その疑問はやはり、前述した日本独自の価値観である武士道が大きく影響していました。なぜなら日本軍、特に陸軍において、敵軍との戦闘における必勝の戦法は、先に述べた軍刀と銃剣による「白兵突撃戦法」であったからです。しかしそれは決して無謀な思考で行われたものではありませんでした。というのは、大勢の兵が一斉に正面から突撃してくるのを見た敵兵は心理的パニックを引き起こし、防衛線が総崩れになる場合が多かったからです。当時の日本陸軍将兵であった方々の多くが次の様に証言しています。

「日中戦争までは、敵(中国)の力も弱かったから、それで結構何とかなっていたんです。とにかく銃剣を持って一斉に突撃して行けば、彼らは驚いて逃げてくれるんです。いや、逃げてくれるというより、逃げてしまうんです。」

もちろんそうした心理的効果を狙った理由の他にも、物理的な理由もありました。それは簡単に言えば「お金」と生産力の面です。自動小銃は通常の小銃よりはるかに価格が「高い」のです。それに当然の事ながら弾薬の消費量も多いため、物資の生産力においてアメリカに太刀打ち出来ない差がある日本では、たとえ自動小銃を開発しても、とてもそれを全ての将兵に持たせるほどの弾薬を生産する事は出来ませんでした。

そのため日本軍は、将兵たちに弾薬を大事に使わせるために、多くの弾薬を消費する自動小銃よりも、単発式の小銃を兵に使わせ続けたのです。とはいえ日本軍も自動小銃を開発してはいました。それが下に載せた「100式機関短銃」と呼ばれるものです。


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上がその「100式機関短銃」です。1941年(昭和16年)に日本軍が正式採用した唯一の自動小銃で、拳銃用の弾薬を30発装填出来ましたが、弾倉が横についているために射撃のバランスが悪く、実戦では不評で、さらに生産数も1万丁程度と少なく、空挺部隊などの特殊部隊に配備された他は、第一線で使用される事はほとんどありませんでした。

日本軍は、すでに戦争というものが、最新兵器とその開発力、そしてそれを大量に作り出す生産力が勝敗を決する時代に移っていた事を認識していませんでした。それは、20世紀の半ばに達するというのに、飾りとはいえ「刀」を近代戦に用いていた事にも現れています。もちろん、それが時代遅れなものである事は多くの軍人たちも分かっていました。しかし、彼らはどうしても、心理的に「刀」を捨て切れなかったのです。また、かつて陸大で恩賜の軍刀を拝領し、太平洋戦争を指導した大本営陸軍部のエリート参謀らがまとめた報告書にも、次の様な一文があります。

「わが白兵突撃は物質的威力を凌駕する必勝の戦術である。」

こうした「驕り」(おごり)が、時代錯誤の武士道的精神主義と相まって日本軍の装備の近代化と進歩を大きく阻害して行ったのです。そしてそれは太平洋戦争におけるアメリカ軍との戦いで表面化してしまいます。アメリカ軍将兵の優れた装備に時代遅れの旧式の装備で戦わされ、その犠牲となって死んでいったのは、皮肉にもかつて武士に憧れ、武士の持つ刀を羨望の眼差しで見ていた農民出身の兵士たちでした。

太平洋戦争の戦局が悪化し、大日本帝国が敗退を重ねる各地の戦場で、わが将兵たちは圧倒的なアメリカ軍の無数の機関銃に向かって「玉砕」と美化された白兵突撃を繰り返し、全滅していったのです。

そして敗戦。アジア大陸と太平洋の諸島に布陣していた大日本帝国陸海軍の第一線部隊270万は、昭和天皇のご命令の下で一斉に停戦し、各地の連合軍に降伏します。その時、わが日本軍人たちが最後まで肌身離さず身に付けていたものは、武士の魂である「刀」でした。


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Japanese_Surrender_in_Malaya,_1945_IND4845

上の画像1枚目は敗戦により連合軍に降伏する日本陸海軍の将官のお二方です。その手には軍刀が握られています。立派な軍装からどちらも中将クラスではないでしょうか。そして2枚目は降伏に伴い武装解除される一般の将校たちです。降伏の証として、軍刀を地面に置いています。この時の彼らの心情はどんなものだったのでしょうか?

太平洋戦争終結後、アメリカ軍上層部は日本軍将兵について次の様な報告書を作成しています。

「戦争において勝敗を決するのは優れた武器であり、我々ならば出来るだけ多くの優れた武器を持って戦争に勝とうとする。しかし、日本兵にとって武器は単なるアクセサリーに過ぎない。この背景には武士道精神を重んじる日本文明が、他の何よりも優れているとの思い込みがあり、これが彼らの視野を狭め、敗北を招いた原因である。」

また、大日本帝国の統治者にして、彼ら帝国陸海軍人の絶対的忠誠の対象として君臨しておられた大元帥たる昭和天皇も、敗戦直後に日光に疎開されていた幼少の皇太子明仁親王殿下(現今上天皇陛下)に宛てた手紙で次の様に述べられています。

「敗因について一言言わせて欲しい。わが軍人は精神に重きを置きすぎて科学を忘れた事である。」

次回に続きます。
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