大陸打通作戦 ・ 大勝利していた日本軍

みなさんこんにちは。

みなさんは、かつてのわが大日本帝国が、先の大戦において初戦の束の間の勝利の後、広がり過ぎた占領地域を維持出来ず、反撃を開始したアメリカなどにずるずると一方的な敗北を重ねて敗戦に至ったというイメージをお持ちではないでしょうか?(かくいう自分もそうでした。)確かに巨大な生産力と、圧倒的な物量で迫るアメリカとの太平洋戦線では、その様な展開になったのが事実です。しかし、そんな中にあって、わが日本軍が局所的とはいえ、大規模な攻勢で大勝利していた戦線があったのをご存知でしょうか? それは「中国戦線」です。

今回は、敗戦直前に中国大陸南部で日本軍が行った最後の大作戦である「大陸打通作戦」についてのお話です。

大陸打通作戦―日本陸軍最後の大作戦 (光人社NF文庫)

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この大陸打通作戦について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。実際にこの作戦に従軍された旧帝国陸軍将校の方の作品で、著者の佐々木春隆氏は、戦後陸上自衛隊陸将補(中将クラス)防衛大学校教授として日本の国防に人生を捧げられた生粋の軍人です。戦史で名高い光文社NF文庫でページ数はおよそ260ページ、当時の中国戦線におけるわが日本軍に関する全てが記された秀作ではないかと思います。

1943年(昭和18年)夏、大日本帝国は戦局の低迷と、始まりだしたアメリカ軍の反抗作戦によって、太平洋方面で苦戦を強いられていました。すでにソロモン諸島とニューギニア方面では、アメリカ・オーストラリア連合軍の反撃が始まり、両軍との戦いで、日本軍は大事な艦船50隻と1500機以上の航空機を失い、さらに両方面で合わせて20万以上の戦死者を出していたからです。

勢いに乗るアメリカ軍は、日本軍占領下の太平洋の島々を次々に攻略し、日本帝国本土に攻め上る作戦を立て、それを実行して行きます。こうしたアメリカ軍の動きに対し、大日本帝国は日本の勢力圏を守るために絶対に欠かせない地域を「絶対国防圏」と定め、ここでアメリカ軍の反撃を食い止めようとしますが、アメリカ軍がいつどこから攻めてくるか分からない状況下で、日本軍は太平洋の島々に守備隊を分散せざるを得ず、ひとたびアメリカの攻略目標とされれば、それらの日本軍守備隊はアメリカの大艦隊に包囲されて補給も救援も受けられず、持って数日か、長くて1週間で全滅させられてしまう「各個撃破」を繰り返す事になります。


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上は当時の太平洋戦線の地図です。

すでにこれまで当ブログで述べて来た様に、アメリカ軍の反撃は空と陸だけではありませんでした。海中からは100隻を越えるアメリカの潜水艦が太平洋中を荒らし回り、日本の艦船を徹底的に攻撃していきます。日本帝国本土と南方占領地を結ぶ資源輸送ルートはその第1攻撃目標とされ、物資の輸送に欠かせない大事な船舶が積荷もろとも海に沈められていきました。

こうした切迫した状況にあって、東京の日本帝国大本営では、事態打開のためにある一大作戦が計画される様になります。それが「大陸打通作戦」正式名称を「一号作戦」と呼ぶものです。これは、今だ日本軍が占領していなかった中国南部を攻略占領しようというもので、当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎(はっとり たくしろう)大佐によって立案されました。


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上の画像1枚目が作戦の立案者である服部卓四郎大佐です。(1901~1960)彼は陸軍大学校をトップクラスで卒業し、恩賜の軍刀を拝領したエリートで、太平洋戦争における主な陸軍の作戦はほとんど彼が関わっていました。しかし、彼は卓越した作戦能力と企画力は持っていたものの、それはいわゆる典型的な「机上のプラン」であり、現実は実情を無視した強行的かつ無謀なものが多く、以前お話したガダルカナルの戦いも、部下の辻中佐とともに彼が推し進めたものでした。

この作戦は上の2枚目の画像の様に、中国大陸を「打ち通す」用に中国大陸南部に進撃し、日本軍占領下のインドシナ半島に到達して南方占領地と日本帝国本土を陸路で結び付けようというものでした。

服部大佐ら大本営参謀がこの大作戦を計画した最大の目的は、日本帝国本土と南方占領地を陸路で結ぶ事でした。先に述べた様に、アメリカ潜水艦によって海上の資源輸送ルートは遮断されつつあり、昭和19年以降日本本土の物資の不足は目を覆うばかりに悪化し、このままでは戦争の継続は不可能でした。そこで大本営陸軍部は、危険な海上輸送でせっかく手に入れた南方の資源を海没するよりも、はるかに安全な陸路で中国大陸を経由し、朝鮮半島から九州へ運び入れる計画を立てたのです。(これなら、危険な海上輸送は最短の朝鮮半島と九州までのわずかな距離で済み、せいぜい3~4時間で物資を運べますね。)

また、もう1つの目的として、そもそも日本軍が太平洋戦争を開戦するに至った発端の日中戦争における本来の宿敵、中国国民党主席蒋介石率いる中国国民革命軍を撃破し、その継戦意思を削いで、1937年(昭和12年)の盧溝橋事件による日中戦争勃発以来の日本の宿願である中国征服を実現する事もその目的でした。


蒋介石

上が当時の中国の指導者である蒋介石です。(1887~1975)彼は1920年代から第2次大戦終結直後まで、中国の指導者として日本軍と戦った人物で、功罪分かれる人物ですが、個人としての彼は大変な親日家で、20代前半の若い頃、4年間も日本に留学して日本語も流暢に話し(東京神田の古本屋街に足繁く通い、本を探す若き蒋介石がいたそうです。)日本の陸軍にも入隊して新潟の高田連隊で2年以上厳しい訓練を受けて鍛え上げられ、そこで得た忍耐心が、後の日本軍との長い戦いを勝利に結び付けたと本人が後に回想しています。

ちなみに彼が目指した理想の国家とは、わが大日本帝国であり、それをモデルに当初は自らの独裁による中華民国とし、やがては彼の子孫を世襲の指導体制とする事でした。(彼は本心は、自身の王朝を開いて「中華帝国」としたかった様です。しかし、それは時代に逆行するものであり、また、かつてそれを行って3ヶ月で失敗した袁世凱(えん せいがい 1859~1916)の二の舞を避けたかったのでしょう。)

ただ、大本営はすぐにはこの作戦を実行出来ずにいました。なぜなら当時の日本軍は、アメリカ軍との太平洋での戦いに手一杯で、激戦が続く太平洋方面に兵力を振り向けるため、中国大陸に展開する「支那派遣軍」から次々に兵力を引き抜いていたからです。

この支那派遣軍とは、1939年(昭和14年)9月に編成されたもので、その名の通り当時中国大陸に派遣されていた日本陸軍最大の部隊の事です。(満州に展開していた有名な「関東軍」とは全く別のものです。)太平洋戦争開戦時、その兵力は90万を数える大軍でしたが、こうした太平洋方面への兵力転用によって、この時期その兵力は62万にまで減少していました。

しかし、海上輸送は急速に悪化していました。こうした状況の中で、当時首相兼陸相にして参謀総長も兼任していた東条英機大将は服部大佐の作戦計画を認可し、ここに大陸打通作戦は開始が決定されます。時に1944年(昭和19年)4月の事でした。

上層部の認可を得た服部大佐は、自身が温めて来た作戦計画の実行のために勇んで作戦準備を開始します。彼の作戦は支那派遣軍指揮下の25個師団(日本軍の1個師団の兵力はおよそ2万ほどだったそうです。この内純粋に戦闘を行う戦闘部隊はその6割で、残りはこれを支援する砲兵部隊や補給部隊などです。)と11個旅団(同じく1個旅団の兵力はおよそ1万ほど)の約8割に当たる18個師団と6個旅団を投入し、さらにこれを増強して中国南部一帯を占領するというもので、参加兵力実に50万、それらの兵や物資を運ぶトラック1万2千台、戦車800両、火砲1500門を動員するという、太平洋戦争開戦以来最大規模の作戦でした。

さて、これを最も喜んだ将軍がいました。支那派遣軍総司令官の畑俊六(はた しゅんろく)元帥です。


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上が支那派遣軍総司令官の畑俊六元帥です。(1879~1962)彼は1941年(昭和16年)3月に支那派遣軍総司令官となって以来、中国方面の日本軍総司令官として蒋介石の中国軍と戦ってきましたが、太平洋戦争開戦で麾下の兵力が次々に引き抜かれてしまい、戦線を現状維持するのが精一杯で、これを苦々しく思っていました。

1944年(昭和19年)4月、畑元帥率いる支那派遣軍は、膠着していた中国戦線を一気に決着するために作戦を開始します。一方迎え撃つ中国軍は、この時点で全土に300万もの兵力がこれを待ち受けていました。

日本軍は相当な苦戦を予想していましたが、意外にも作戦自体は実に順調に進みました。日本軍は数に勝る中国軍を各地で撃滅しつつ、大きく2方面から進撃を続け、昭和19年12月にはほぼ予定通りの地域を占領して、インドシナ半島の味方部隊と合流したのです。全く予想外の大勝利でした。

それにしても、なぜ日本軍は勝利出来たのでしょうか? いかに50万もの大軍とはいえ、兵力の点では中国軍の方がはるかに多かったはずです。その答えは、日中両軍の軍隊としての「質」の違いでした。


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わが日本軍は、上の一連の画像の様に、その前進部隊が十分に増強配備された戦車、砲兵部隊を主力とする機甲部隊でした。これらの機甲部隊が中国軍の防衛線を蹴散らし、粉砕した後、歩兵部隊がこれを制圧していくのですが、その兵の移動もトラックなどを集中使用して(もちろん徒歩行軍も多かった様ですが。)迅速な作戦行動が出来たのです。

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また、日本軍の戦闘機や爆撃機が、蒋介石の本拠地である重慶をはじめ、各地の中国軍を空爆し、進撃する陸軍部隊を空から援護していました。(爆弾に「蒋介石に贈る」と書かれていますね。笑 これらはおそらく宣伝のために、信管と爆薬を抜いた「空っぽ」の爆弾を使って撮影されたものでしょう。)

この日本軍の航空戦力は、陸軍の第5航空軍がその主力でしたが、度重なる太平洋方面への兵力転用はこれらの航空部隊にも及び、この時期の可動戦力は250機余りと、50万の大軍を空から援護するには明らかに少なすぎるものでした。この点中国軍は、自前の空軍はなかったものの、アメリカなどの連合国の空軍部隊が中国奥地の山岳地帯に駐留し、その戦力は合計800機と、日本軍の3倍以上の数で空から日本軍を悩ませます。わが第5航空軍も、これらのアメリカ軍航空部隊との空中戦で100機以上を失っています。


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それに対して中国軍の方は、兵力こそ300万の大軍ではありましたが、中国兵の装備はせいぜいドイツ製の小銃や軽機関銃をコピーしたものが大半で、日本軍の様な機甲部隊や砲兵部隊などもちろんなく、兵の移動も完全な徒歩か、騎馬によるものでした。当然航空部隊などもありはせず、アメリカなどの連合国の空軍に頼るほかありませんでした。(そのため、実際に日本軍と戦闘を交えた中国軍は、全軍の2割にも及ばない40万ほどだったそうです。)

もちろん中国軍にも精鋭部隊はいました。これらはかつて日独伊三国同盟締結以前のドイツに大金を払って軍事支援を受けたものですが、その兵力は8個師団程度(およそ10万ほど)と数が少なく、とっておきの予備兵力として蒋介石の手元に温存されていたために活躍の機会はありませんでした。


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上がその中国国民革命軍の精鋭部隊です。彼らのヘルメットは完全にあのナチス・ドイツ軍のものですね。一見しても分かる様に、彼らの軍服は上に載せた一般の中国兵はもちろん、わが日本軍将兵のそれよりはるかに良い高級なものですね。(驚)おそらく撮影のために特別に礼装用の軍服を着用させたものと思われます。これらの精鋭部隊は強力なドイツ製の最新装備を備えていましたが、その数は全軍の30分の1程度でした。

こうした両軍の装備の違いとは別に、両軍の間にはさらに大きな差がありました。それは将兵の士気と忠誠心です。わが大日本帝国軍は、その全将兵の絶対的忠誠の対象として大元帥たる天皇のご存在がありました。そう、日本軍は「皇軍」すなわち全ての日本兵は一兵卒に至るまで、天皇家の菊の紋章を刻印された銃を持ち、天皇のために命を捧げる忠実な兵士なのです。その忠誠心と、前回お話した日本独自の武士道精神が生み出す士気の高さは、中国兵のそれとは比較にならないものでした。

それに引き換え中国軍の方は、その兵の大半が強制的に集められた徴募兵でした。つまり、嫌々ながら脅されて仕方なく付いて行かざるを得なかった貧しい農民がほとんどだったのです。当然命を懸けて戦おうとする意思も、増して忠誠心などありはしません。(忠誠の対象になるべき人物があの蒋介石ではなおさらですね。)彼らの頭にあるのは、隙あらば脱走して家族の待つ故郷の村に戻る事でした。モラルも悪く、銃を持つのを良い事に同じ農民を襲って平気で略奪をしていたのです。(つまり一言で言えば、中国軍は装備も兵も、外国製と無教養な農民の寄せ集めの「烏合の衆」に過ぎませんでした。)

もちろん、彼らの中にも心から国を憂い、一心に国のために戦った者もいました。彼らは将校クラスとして兵を指揮していましたが、それはそれなりの教育を受けた都市部の比較的良家の出身者が多く、また中国軍全体から見れば極めて少数でした。大半の中国兵は、初等教育もまともに受けていない貧しい地方の農民出身者であり、イデオロギーはもちろん

「一体何のために命を懸けて戦うのか?」

といった、この戦争の根本的な意味すら分からなかったのです。

こうした事情もあって日本軍は大勝利を収め、1944年(昭和19年)末には中国大陸南部一帯の占領に成功したのですが、日本陸軍が中国大陸で大勝利していたこの8ヶ月間の間に、すでに太平洋方面の戦局は大日本帝国にとって絶望的な状態に陥っていました。

日本海軍機動艦隊は、6月に行われたサイパン島近海のマリアナ沖海戦で、空母3隻と400機以上の艦載機を失う大敗を喫し、さらに10月のレイテ沖海戦では、残る艦隊の全てを投入するも、1機の航空援護もない無謀な作戦により水上戦闘艦艇の半数を失って、ここに日本海軍は事実上壊滅してしまいます。

艦隊の壊滅は、日本本土と南方占領地の資源輸送ルートを完全に断ち切られる事を意味しました。さらにサイパン島をアメリカ軍に奪われた結果、ここを基地とするアメリカの長距離大型爆撃機B29による日本本土への戦略爆撃によって、日本列島は連日の激しい空襲に見舞われ、軍需工業地帯はめくら潰しに破壊されていきました。

日本軍がせっかく手にした中国戦線での大勝利と新たな征服地は、南方からの重要資源の陸上輸送という本来の戦略目的を果たせず、結局わが大日本帝国は無条件降伏を要求するポツダム宣言を受け入れ、運命の敗戦を迎える事になります。大陸打通作戦の勝利は無意味に終わってしまったのです。

この時、中国大陸に展開していた支那派遣軍は、この大陸打通作戦の期間中に再び増強され、その兵力は開戦時を超える105万に達していました。また、作戦中の昭和19年11月に、それまでの総司令官であった畑元帥が、西日本の全陸軍を総括指揮する第2総軍の総司令官に就任するに当たり、新たに岡村寧次(おかむら やすじ)大将が代わって支那派遣軍総司令官の職を引き継いでいました。


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上が敗戦時の支那派遣軍総司令官である岡村寧次大将です。(1884~1966)彼は南京事件での日本軍の虐殺の反省から、配下の全軍に徹底した綱紀粛正を命じ、そのため大戦中の中国大陸における日本軍は、戦闘中を除けば現地の無辜の中国人民に極力損害の及ばないよう行動していたそうです。(逆に中国人民に危害を加えていたのは、日本軍よりも先に述べた蒋介石の中国国民革命軍の方であり、日本軍占領地域の中国の民衆は、進んで日本軍に協力した者が多かったそうです。)

これまで述べて来た様に、支那派遣軍は中国大陸で完全に勝利し、敗退していたのは蒋介石の中国軍の方でした。その勝っていたはずの日本軍が、負け続けの中国軍に降伏する事になったのです。岡村将軍は日本の無条件降伏を要求するポツダム宣言の受諾を決定した日本帝国政府に対し、次の様な電文を送って抗議しています。

「数百万の陸軍兵力が、一度も決戦を交えずに降伏するなどという恥辱は世界戦史にその例を見ない。わが支那派遣軍は、日中開戦以来8年間連戦連勝を続けてきたのである。100万の精鋭健在のまま、敗残の蒋介石の重慶軍に無条件降伏するなどという事は、いかなる場合でも絶対に承服する事は出来ない!」

事実、彼の配下には100万の無傷の大軍が温存されているのです。岡村将軍の抗議は帝国軍人ならば当然の事でした。しかし、ポツダム宣言の受諾が昭和天皇のご聖断によるものである事を知ると彼は抗議を撤回し、ここに支那派遣軍100万の史上最大の降伏が実現する事になります。


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上が南京で行われた降伏文書調印式の様子です。中国大陸の全日本軍を代表し、支那派遣軍総司令官の岡村大将(正面の長身の人物)が署名しています。

「勝っていたのになぜ負けている連中に降伏しなければならんのだ。」

岡村将軍の憮然とした表情がそれを物語っていますね。


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一方上は勝利した(?)中国軍の将軍たちです。岡村将軍の署名した降伏文書を掲げて笑みをもらしています。確かに彼らにとってはうれしかった事でしょう、8年もの長い間続いた日本軍との長い苦しい戦いがやっと終わり、物理的にはアメリカなどの他力本願とはいえ、100万以上の日本の大軍を釘付けにして連合国の勝利に(一応)貢献したのですから。

ところで、両者の間にはもう一つの大きな問題が残っていました。それは100万を越える日本軍の武装解除と復員をどの様に進めるかという事です。何しろ支那派遣軍は日本陸軍最大最強の部隊です。日本軍の多くの部隊では今だ抗戦派が大勢で、その気になればいつでも戦闘を再開すると息巻いていました。こうした状況を踏まえ、中国の蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず。つまり戦いが終わった以上、過去の怨みや復讐の気持ちは捨てよ。)という故事を表明して日本軍の復員に最大限の便宜を図る様支持していました。

これは蒋介石のエピソードとしては有名なものの1つですが、彼がこの様に配慮したのは、中国大陸の日本軍が非常に強力であり、彼の中国軍は日本軍との正面での戦いで1度も勝てなかったからです。その事を一番良く知っていたのが、長年日本軍と戦ってきた彼自身でした。戦争が終わった以上、彼はこの強大な日本軍100万をむやみに刺激せず、穏便かつなるべく早く中国大陸から撤退させて、中国再建を図る方が得策と考えたのです。(先に述べた様に、蒋介石は本来は親日家であり、彼は終始日本軍との戦いに消極的でした。彼が「敵」として最も恐れていたのは、日本軍よりも毛沢東率いる共産党勢力であり、すでに彼はこれらとの戦いの準備を進めていました。)

何はともあれ、蒋介石のこの方針により、わが日本陸海軍将兵120万、民間人80万の合計200万の復員と引き揚げは、たった10ヶ月という驚異的なスピードで完了したのです。

この大陸打通作戦の評価は現在もその賛否が分かれていますが、欧米の歴史家の間では、意外にも日本軍の予想以上に戦局に重大な影響を及ぼしていた事が分かっています。特に、戦えば常に負ける蒋介石率いる中国軍の脆弱さには、中国を支援していたアメリカのルーズベルト大統領や、イギリスのチャーチル首相を大きく失望させます。アメリカ軍内部でも、蒋介石に対する不信感を大きく増大させる事にもなりました。


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上はアメリカ・イギリス・中国の指導者たちです。にこやかな表情の裏で、彼らは自国の利益のために互いを利用しあっていました。

「蒋介石が日本軍と真剣に戦わなかったのは、日本の大軍を広大な中国大陸に釘付けにし、連合国と共闘するふりをしつつ、連合国から自分に補給される軍需品をためておき、やがて連合軍が日本軍を破った後に、その日本軍の退去に連れて、毛沢東ら共産主義者の地域を占拠してこれを粉砕するつもりでいるからである。」

アメリカなどの連合軍指導部はこの様な結論を下しています。そのため、以後彼らは中国を当てにする事はせずに、独力で日本を屈服させる方針に切り替えたのです。

敵味方双方の思惑と、関わった人々のそれぞれの心情を含みながら、日本軍の最後の大作戦である大陸打通作戦の記憶は、歴史の流れの中に埋もれようとしています。

次回に続きます。
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