アリューシャンの戦い ・ アメリカに上陸していた日本軍

2015-02-18T21:13:31+09:00

Posted by コンテバロン

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大日本帝国はなぜ敗れたのか?

みなさんこんにちは。

みなさんは、かの太平洋戦争(大東亜戦争)は、美しい南の青い海と空を主な戦場として繰り広げられたものであるというイメージをお持ちではないでしょうか? しかし、かつてのわが大日本帝国が進撃の矛先を向けたのは、南方ばかりではありません。灰色の空と、荒れた冷たい海で人を寄せ付けぬ北方にも艦隊と兵を差し向け、この地で激戦を展開しています。今回は、あまり知られていない日本軍による北方作戦、すなわちアリューシャン方面侵攻作戦についてのお話です。

さて、今回のお話の舞台となるアリューシャン列島の位置ですが、下に載せた場所になります。


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上が北方アリューシャン列島の位置です。恐らくこの地球上で最も文明社会から隔絶された「地の果て」の一つと呼べる場所でしょう。

それにしても、なぜ日本軍はこの様な「敵」となる相手もいなければ、軍需資源になるものとてない北方にまで戦線を広げたのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。

1942年6月、大日本帝国海軍はその総力を挙げて、史上最大の作戦を実施しようとしていました。いわゆる「ミッドウェー作戦」です。この作戦の目的はハワイのアメリカ太平洋艦隊をおびき出し、まだ艦船数と戦力でわが日本軍が優勢なうちに全力を挙げてこれを撃滅し、その後の戦局を有利に進めるべく行われたものですが、その勝敗の結果が日本側の無残な敗北に終わった事は、多くの方がご存知の事でしょう。

そのミッドウェー作戦の経緯については、いずれ当ブログで詳しく取り上げたいと思うので、今回は省かせていただきますが、今回の日本軍のアリューシャン方面への侵攻は、そのミッドウェー作戦の一環として行われたものでした。


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上はミッドウェー海戦の勝敗を知らせる当時の朝日新聞です。4隻もの空母を失った事はひた隠し、架空の戦果を国民に誇大に伝える大本営発表の記事です。

それではなぜこのミッドウェー作戦と、はるかはなれた北方のアリューシャン作戦が連動しているのでしょうか? それはこのアリューシャン作戦が、ミッドウェー作戦を支援するためにアメリカ軍の目をそらせるのが目的の「陽動作戦」であったからです。

この「陽動作戦」のために、日本海軍は細萱戊子郎(ほそがや ぼしろう)中将を司令官とする第5艦隊(北方艦隊)を編成し、アリューシャン列島の西の端に位置する2つの島、アッツ島とキスカ島の攻略に当たらせました。


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上が第5艦隊司令官細萱戊子郎中将です。(1888~1964)彼は駆逐艦や巡洋艦などの乗り組が長く、またどちらかといえば軍務官僚タイプの人物であり、いささか優柔不断の側面があった様です。それが後の実戦での失敗を招く事になります。

細萱中将率いる北方艦隊は重巡洋艦3隻、空母2隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻から成り、さらに攻略する陸軍部隊を乗せた輸送船など10隻が随伴していました。そしてミッドウェー作戦そのものは日本軍の大敗に終わったものの、さしたる強力な敵がいなかった北方作戦自体は順調に進み、日本軍はアッツ、キスカ両島の占領に成功します。


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上がアッツ、キスカ両島の位置と、上陸した日本軍部隊です。当時この島々には、原住民であるアリュート人の人々が住んでいましたが、彼らは日本軍の占領に伴い北海道などへ抑留されたそうです。

日本軍占領後、これらの島々には太平洋戦争におけるわが日本軍最北端の占領地防備のためにそれぞれ守備隊が置かれ、アッツ島は「熱田島」(「あつたとう」安直というかそのままですね。笑)キスカ島は「鳴神島」(「なるかみとう」こちらは由来が不明ですが、どちらも恐らく天皇家にゆかりの深い神社の名前から拝借したのではないでしょうか?)と改称されていましたが、南方戦線の激化とともにその戦略的意義は薄れ、すっかり忘れられた存在となっていました。

しかし、この2つの島を忘れる事のなかった巨大な存在がありました。それはアメリカです。なぜならこのアリューシャン列島はアラスカ州の一部であり、れっきとしたアメリカ合衆国の一部であったからです。(つまり日本軍は、「アメリカ」に上陸してこれを占領していた事になりますね。)アメリカは日本に奪われたこの2つの島を取り返すため、1943年(昭和18年)に入り、大規模な奪還作戦を計画します。

アメリカ軍は巡洋艦と駆逐艦から成る9隻の艦隊で艦砲射撃を加え、さらにアリューシャン方面の制空権を握るために、キスカ島に近いアダック島に飛行場を建設し、空襲を開始します。これに対して日本軍は、防備を強化するために兵力を増強、そうはさせるものかと迎え撃つアメリカ艦隊と日本艦隊は、北方海域で初めての海戦を行います。これがアッツ島沖海戦(コマンドルスキー海戦)です。

日本艦隊は、先の細萱中将率いる重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、輸送船2隻で、アッツ、キスカへの増援部隊と補給物資を載せていました。対するアメリカ艦隊は重巡洋艦1隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦4隻でこれを迎え撃ちます。

この海戦は太平洋戦争では珍しく、双方とも1機の航空機の援護もなく行われた純粋な砲雷撃戦だったのですが、距離が離れていたために命中率の悪い遠距離砲撃になってしまい、また細萱中将が米軍機の空襲を恐れて早々に撤収してしまった事などから本来の輸送任務が果たせず、援軍と補給を待ち望む守備隊は窮地に立たされる事になってしまいます。(細萱中将は、この海戦での指揮の不味さの責任を問われて更迭されてしまいました。)

1943年(昭和18年)5月、アリューシャン方面の制海・制空権を確保したアメリカ軍は、ついにアッツ・キスカ奪還のために上陸作戦を開始しました。まずアメリカ軍は手始めに、日本軍の守備隊が少ないアッツ島を狙います。その兵力は1万1千。対する日本軍守備隊は山崎保代(やまざき やすよ)大佐率いる1個連隊2600名余りでした。


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上がアッツ島守備隊司令官山崎保代大佐です。(1891~1943 前列の軍刀を地面に衝いた丸顔の方です。)彼はお寺の次男から軍人になった異色の人物で、太平洋戦争において最初に「玉砕」した帝国軍人として崇められる存在となります。

山崎大佐は補給も増援の望みも絶たれた今、自分たちには勝ち目がない事を良く承知していました。残された彼らに残された選択肢はただ1つ、栄光ある大日本帝国軍人として1人でも多くの敵を道連れにし、壮烈な最期を迎える事です。そう、わが大日本帝国軍にあるのは「勝利」か「死」か、2つに1つであり、「降伏」の2文字は存在しないのです。

「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残す事なかれ。 」

これは太平洋戦争開戦直前に東条英機陸軍大臣の名で布告された「戦陣訓」の最も有名な一文です。敵の捕虜になる事は日本軍人の最も恥ずべき事であり、捕虜になるくらいなら戦って死ぬか、潔く自決せよと説いたものです。日本軍はこの戦陣訓の精神を兵士たちに徹底的に叩き込み、「武人」としての本懐を遂げるよう教育していきました。そしてわが将兵たちは純粋にそれを守って死んでいったのです。

それはまさに「武士道」の精神であり、「騎士道」の精神を受け継ぐ敵アメリカ軍に敬意と恐れを持たれる敢闘精神を発揮する一方で、同時に今次大戦におけるわが将兵の犠牲を大きくしていった原因でもありました。(それにしても歴史とは恐ろしいほどに皮肉なものです。この戦陣訓を布告した東条将軍ご自身が、後に「虜囚」となって「罪禍の汚名を残す事」になるのですから。)


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上の画像1枚目は当時のアッツ島の様子です。この島は内陸が山岳地帯になっており、山崎大佐率いる日本軍はこれらの高地に防御陣地を敷いて、アメリカ軍を奥地に引き入れて撃滅する作戦でした。そのため、海岸には全く兵力を展開せず、1万を越えるアメリカ軍は何の抵抗も受けずに上陸出来たのですが、後に内陸部への進撃で日本軍に手痛く反撃されてしまいます。(彼の作戦は実に見事でした。日本軍はこの天然の地形を利用して、高みからアメリカ軍を狙い撃ち出来たからです。一方ふもとから斜面を登らなくてはならないアメリカ軍は大変苦戦し、600名以上の戦死者を出す損害を出しました。)

こうして日本軍は、3千に満たない兵力で4倍のアメリカ軍を相手に2週間以上に亘って善戦敢闘しましたが、これまでの戦闘で日本軍防御陣地の位置と規模を把握したアメリカ軍は、沖合いに停泊するアメリカ戦艦3隻の巨大な主砲によってこれを粉砕する作戦に切り替え、形成は逆転します。そして弾薬、食糧も尽きた山崎大佐以下残存日本軍300余は、最後の突撃を敢行、不意を衝かれたアメリカ軍は司令部周辺まで後退させられますが、数で圧倒してこれを撃破、日本軍は全滅します。(この最後の戦闘で、司令官山崎大佐は軍刀と日の丸を手に、最先頭に立って指揮を取っていた事がアメリカ軍によって確認されています。それは、戦後に行われた遺骨収集において、彼の遺骨と遺品が最前線で発見された事から立証されたそうです。)

アッツ島守備隊玉砕の報告は、5月末に東京の日本帝国大本営に伝えられ、大元帥たる昭和天皇は、これを上奏した参謀総長杉山元帥に、次の様なお言葉を発せられたそうです。

「良くやってくれた。この事をアッツ島守備隊へ打電せよ。」

それに対し、杉山元帥はこの様に答えます。

「恐れながら、わが守備隊は全員玉砕したため、打電しても受け手が居りません。」

これに対し、昭和天皇はこう述べられました。

「それでも良いから電波を出してやれ。」

昭和天皇は承知でそれを命じられたのです。そしてそのご命令は実行され、誰もいないアッツ島へ向けて、天皇のお褒めの言葉が打電されたそうです。(涙)

一方、もう1つの島、キスカ島の日本軍守備隊にも危機が迫っていました。アッツ島が陥落した今、次にアメリカ軍がキスカ島に上陸するのは時間の問題だったからです。キスカ島にはアッツ島よりはるかに多い6千の陸海軍部隊が駐留していましたが、このままでは彼らはアッツ島守備隊の二の舞になる事は必至でした。(キスカ島守備隊がアッツ島守備隊より兵力が多いのは、こちらの方がアメリカ本土に近いから、アメリカ軍は先にこちらを攻略してくるだろうという理由からだったそうです。実際はその逆で、日本軍は完全に裏を衝かれてしまいました。)

ここに至り、日本帝国大本営は戦略的価値の薄いアリューシャン方面の放棄を決定します。そして陸海軍共同で、キスカ島守備隊の撤退作戦が実施される事になりました。日本軍は、先のソロモン方面におけるガダルカナルの戦いにおいて、多くの輸送船と駆逐艦を失った失敗から、アメリカ軍に気付かれないよう潜水艦15隻を投入して、夜間に少しづつ兵を撤収させる作戦でした。

しかし、すでに最新の海中ソナーを開発し、これを駆使したアメリカ軍の厳重な哨戒網によって作戦は困難を極め、6月に行われた2回の作戦で、収容出来たのは800名余り、そのうち3隻の潜水艦を撃沈されるなどで、このやり方では効率が悪く、犠牲と損害が大きすぎると判断され、潜水艦撤収作戦は中止されます。

結局日本軍は、軽巡洋艦と駆逐艦から成る高速水上艦艇による撤収作戦に切り替えざるを得ませんでした。しかし、これはガダルカナルの二の舞になって多数の大事な艦艇を失う恐れが大きく、特に海軍は二の足を踏んでいました。そこで考え出されたのが、この地方特有の濃霧を利用し、深い霧にまぎれてキスカ島に突入し、素早く守備隊を収容した上で速やかに離脱する「忍者」の様な「霧隠れ」作戦です。

そして、この作戦の実行責任者として選ばれたのが、当時第1水雷戦隊司令官であった木村昌富(きむら まさとみ)少将でした。


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上がその木村昌富少将(1891~1960)と彼の旗艦「阿武隈」です。すごいヒゲですね。(笑)彼は海軍兵学校での卒業成績が118人中107番と、後から数えた方が早く(笑)当然海軍大学校にも進学しておらず、いわばエリートコースには全く興味の無い生粋の武人でした。しかし、海軍省や軍令部首脳の様に、エリート意識でお高くとまった海軍上層部の同僚たちとは違い、勇猛果敢かつ豪放磊落な性格で、一見怖そうな顔立ちとは裏腹に、部下や水兵をむやみやたらに怒鳴りつける事もなく、常に冷静沈着な態度であった事から艦隊将兵には大変人気がありました。(戦後彼はトレードマークのヒゲをそり落とし、彼の人柄を慕うかつての部下たちとともに製塩会社を興し、多くの旧海軍将兵の雇用に務めたそうです。)

木村少将は7月に入り、千島列島最北端の島、幌筵島(ほろむしろとう)から配下の軽巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦11隻を率いて出撃しますが、この時は途中で霧が晴れてしまい、彼の判断で作戦を中止して艦隊は引き返してしまいます。

一方、手ぶらでのん気に返ってきた木村少将に対し、北方方面艦隊である第5艦隊や連合艦隊司令部、ついには大本営までも怒りをあらわにしてしまいます。

「怖気づいたのか!臆病者め!」

「なぜ突入しなかったのだ! 今すぐ作戦を再開してキスカへ突入せよ!」

実戦を知らず、後方の安全地帯で地図の上から作戦を立てる海軍上層部の参謀らをはじめ、各方面関係者は一斉に木村少将を非難します。しかし、当の木村少将はそうした非難に一向にひるまず、じっと深い霧がキスカ島を覆う日を待ち続け、艦隊を待機させます。

そしてついにその日がやって来ます。木村少将は直ちに艦隊に出動命令を下し、キスカ島に向けて発進します。木村艦隊は深い霧に包まれ、周囲で日本艦隊を警戒するアメリカ艦隊に気付かれる事無くキスカ島に接近、湾内に投錨し、救出を待つ5200の残存守備隊を舟艇によるピストン輸送によりたった1時間で収容、すぐに艦隊は全速力で離脱し、全く損害を出さずに無事に引き揚げる事に成功したのです。まさに「奇跡」の撤退作戦でした。(全く見事な汚名返上ですね。これには彼を非難していた者たちも、さぞや「ぐうの音」も出なかった事でしょう。)

一方アメリカ軍は、7月末にはキスカ島の日本軍が撤退していた事を全く知らず、8月中旬にアメリカ・カナダ連合軍総勢3万4千(その内カナダ軍およそ5300)によるキスカ島上陸作戦を開始しました。しかし、アメリカ軍もこのアリューシャンの深い霧には完全に惑わされてしまいます。アメリカ艦隊は最新のレーダーを備えていたにもかかわらず、霧による電波の誤反応からありもしない残像を「日本艦隊」と捉え、付近に日本艦隊がいると終始思い込んでいたのです。

アメリカ軍は誰もいないキスカ島に猛烈な艦砲射撃と空爆を行い、深い霧の中で上陸作戦を開始します。しかし、そこで彼らが見たものは日本軍が遺棄した軍事施設と何匹かの「犬」だけでした。挙句に彼らは深い霧によって味方同士で同士撃ちをしてしまい、100名以上の死者を出してしまったそうです。(いかにこのアリューシャンの霧が深いものであるか想像出来ますね。)


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上は日本軍が放棄したキスカ島の特殊潜航艇基地の格納庫です。木造の屋根に覆われていましたが、アメリカ軍機の空爆によって吹き飛んでいます。

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上の一連の画像は現在のキスカ島の様子です。島には日本軍が置いていった数々の兵器や輸送船の残骸、軍事施設の遺構が各所に点在しています。現在このアッツ、キスカの両島はアラスカ国立海洋野生生物保護区に指定され、同時にアメリカ合衆国国定歴史建造物として、自然環境及び歴史遺産保護と安全確保のために、外来者の立ち入りが厳しく制限されている完全な無人島です。

かつてこの冷たい北の海と深い霧に包まれた島々で、身の程知らずの野望を抱いた愚かな人間たちが無益な戦いを繰り返し、そして敵も味方も何一つ得るものもなく去っていきました。今はアザラシなどの海洋生物の楽園として管理され、彼らが平和に暮らす静かな島です。


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次回に続きます。
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