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本土防空戦 ・ B29との戦い

みなさんこんにちは。

少し日にちが遅れてしまいましたが、今年もあの3月10日の「東京大空襲」の日がやって来ました。1945年(昭和20年)のこの日、アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29の大編隊による無差別爆撃で、一夜にして東京は「火の海」と化し、10万人もの死者を出したあの日です。(その翌日の11日は、まだ記憶に新しい2011年の「東日本大震災」で、2万人もの人々が犠牲になった日ですから、この2日間はわが国にとって実に忌まわしい2日間となりますね。怒涙)

この2日間は、天皇陛下も毎年皇后陛下とともに喪に服され、亡くなられた多くの方々に思いを寄せられているとお聞きしております。(恐懼)

そこで今回は、わが大日本帝国の息の根を止めたアメリカのB29による日本本土戦略爆撃と、敗戦目前の状況にあって、当時の日本軍がいかにしてB29と戦ったのか、あまり知られていなかったその迎撃作戦の実態についてお話したいと思います。

すでに何度か当ブログでお話してきた様に、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍機動艦隊はその空母と海上航空戦力の大半を失う大敗を喫してしまいました。この敗北により、大日本帝国は中部太平洋の制空権を失い、さらに同年10月に、残存艦隊の全てを投入したフィリピン沖海戦でも日本は敗れ、同じく制海権すらもアメリカ軍に奪われてしまいます。

空も海もアメリカに押さえられ、ここに、事実上日本の敗戦が決定したのですが、それでも、アメリカが日本への攻撃の手を緩める事はありませんでした。なぜなら太平洋方面では敗退が続いているとはいえ、日本軍は今だに中国大陸から東南アジアの大半に至る広大な地域を占領していたからです。

しかし、戦場が日本本土に近づくに連れて日本軍の迎撃も激しくなり、アメリカ軍の損害も次第に大きくなっていきました。そこでアメリカは、大型爆撃機による日本の軍需工業地帯への「戦略爆撃」で、日本の戦争遂行能力を奪う作戦を実行に移します。

その作戦のためにアメリカが開発したのが、大型長距離戦略爆撃機B29です。


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このB29(由来は「BOMBER 」ボンバー つまり爆撃機の29番目のタイプという意味です。)は、アメリカの航空機メーカー「ボーイング社」が開発した大型爆撃機で、合計4千機近くが生産され、全長30メートル、最高速度575キロ、搭乗員10名、最大9トンもの爆弾を搭載可能、航続距離は7トンの爆弾を搭載しても6600キロ、さらに武装も強力で、2連装機銃を機体の各所に6基合計12門も配備、そして1万メートルの高高度で飛行出来る当時世界最大最強の爆撃機でした。(ちなみにこのB29はアメリカ陸軍航空隊所属の爆撃機であり、空軍ではありません。実は意外ですが、アメリカに「空軍」が独立の軍として正式に発足するのは大戦後の1947年であり、それまではわが日本軍と同じく、陸・海軍でそれぞれの航空隊に分かれていたそうです。)

アメリカがこのB29をもって日本本土を爆撃するには、中部太平洋に浮かぶマリアナ諸島のサイパンやテニアンの島々を日本から奪取する必要があり、先に述べたマリアナ沖海戦で、迎撃に向かった日本艦隊を完膚なきまでに撃破し、これらの島々をB29の基地としたのです。


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上の2枚はサイパン島に集結したB29の大群です。特に2枚目は、恐ろしい数のB29が待機していますね。(驚異)

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そして上がB29の最大行動範囲です。当初このB29は、上の様に中国大陸の奥地成都(チョンツー)を基地としていましたが、ここからでは距離が遠すぎて、せいぜい九州までしか爆撃出来ませんでした。そこでアメリカ軍は、マリアナ諸島奪取後に日本から奪い取ったサイパンの飛行場を拡大整備して「イズリー・フィールド」と名付け、特別に「第21爆撃集団」と呼ばれる大部隊を編成して、ここを日本本土戦略爆撃の基地としたのです。

このB29による日本本土戦略爆撃は、1944年(昭和19年)11月中旬から本格的に始まります。しかし、アメリカ軍も最初から無差別爆撃を行なっていたわけではありませんでした。初期の日本への空襲は、日本軍の基地や軍需工業地帯への高高度からの精密爆撃に限られ、その編隊機数も30~40機程度で行っていました。しかし、日本の高高度上空に吹くジェット気流のために、爆弾が目標を外れる事が多く、当初は決して大した戦果を挙げていなかったそうです。

一方、わが日本軍は、このB29をどの様に迎え撃ったのでしょうか? これについては本当に残念と同時に情けない事に、ほとんど「手も足も出ない」といった状態が実情でした。

その原因はなんといってもB29の飛行高度が高すぎるからです。先に述べた様に、B29は高度1万メートルを時速570キロの高速で飛行出来ます。これを撃墜するには、高射砲による地上からの対空砲火と、戦闘機による迎撃の2つの方法しかありません。まず前者の対空砲火ですが、当時日本軍の主力高射砲は口径7.5センチと8センチのものが大半でしたが、その射程は高度8千メートル程度が限界で、B29の飛行高度には全く届きませんでした。


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上は日本軍の主力高射砲であった7.5センチ高射砲と、それを視察される昭和天皇です。この砲は合計2千門ほど、少し口径の大きい8センチ砲は約1千門近くが生産され、本土防空用に全国に配備されていました。

これらの砲は、通常戦闘機の撃墜には十分でしたが、B29には全く無力でした。そこで日本軍は、さらに大型で強力な12センチ高射砲を開発します。


三式12cm高射砲

上がその12センチ高射砲です。この砲は射程1万メートルを越え、B29を撃墜出来た日本軍の新型対空砲でした。しかし、この砲が量産され、配備されたのは大戦も後半の1943年(昭和18年)以降であり、物資の不足から敗戦までに合計120門しか生産出来ず、東京、大阪、神戸などの大都市にしか配備出来ませんでした。(さすがにこの砲の威力は強力で、東京に配備された12センチ砲は、十数機のB29を撃墜しています。もっと早くこれを量産していれば、確実にもっと多くのB29を撃墜出来た事でしょう。本当に悔やまれてなりません。)

そして後者の戦闘機による迎撃ですが、これもB29の1万メートルという飛行高度に対しては、技術的かつ物理的に非常に困難でした。

日本軍は優れた戦闘機を数多く持っていましたが、これらの通常戦闘機が最高に能力を発揮出来る飛行高度は大体5千~6千メートルが限界でした。技術的にはB29と同じ1万メートルの高度まで上昇する事は出来ましたが、実際はそこまでたどり着くのが精一杯で、まともな空中戦はほとんど不可能でした。その理由は「空気の薄さ」です。

飛行機は当然の事ながら燃料を燃やし、エンジンを動かして飛びます。燃料を燃やすには酸素が必要です。この時代の戦闘機は時速550~600キロで飛ぶ事が出来ましたが、これがこの高さになると極度に薄くなり、エンジンの回転が遅くなってしまうのです。そのため日本の戦闘機はB29と同じ1万メートルまで上昇しても、速度は約半分の300キロにまで落ち込み、B29の速度に追いつけないのです。また、この高度になると、気圧や温度も地上とは全く違い、日本軍パイロットは猛烈な寒さと気圧の違いにさらされ、酸素マスク無しでは操縦する事すら困難でした。

その点B29は、この高度に達しても十分な酸素と空気を取り入れる装置がエンジンに付いており、また高高度での搭乗員の身体的負担軽減のために、圧力を調整する装置も機内に装備、アメリカ軍パイロットたちは機内で悠々とコーヒーを飲みながら飛行していたそうです。

この様な状態であった事から、日本軍はB29に対抗する有効な方法が見出せませんでした。そしてついに、日本軍は究極のB29迎撃作戦を実行に移します。それはB29を「体当たり」で撃墜するというものです。

当時、日本帝国本土の防衛は陸軍が主体でした。そして、帝都東京のある関東地区の防衛は東部軍(大阪など関西地区は西部軍)の担当でした。その関東地区の防空は陸軍第10航空師団が、およそ150機の戦闘機でその任務に当たっていました。(天皇陛下のおわす帝都周辺の防空に、たったこれだけでは明らかに少なすぎますね。この原因は太平洋戦争は海と空の戦いであり、飛行機の生産に必要なアルミなどが、当然それを担当する海軍に優先的に配分されたためです。)

東部軍はB29迎撃のために、配下の飛行戦隊に次の様な命令を発します。

「敵B29は高高度をもって帝都上空に来襲す、師団は特別攻撃隊を編成し、これを要撃撃墜せんとす。各戦隊は高高度で侵入する敵機に対して体当たりを敢行し、これを撃墜すべし。」

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上は出撃する陸軍航空隊のパイロットたちです。

この攻撃隊は、当時本土防衛総司令官であった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)陸軍大将によって「震天制空隊」と命名され、出撃します。


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上が本土防衛総司令官であられた東久邇宮稔彦王大将です。(1887~1990)とても長い名前のこの宮様は、昭和天皇の叔父に当たり、同時に今上天皇陛下の大叔父に当たるお方です。終戦時には降伏に反対する軍部の暴発を防ぐため、日本の歴史上最初で最後の「皇族首相」となり(理由は単純です。首相が皇族ならば軍部も「暗殺」やクーデターを起こせないからです。「逆賊」になりますからね。)日本の降伏文書調印と進駐軍の日本占領が完了するまで2ヶ月ほど首相を務められました。敗戦後は臣籍降下により民間人となられ、波乱の半生を送られました。また、歴代皇族としては最長寿の102歳の長命を全うされたお方でもあります。

さらに日本軍はこれらの特攻に加え、双発の戦闘機に強力な20ミリ機銃を「斜め」に装備し、B29の下からこれを狙い撃つ攻撃も考案します。


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上がその「斜銃」を装備した双発戦闘機「月光」です。操縦席の後に突き出た2本の棒状のものが「斜銃」で、B29の下に回り込んで狙い撃つというものです。それなりの戦果はありましたが、こんな苦肉の策を取るより他に、日本軍はB29に対抗する手段がありませんでした。

日本軍がこの様なやり方でB29の迎撃に苦労していた矢先、アメリカ軍に大きな異変が起きていました。1945年(昭和20年)1月、日本本土空襲を担当する第21爆撃集団の司令官が代わり、新たな司令官としてカーチス・ルメイ少将がその任に付いたのです。


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上が第21爆撃集団の新たな司令官カーチス・ルメイ少将です。(1906~1990)彼はアメリカ軍屈指の爆撃の専門家として名を挙げ、その知識と経験を買われて39歳の若さで少将にまで昇進し(日本軍なら30代で将官クラスになるなどあり得ませんね。)この第21爆撃集団の司令官に任命されます。後に彼はアメリカ空軍大将にまで登り詰め、戦後わが航空自衛隊の創設にも尽力しています。われわれ日本国民にとってアメリカの軍人といえば、マッカーサー元帥ばかりが印象に残りますが、この人物こそ、後述する様に決して忘れてはならない人物です。

ルメイ少将は、前任の司令官が高高度の精密爆撃に固執し、大した戦果を挙げていない事を指摘し、それまでの方針を転換してB29の大編隊により、日本の都市への焼夷弾による無差別爆撃を指令します。

この攻撃は多くの民間人の犠牲者が出る事から、彼の前任の司令官たちはそれを行いませんでした。もちろんルメイもそんな事は百も承知です。しかし彼は、戦争を早く終わらせるために日本の都市を焼き払う事を主張したのです。

彼の主張の根拠は2つあります。まず第1に、日本の都市はヨーロッパのドイツなどと違い、その住居の多くが密集した木造家屋であり、1923年(大正12年)の関東大震災でも、火災により多くの被害を出した事から、空襲による火災の危険性が、すでに大正の末年に欧米の専門家に指摘されていました。

また第2の理由として、日本の軍需工業は、その生産される多くの兵器の部品が中小の零細企業(いわゆる町工場ですね、これは現在でもあまり変わっていません。)によって製造されており、それらは東京の住宅密集地などに集中していました。そのためルメイは、日本の戦争継続能力を削ぐにはこれらを街ごと焼き払う必要があると考えていたのです。

そしてルメイはついに恐ろしい作戦を実行に移します。それはこれまでとは比較にならないB29の大編隊を編成し、これまでの様な高高度ではなく、高度2千メートル程度の低高度からの夜間爆撃により、東京を一気に焼き払うという作戦です。

彼はこの作戦のためにB29の機銃や弾薬を全て降ろし、その分多くの焼夷弾を積ませて出撃させます。こうして1945年(昭和20年)3月10日、325機に登るB29の大編隊による「東京大空襲」が実行されたのです。


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上の1枚目は富士山上空のB29の編隊です。わが大日本帝国の霊峰が、奇しくも大きな目印となっていました。そして2枚目は、まさに「雨あられ」の様に恐ろしい数の焼夷弾をばらまくB29です。

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上の3枚は空襲後に焼け野原となった帝都東京の姿です。火災で亡くなった方々の黒焦げになった遺体が山になっています。(閲覧注意)3枚目は亡くなられた方の遺体を記録する警官たちです。といっても、男女の性別もわからないほど黒焦げになった遺体の数を数える事ぐらいしか、彼らに出来る事はありませんでした。

この空襲でおよそ10万人の市民が亡くなり、東京は写真の様に焼け野原になりましたが、ルメイ率いるB29の空襲が止む事はありませんでした。その後もアメリカ軍は日本全国の都市を同様に焼き払い、広島と長崎の原爆による犠牲者を除けば、その死者は25万~33万人を越えるそうです。(統計にばらつきがあり、正確な数は不明です。)

戦後ルメイはインタビューで次の様に発言しています。

「我々は東京を焼いた時、たくさんの女子どもを殺している事を知っていた。やらなければならなかったのだ。私は我々の所業の道徳性について憂慮する幹部やパイロットたちに対してこういったものだ。道徳? ふざけるな! 我々は今戦争をしているのだ。戦争に道徳などあるものか。勝つか負けるかそのどちらかだ。そんな事を言うなら最初から軍人になどなるな! と。」

B29による日本空襲は敗戦の日の8月15日当日まで続けられ、空襲に参加したB29は通算3万機以上に登りました。その間に日本軍が撃墜したB29はおよそ300機を越え、圧倒的に不利な状況下でもかなり奮戦したと思います。

そして敗戦。8月15日の日本のポツダム宣言受諾により、翌日の16日からB29が爆弾を落とす事はなくなりました。しかし、戦争に疲れ果てていた日本国民は、悠々と上空を飛ぶ大きな銀色の機体を見上げながら、史上初めての敗戦に茫然自失し、明日の自分たちの行く末に思いを巡らしながら数日間は焼け跡を彷徨っていました。

このB29に対し、意外な方が感想を述べられています。それは大日本帝国の皇后であられた先の香淳皇后です。


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上が在りし日の香淳皇后(皇太后陛下)です。(1903~2000)お名前は良子(ながこ)様といい、昭和天皇との間に7人のお子様を成し、昭和天皇をお支えして日本の激動の時代を供に歩まれ、さらに歴代皇后で最長の97歳の長寿を全うし、帝国皇后として、また日本の国母として見事にお役目を務められた偉大かつ高貴な女性ですね。その皇后としての在り方やご姿勢は、現美智子皇后陛下も「お手本」として忠実に継承されておられます。晩年は腰を痛められ、高齢による物忘れなどで国民の前にお姿を見せる事は少なくなり、昭和天皇崩御後は吹上御所で静かな余生を過ごされていましたが、その真似の出来ないふくよかな笑顔は「エンプレス・スマイル」(皇后の微笑み)として、海外でも大変な人気になりました。

一時期、無知蒙昧で卑しい週刊誌やマスメディアが、香淳皇后が現美智子皇后がまだ皇太子妃であられた頃に、何かと辛く当たっているなどと書きたてた事がありました。確かに、旧皇族久邇宮家(くにのみやけ)ご出身で、大正から昭和初期までの宮廷華やかなりし時代を過ごされ、皇室のしきたりや日本古来の伝統を厳格に守り、いわば古い世代の日本女性の代表であられた香淳皇后と、民間から初めて皇室に嫁がれ、古い皇室に新しい若い価値観の風をお入れになられた現美智子皇后との間に、多少の意見やお考えの相違があった事は事実でしょう。しかしそれは、一部週刊誌やマスメディアの書きたてた良くある嫁と姑の確執などという低レベルなものではなく、片や天皇家に連なる高貴な家柄に生まれたやんごと無き古い時代の女性と、一流企業経営の大資産家一族(現美智子皇后陛下のご実家は、日清製粉の創業家正田家といい、現在は実弟の修氏が名誉会長として経営されています。)ご出身とはいえ、全くの一般国民である新しい時代の女性との比較対象が、記事を読む読者に最も共感出来るよう(つまり、その方が雑誌が「売れるから」)誇大に伝えられた感がある様に思います。

ちなみに香淳皇后も、まだお若い頃は姑であるその前の貞明皇后(ていめいこうごう 1884~1951)から、「何をさせても不細工な事だね。」などとはるかに「キツイ」事を言われ、辛く当たられていた事があるそうです。この貞明皇后というお方は旧公爵九条家ご出身で、大正天皇の皇后にして、昭和天皇の母君にあらせられるお方ですが、頭の回転が速く、大変意志の強い(言葉を代えて言えば気の強い)女性であったらしく、おっとりのんびりしたご性格であった香淳皇后とは相性が悪かった様です。(笑)また大正帝との間に4人もの皇子をお産みになった事から、戦前の宮中におけるその権勢は絶大で、当初は内親王様方(つまり娘)ばかり4人続いた香淳皇后にとって大変なプレッシャーであった事でしょう。

そんな香淳皇后が、敗戦直後に日光に疎開されていた皇太子明仁親王殿下(今上天皇陛下)に宛てた手紙で、B29について次の様なご感想を述べられています。

「毎日B29や艦上爆撃機、戦闘機などが縦横無尽に大きな音を立てて朝から晩まで飛び周っています。この手紙を書きながら、頭を上げて外を見るだけで、何機大きいのが通ったのか分からないほどです。B29は残念ながら立派なものです。」

次回に続きます。
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