アレクサンドロス大王の戦い 8

みなさんこんにちは。

宿敵ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロスは紀元前329年から327年まで、前回お話したバクトリア地方の制圧に向かいますが、この地で現地の遊牧民族の激しい抵抗に遭い苦戦します。それどころかこれまで無敵を誇り、常に勝利して来たアレクサンドロス軍が、ここに来て敗北を重ねる事が多くなります。

どうして当時世界最強であったアレクサンドロス軍は敗れたのでしょうか?

それは敵である遊牧民族が、いわゆる「ゲリラ戦」を仕掛けて来たからです。彼らがどの様な「ゲリラ戦」を展開したのかというと、具体的にはアレクサンドロスの数万の大軍が長い隊列を組んで険しい山道を進軍して行く際に、その隊列の柔らかい横腹の隙を突き、物陰に潜む遊牧民たちが一斉に矢を射掛けて数十人単位でアレクサンドロス兵を殺害するというものです。敵は身軽な小集団であり、すぐに逃げ去ってしまうため、重い鎧と盾に剣と槍という「重装備」で身動きの遅いアレクサンドロス兵は追撃するのも困難でした。

これにはアレクサンドロスもかなり悩まされた様です。何せ敵はこれまで相手にして来たペルシア軍の様な大軍による集団戦法ではなく、数十騎単位の小部隊で待ち伏せて襲って来る上に、いつどこから攻撃されるか分からないからです。(彼らは「攻撃する」つもりでバクトリアに侵攻したのに、自分たちが逆に「攻撃される」対象に陥ってしまっていました。)

敵が強大な大軍である場合、その敵との正面での戦いを避け、長期のゲリラ戦に持ち込んで敵を心身ともに疲弊させて弱らせる。これは現代でもベトナムやアフガニスタンで記憶に新しい事例がありますね。かつてこれらの地では最新兵器と圧倒的な物量を持つ完全装備の米軍や旧ソ連軍が、ろくな武器も持っていないベトコンやアフガンのイスラム兵が駆使した数々のゲリラ戦術に散々悩まされ、さらに十数年に亘る泥沼の長期戦で物心ともに疲弊して国家財政はボロボロになり、事実上敗北して逃げるように撤退した事は数々の映画で描かれて良く知られています。

(ベトナムではサイゴン陥落の際、追い立てられ、慌てふためきながら撤退する米軍が、ベトナム戦争の象徴であった多数のヘリコプターが空母や輸送船に留め置く場所も無くなり、やむなく海上に投棄して操縦していた米兵たちが泳いで味方艦船にずぶ濡れで救助される姿や、アフガニスタンでは旧ソ連軍は数千両の大機甲部隊で侵攻したのに、ゲリラのロケット弾や、道路上に仕掛けた強力な爆弾によって多数の戦車や装甲車が次々とキャタピラや車輪を破壊され、最後はペレストロイカを掲げるゴルバチョフの命によって、疲れきったソ連兵たちが長い列を成し、歩いて撤退して行く姿が印象的でした。)


それだけではありません。これまでアレクサンドロスに忠誠を誓ってきた部下たちからも、「大王」の方針に異議を唱える者が増え、不協和音が目立つようになって来ました。さらに兵士たちも、度重なる出征に疲れ果てていました。こうした状況を打開する為、アレクサンドロスはある程度の地域を支配下に置くと、それ以上のバクトリア作戦を中止し、一旦バビロンに戻って今度はインド侵攻を計画します。(この頃、アレクサンドロスは王妃としてバクトリアの領主の娘ロクサネを正妻に迎えます。)

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紀元前326年アレクサンドロスは、北のバクトリア地方から一転今度は南のインドへの侵攻を開始します。(進撃経路は上図参照)彼はおよそ5万余の兵を率いて南下し、インド諸侯の軍勢を撃破しますが、すでに遠征開始から8年、この時期遠征当初から従って来た兵たちには、厭戦気分が深刻なまでに広がっていました。

いつまで戦い続けなければならないのか? いやどこまでやれば気が済むのか? 地中海を手に入れ、かつてギリシアが文明の模範として憧れたエジプトを支配し、200年の宿敵大ペルシア帝国をも滅ぼした。人智の及ぶ全ての地を我らは手に入れたのだ。もう充分ではないか。これ以上何を望むというのか。それとも我らが大王はまだ足りぬというのか?

兵士たちの間でこの様な声が上がると、アレクサンドロスは兵士たちに呼びかけて奮起を促しました。

「もう少しで我らはインドを手に入れる事が出来る。その後にアラビアも落とす。そうすれば世界を征服した事になるのだ。」

と、(当時まだ今日の様なヨーロッパは存在せず、ヒマラヤの先の中国などは存在を知られておらず、インドまでが彼らの時代の「世界」でした。)


これに対し兵士たちのアレクサンドロスに対する答えはこうでした。

「我らが偉大なる大王よ、この世で最強のお方よ、お行きになりたければ貴方一人でお行きなさい。我々はただ故郷に帰りたいのです。」

事実上兵士たちの完全ストライキでした。常に目の前の敵を討ち倒し、必ず勝利して来たアレクサンドロスに対して、今度は味方である兵士たちの望郷の思いという目に見えぬものが「新たな敵」として彼の前に立ちふさがったのです。そしてこの目に見えぬ「新たな敵」を、彼はついに討ち倒す事が出来ませんでした。遠征開始から10年、アレクサンドロスも30歳を越え、若さと情熱だけで物事を推し進めるのではなく、様々な経験を通して物事を大局的に見る度量の広さを兼ね備えた大人へと成長していました。そして兵士たちの要求を受け入れ、それ以上の進撃を中止して全軍にペルシア帰還を命じます。

紀元前324年ペルシアに戻った彼は、自らの帝国の都をバビロンに定め、その後は帝国の統治に専念します。(その間も、彼は先に触れたアラビア半島の遠征を諦めてはおらず、部下に作戦計画を立てさせていた様です。)しかしその矢先の紀元前323年6月、夜の祝宴の最中に高熱を発して倒れ、10日間うなされた挙句、死期を悟った彼は、部下たちに「最も強い者が、我が帝国を継承せよ。」と遺言してこの世を去りました。短くも波乱に満ちた稀に見る32年の生涯でした。(彼の死因はその状況からマラリアに感染したものという説が有力です。わが国の平清盛と似た症状ですね。しかし部下の怨恨による毒殺説も疑われています。)

1024px-MakedonischesReich.jpg

上がアレクサンドロス大王の帝国の全盛期です。彼の死後、帝国は部下の将軍たち(プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコス、アンティゴノスその他)によって分割支配されます。彼らは当初はアレクサンドロスの息子で生まれたばかりのアレクサンドロス4世を立てて帝国を運営していく予定でしたが、大王の「最強の者が帝国を継ぐが良い。」という遺言に従ってすぐに仲違いし、それぞれの勢力地で王朝を打ち建てます。

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彼らの後継者争いは「ディアドコイ戦争」と言われますが、結局プトレマイオスがエジプトに築いた王朝を除く、その他の者たちの王国は長続きせず、一代限りか、二代目ですぐに滅んでしまいました。第5回で述べたプトレマイオスの王朝だけが最も長く続き、しかもとても繁栄したので、ある意味ではアレクサンドロス大王の後継者は、プトレマイオスであったと思います。(プトレマイオスは、アレクサンドロスの遺体をバビロンから故郷マケドニアへ移送していた他のライバルから奪還し、遺体をミイラにしてエジプトに埋葬したそうですが、その墓は今だに発見されていません。もし見つかれば、世紀の大発見ですね。)

アレクサンドロス大王の遺児アレクサンドロス4世は、父大王の死の時まだ王妃ロクサネの腹にいて生まれておらず、生まれてからはマケドニア王として部下の一人カッサンドロスに傀儡として利用された挙句、母である王妃ロクサネとともに暗殺されました。わずか6歳でした。こうしてアレクサンドロス大王の直系は絶え、彼の王家であり、およそ400年続いたアルゲアス王朝も滅亡してしまいました。

アレクサンドロス大王は、自分が死ねば遅かれ早かれ必ず争いになり、まだ見ぬわが子の哀れな運命も見通していたのでしょう。彼が「最も強い者が帝国の後継者となれ」と言い残したのはそれが分かっていたからだと思います。彼の「世界帝国」はわずか数年で消え去りましたが、彼の記憶はその後の英雄たちの歴史を通してヨーロッパや中東全域、さらに中央アジアに強く残り、今も伝説としてこれらの地域の人々に語り継がれ、生き続けているのです。

終わり。
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