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遠すぎた同盟 ・ 遣独潜水艦作戦

みなさんこんにちは。

みなさんは、わが国が先の第2次世界大戦でドイツ、イタリアと「日独伊三国同盟」を結び、「枢軸国」として共に戦ったのは良くご存知の事と思います。その中で、失礼ながら最も脆弱であったムッソリーニのファシスト・イタリアが大戦中盤の1943年(昭和18年)9月に連合国に降伏してからは、日本とドイツはたった2カ国で全世界を相手に戦い続ける事になります。(実際には日本もドイツも、占領した多くの国々に、意のままに操れる「傀儡政権」を樹立させ、これらを「同盟国」と称して自らの戦争に無理やり協力させていましたが。)

ところでみなさんは、日本とドイツの距離がどれだけあるかご存知でしょうか? 実際に旅行や出張で行かれた事がある方ならばお分かりとは思いますが、その距離はなんと実におよそ9200キロ、東京から飛行機で直行便のあるフランクフルトやミュンヘンまでの所要時間は12時間もあるのです。

この様に、地理的にこれだけ離れていた日本とドイツは「同盟国」とは言いながら、現実には軍事的な共同作戦を大規模に行う事は物理的に不可能であり、日本はアメリカや中国と、ドイツはソ連やイギリスといったそれぞれの敵を相手に独自の戦いを展開せざるを得ませんでした。

しかし、そんな中にあって、日本とドイツが共同で行った唯一の作戦がありました。今回は第2次大戦中、日独両国の間で5回に亘って行われた「遣独潜水艦作戦」の知られざる実態についてのお話です。

わが大日本帝国と、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツとの同盟関係は、1936年(昭和11年)の日独防共協定に始まり、その後にベニト・ムッソリーニ率いるイタリアが加わって、1940年(昭和15年)9月の「日独伊三国同盟」に発展しましたが、すでにヨーロッパでは第2次大戦が始まっていました。ヒトラーのドイツ軍は、その1年前からヨーロッパ全土に侵略の手を伸ばし、破竹の勢いで進撃を続けていたのです。


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上は日独伊三国同盟締結を祝って三国の国旗を掲げたベルリンの日本大使館と、その祝賀パーティーの様子です。中央で演説するのは、この日独伊三国同盟の推進者である当時の松岡洋右外相です。

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上が三国同盟の推進者である時の日本帝国外務大臣松岡洋右氏です。(1880~1946)彼については、あの国際連盟脱退の演説と、そのまま随行員たちを促して議場を退出していく姿が有名ですね。他にも日ソ中立条約の締結など、とかく軍人ばかりが登場するこの時代の日本にあって、数少ない軍人以外の著名人であり、戦前の日本外交の中心人物として活動した非常にキャラクターの濃い人物です。(笑)しかし、彼は当時の世界のパワーバランスを考慮した彼なりの思惑から、日本にとって良かれと思って行った事でしょうが、それらは次第に日本を破滅の道に追いやる結果となってしまいました。

この時、日独間の連絡や人的・物的な交流は、主にソ連のシベリア鉄道を経由して行われていましたが、1941年(昭和16年)6月に、ヒトラーがソ連との間で結んでいた不可侵条約を破り、300万という大軍をもってソ連領内に侵攻(独ソ戦)したために、日独間の陸上連絡路は途絶してしまいます。その後しばらくの間は海上船舶での交流が続きましたが、同年12月の日米開戦によって、この海上連絡路もほぼ途絶えてしまいます。

それでも、ドイツはまだ日独軍の圧倒的優勢であった1942年半ばまで、連合軍の厳重な海上封鎖を強行突破する「封鎖突破船」を日本へ派遣しています。これらは日本名「柳輸送」(やなぎゆそう)と呼ばれ、ドイツから日本へは、精密機械、鋼材、兵器などの軍需品を運び、日本からドイツへは、その帰り道に生ゴム、錫、モリブデン、タングステン、マニラ麻、コプラなどの日本占領下のアジア原産の原材料をドイツへ持ち帰りました。


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上がドイツの封鎖突破船の1隻である「リオ・グランデ号」です。これらの船は、7千トンから8千トンクラスで速度20ノット以上(時速およそ40キロ)という、軍艦以外の船舶としては高速の優秀船で、合計16隻が日本へ向けて出航しましたが、その多くは連合軍に撃沈され、封鎖を突破して無事に往復し、積荷を積んでドイツの港にたどり着いたのはたった2隻だけでした。

そこでドイツ側から、今後の日独間の連絡と物的なやり取りは潜水艦によって行うべき旨の提案がなされ、レーダー、ロケットエンジン、暗号機など、ドイツの優れた最新の軍事技術を手に入れたい日本もこれに同意します。


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上がその基本的なルートです。アジアとヨーロッパを結ぶ大航海ですね。

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この遣独潜水艦作戦について詳しくお知りになりたい方は、「戦艦武蔵」や「大本営が震えた日」などで有名な吉村昭さんの小説「深海の使者」が良書です。ページ数は427ページで、派遣された5隻の潜水艦それぞれの詳細と、関わった人々の心情が見事な文章で表現されています。

第1回目の遣独潜水艦作戦は1942年(昭和17年)4月から始まります。最初にその遣独潜水艦として選ばれたのは「伊30」潜水艦で、4月11日に呉軍港を出航、日本海軍の潜水艦基地があるインド洋に面したマレー半島のペナンで補給を受け、インド洋を経由して大西洋を北上、4ヵ月後の8月6日ドイツ軍占領下のフランス、ロリアンに入港します。


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上の画像1枚目が伊30潜水艦の同型艦(伊15)で、下2枚がフランス・ロリアンの現在の姿です。(人口5万8千ほど)3枚目に写るのが、今も残るかつてのドイツ潜水艦「Uボート」の基地で、伊30潜水艦はここに入港しました。連合軍の空爆から潜水艦を守るために築かれた分厚い鉄筋コンクリート製の巨大な施設に注目して下さい。これはドイツ語で「ブンカー」(防空施設の意味)と呼ばれ、ドイツ本国のキール、ハンブルク、ブレーメンなどの主要軍港と、フランス、ノルウェーなどのドイツ軍占領地域の港に建設されていました。これを見ても、当時のドイツの技術力の高さが分かりますね。これらのブンカーはあまりにも巨大かつ頑丈すぎる構造のために、取り壊しや撤去に莫大な費用がかかる事から戦後も残され、歴史を語る観光名所や民間の倉庫、作業場、資材置き場、ヨットなどの保管庫として今も利用されているそうです。一方わが日本海軍は、終始この様な巨大な防空施設を軍港に建設する事はなく、潜水艦は岸壁に係留する方式でした。

伊30は2週間ほど滞在し、ドイツが望む鉱物資源を下ろすと、ドイツ製の最新レーダーなどの軍需品を積んで日本への帰路に着きます。そして2ヵ月後の10月はじめにペナン港に到着しました。ここまでは順調な航海だったのですが、ここから思わぬアクシデントに見舞われてしまいます。その後シンガポールに入港した伊30は、海軍の連絡不行き届きから誤って味方の機雷敷設海域に進入してしまい、機雷に触れて爆沈してしまったのです。

このアクシデントにより、せっかくドイツから運んで来た最も重要な積荷である最新レーダーや、その他の軍需品が使い物にならなくなってしまいました。(これは本当に残念です。この時沈んだドイツのレーダーが日本で生産され、これと連動した新型の強力な「15センチ高射砲」が量産配備されていれば、前回お話したその後のB29による本土空襲においても、日本の防空態勢はかなり強固になって、かなりの数のB29を撃墜出来たのではないかと思います。)

さて、第2回目の遣独潜水艦作戦は、それから10ヵ月後の1943年(昭和18年)6月に実施されます。今回派遣されたのは「伊8」潜水艦で、前回の伊30とほぼ同じ大きさと性能を持つ潜水艦でした。


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上がその伊8潜水艦です。全長109メートル、排水量2200トン、速度23ノット(潜航した水中での速度は8ノット)14センチ単装砲1門、水上偵察機1機搭載という日本海軍の典型的な主力潜水艦でした。

今回の遣独潜水艦作戦が前回と違うのは、相手先のドイツの最高指導者ヒトラー総統が、日本へ無償譲渡(つまりヒトラーが「タダ」でくれるという事です。)する様命じたUボート「1224号」を日本へ回航する日本の乗組員(ヒトラーがくれた潜水艦を日本まで乗って帰る乗組員たち)を乗せていくという点です。(もちろん、日独間の物資のやり取りは前回同様行います。)

6月1日に呉軍港を出航した伊8は、先に載せた地図のルートを通り、大西洋のアゾレス諸島で待っていたドイツ潜水艦と会合、その案内でおよそ2ヵ月後にフランス・ブレスト軍港に入港しました。


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上の画像1枚目がブレストのブンカーに入港するわが伊8の乗組員たちです。写真のブンカーの屋根のコンクリートの分厚さを、その上に乗って見下ろしている人々の大きさと見比べてみてください。そして2枚目がブレスト・ブンカーの全景で、3枚目がその内部です。

わが乗組員たちは、こんな巨大な基地を目の当たりにしてみんなすっかり緊張した面持ちですね。一方出迎えるドイツ軍側でも、はるか遠い異国日本の潜水艦の巨大さと、水上偵察機を1機搭載出来る点には大いに驚いていたそうです。なぜなら、世界的に有名なドイツのUボートは、その大きさが日本の潜水艦の7割程度(全長70~80メートル)で、トン数も半分の1200トンクラスが主力であり、水上機の搭載に至っては考えた事も無かったからです。東洋と西洋の考えの違いが面白いですね。

伊8は、ドイツから贈られる潜水艦の乗組員と、天然ゴム、錫、雲母(「うんも」といいます。鉱物の一種で電子部品の絶縁体などに使用されます。)などのドイツへの積荷を降ろし、ドイツからの軍需品を積み込みます。また、当時ベルリン駐在の海軍武官であった横井少将を乗せて日本への帰路に着きます。


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上はドイツ海軍総司令官のカール・デーニッツ元帥(1891~1980)に見送られ、伊8に乗って日本へ帰国する駐独大使館付武官であった横井忠雄海軍少将です。(1895~1965)彼は親ドイツ派の海軍軍人で、ベルリンの日本大使館に赴任していましたが、大のナチス嫌いでそれを隠そうともしなかったため、「好ましからざる人物」としてドイツ外相リッベントロップから日本側に人選の交代を要求され、いわば更迭された日独の「やっかい者」でした。(横井閣下には失礼ですが。笑)一方今回の第2回遣独潜水艦作戦は、ヒトラー直々の命令であったためにドイツ側も力を入れ、海軍最高司令官のデーニッツ元帥自ら横井少将を見送りにブレストを訪れていました。見送るデーニッツは、横井少将を巡る日独間の政治的思惑には無関心の生粋の海軍軍人であり、横井少将の心情を同じ軍人として理解していた様で、2人ともにこやかな表情で別れの握手を交わしていますね。

こうしてドイツ側に見送られた伊8潜水艦は1943年(昭和18年)10月初めにブレストを出航、2ヵ月後の12月中旬に呉軍港に無事到着し、任務を成功させたのです。

しかし、この遣独潜水艦作戦の成功はここまででした。その後も遣独潜水艦作戦は間を置いて続行され、それから3隻の伊号潜水艦がドイツに向けて派遣されましたが、連合軍の攻勢によって戦局は日独双方に著しく不利になり、残念ながらそれら3隻の潜水艦は全て途中で撃沈されてしまいます。

この遣独潜水艦作戦は、1944年(昭和19年)6月に、大西洋でアメリカ海軍に撃沈された伊52潜水艦を最後に、その後実施される事はありませんでした。この作戦は、日独にとって同盟関係をつなぐ唯一の方法でしたが、その成果は実に「労多くして実りの少ない」ものでした。特に科学技術先進国のドイツにとっては、当時の日本から欲しいものはほとんどなく、生ゴムやアジア原産の鉱物資源も、たった1隻の潜水艦で運べる量など最大でもせいぜい200トン程度でたかが知れています。それでも、ドイツ側は誠意を持ってはるかに価値のある高性能の軍需品や技術を日本へ供与してくれたのは特筆に価するでしょう。

むしろ、この遣独潜水艦作戦で得るものが大きかったのはわが日本の方であり、わずかながら持ち帰る事が出来たドイツの軍需品や技術を応用して、戦局挽回のための新兵器開発に、遅まきながら力を入れていきます。しかし、全ては遅すぎました。結局わが国は、ドイツ側から供与された技術や新兵器をほとんど活かす事が出来ずに敗戦に至ってしまうのです。

この遣独潜水艦作戦は、日本とドイツの同盟と共闘の証でした。両国のやり取りがもっと活発かつ数多ければ、戦局は日独にもっと有利に展開していたかも知れません。その日独両国の運命を大きく左右し、また阻害したのは、やはり最初に述べた両国の距離の遠さにあるものと思います。つまり、あまりにも「遠すぎた同盟」だったのです。

この作戦のそもそもの遠因となった日独伊三国同盟を締結した松岡洋右元外相は、後に次の様な言葉を残しています。

「こんな事になってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった。陛下と8千万の国民に申し訳なく、死んでも死に切れない。」

次回に続きます。
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