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消えた大艦隊 ・ 敵わなかった艦艇建造計画

みなさんこんにちは。

みなさんは、日本が四方を海に囲まれた完全な島国であるという事は良くご存知と思います。この地理的な特徴ゆえに、わが国は鎌倉時代の2度の元寇(蒙古襲来)を除いては、1度も大陸からの外敵の侵攻を受けずに済み、2千年の長きに亘って独立を維持出来たといえるでしょう。

このわが国の地理的な特徴は、当然の事ながら過去現在未来永劫変わる事のない特殊なものであり、日本列島を取り囲む海は、日本の国防上の「天然の防壁」としてこれからも機能し続けてくれるものですが、わが国には国家と産業、経済、国民生活を維持していく上で必要不可欠な資源と食糧を、その細長い国土と領海内で完全自給出来ないという島国ならではの致命的かつ宿命的な弱点があります。

そこで、それらを得るには外国から輸入して、それを大量の船舶でわが本国に運び入れる事になる訳ですが、いざ外国と戦争になった際に真っ先に狙われるのが、この物資の海上輸送(シーレーン)です。この日本の生命線ともいうべき海上輸送と領土・領海を敵の攻撃から守るには、海の軍隊すなわち「海軍」が必要不可欠です。

そのため、わが国は明治維新以来、心血を注いで海軍力の整備増強に努め、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開戦時点における大日本帝国は、イギリス、アメリカに次ぐ勢力を持つ世界第3位の大海軍国でした。しかし、それだけの勢力を誇り、太平洋を縦横無尽に暴れ回ったわが日本帝国海軍が、太平洋戦争開戦からわずか3年後の1944年(昭和19年)末には、水上戦闘艦艇のほとんどを失う壊滅状態に陥ってしまいます。

今回は、日本帝国海軍の今次大戦における艦艇の戦時建造の流れとその実態を、それにかかったお金と絡めてお話したいと思います。


aab53158.jpg

上は開戦の前の年1940年(昭和15年)10月に横浜沖で行われた皇紀2600年記念の特別観艦式の様子です。皇祖にあらせられる初代神武天皇ご即位に始まるわが大日本帝国建国2600年を祝い、戦艦、空母、重巡、軽巡、駆逐艦、潜水艦、その他の補助艦船など、大小合わせて総勢98隻の艦艇と500機以上の航空機を動員して盛大に行われたものです。しかし、これが日本帝国海軍の最後の観艦式となりました。

では、太平洋戦争開戦時点における日本海軍は、一体どれだけの艦艇を保有していたのでしょうか? これについては詳細な資料が数多く残っており、また軍艦にお詳しい方ならば良くご存知の事と思われますが、知らない方のために代表的な戦闘艦艇の実数を下に載せておきます。

戦艦・・・・・10隻
航空母艦・・・10隻
重巡洋艦・・・18隻
軽巡洋艦・・・20隻
駆逐艦・・・111隻
潜水艦・・・・64隻
海防艦・・・・・4隻

合計237隻

ちなみに、この時のアメリカ海軍の艦艇総数は以下の様になります。

戦艦・・・・・15隻
航空母艦・・・7隻
重巡洋艦・・・18隻
軽巡洋艦・・・19隻
駆逐艦・・・・176隻
潜水艦・・・・111隻

合計346隻(このうち駆逐艦と潜水艦の数は、資料によって内訳にかなりの変動があります。)

この様に、すでにこの時点において、日本はアメリカに対しておよそ7割の戦力しか持っていませんでした。この理由は、第1次世界大戦後の1920年代から1930年代にかけて、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの5大海軍国の間で結ばれた2回の海軍軍縮条約(戦艦や空母などの大型艦の保有量を決めた1922年のワシントン条約と、巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の保有量を決めた1930年のロンドン条約。)で、日本はアメリカとイギリスの高度な戦略によって、これら2カ国との艦艇保有数がおおむね7割に定められてしまった事に原因があります。

これらの条約は、結局1936年(昭和11年)に日本が脱退した事により崩壊しますが、これにより条約の制限がなくなり、思う存分好きなだけ軍艦を建造出来る様になった大日本帝国は、早速条約時代に造れなかった新型艦艇の建造に着手します。これは当初第3次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)と呼ばれ、昭和12年から17年までの5年間に、大小合わせて66隻の新型艦を建造する予定でいました。しかし、その途中の1938年(昭和13年)に、アメリカが「ヴィンソン計画」と呼ぶ大幅な軍艦建造計画を進め始めたため、日本はこれに対抗して、従来の計画に加えてさらに第4次海軍軍備充実計画(マル4計画 昭和14年から19年までの5年間に大小80隻の新型艦を建造する。)を立てました。

このマル3、マル4計画によって建造される予定であった新型艦(戦闘艦艇のみ)の主なものと、それにかかる予算(「予算」ですので、実際にかかった金額はもっと大きくなります。)は以下の様になります。

戦艦・・・・・大和型4隻(1隻1億3千万円)
航空母艦・・・翔鶴型2隻、大鳳型1隻(翔鶴型1隻8500万円、大鳳型1億200万円)
水上機母艦・・日進型1隻(1隻2600万円)
軽巡洋艦・・・阿賀野型4隻、大淀型2隻(阿賀野型1隻2640万円、大淀型1隻3100万円)
駆逐艦・・・・陽炎型19隻、夕雲型11隻、秋月型6隻、島風型1隻(秋月型1隻1200万円、それ以外は1隻1千万円)
潜水艦・・・・伊号潜水艦各種40隻(1隻1300~1600万円)
海防艦・・・・4隻(1隻320万円)
掃海艇・・・・12隻(1隻220~260万円)
駆潜艇・・・・13隻(1隻160万円)
砲艦・・・・・大型2隻、小型2隻(大型1隻350万円、小型1隻120万円)

その他の補助艦艇を含め、合計140隻、総額24億円もの大プロジェクトでした。カッコ内に当時の金額を載せておきましたが、当時と今とでは物価も貨幣価値も全く違いますので、ピンとこないと思います。ちなみに、この時代の日本の年間国家予算はおよそ47億円ほど(現在は98兆円)で、1万円あれば家が1軒買え、1俵(60キロ)のお米の値段が13円ほど(現在は1万5~6千円)だったそうです。


yamato.jpg

これから割り出すと、例えば上の戦艦大和の建造費は1隻で1億3千万円ほどですから、当時の大日本帝国の年間国家予算の2.7%という事になります。これを現在のわが国の国家予算に比例させると、なんとおよそ2兆7千億円というとんでもない金額になります。しかし、これは当時と現在の国家予算との対比で換算した金額であり、先のお米の値段を基準とした実際の物価変動で考えると、当時のわが国の国家予算47億円という金額は、現在の金額に換算しておよそ5兆6千億円程度になります。(現在の日本の税収は、消費税の増税の結果およそ54兆円余りですから、大体10分の1ほどですね。いかに当時の日本が貧しい国だったかお分かりいただけると思います。)同様に考えると、戦艦大和1隻の価格はおよそ1550億円という事になりますね。(あくまでど素人の個人的な試算です。笑)

さて、この日本の大建造計画を知ったアメリカは、従来のヴィンソン計画の予算を大幅に増やし、1940年(昭和15年)に「両洋艦隊」の建設を目指す海軍大拡張計画を打ち出します。これは太平洋と大西洋の2大洋に、同規模の戦力を持つ大艦隊を造ろうというもので、戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの主要戦闘艦艇合わせて合計216隻、航空機に至ってはなんと1万5千機を増産するという大計画でした。(大西洋艦隊はヨーロッパのドイツを、太平洋艦隊は言うまでもなくアジアの日本をけん制するためのものです。)

この数字は、上に載せた当時の日本海軍の総戦力の9割にも登るものであり、これが実現すれば、既存の艦艇も合わせたアメリカ海軍の勢力は、旧式艦と新型艦を更新して差し引いても500隻を越え、マル4計画を終えて同様に旧式艦と新型艦を更新すれば、せいぜい300隻程度(それでも十分過ぎるほどの大艦隊だと思いますが・・・。)にしかならない日本海軍との間には圧倒的な差が付いてしまう事になります。(実際には、アメリカ海軍は500隻を越えても、その半数は大西洋に振り向けられるので、日本海軍が相手とすべき太平洋艦隊との戦力比は、数的には日本の方が若干優勢でした。)

これに焦ったのは日本海軍首脳部です。貧しい日本の国力では、どうあがいても物量や生産力でアメリカには敵わないのです。そこで日本海軍首脳部内で、これらのアメリカの新型艦艇が完成する前に先制攻撃をかけ、アメリカ太平洋艦隊を撃滅してしまうべきという考えが急速に浮上します。その考えの急先鋒であったのが、当時の連合艦隊司令長官であった山本五十六(やまもと いそろく)海軍大将です。


Isoroku_Yamamoto_41_.jpg

上が連合艦隊司令長官山本五十六大将です。(1884~1943)彼については、これまで数多くの映画やドラマに描かれ、彼にまつわるエピソードは枚挙に暇がなく、いずれ別のテーマで詳しくご紹介したいと思いますので、ここでは省略させて頂きますが、恐らく日本の軍人として最も人気のある人物ではないでしょうか。海軍武官時代に広くアメリカを旅行した彼は、アメリカの巨大な工業生産力には到底敵わない事を熟知していました。それゆえ、軍人でありながら断固日米開戦に反対し続けたのは有名ですね。しかしその彼も、いざ開戦となれば話は別で、限られた国力でアメリカに立ち向かうならば、アメリカの戦備が整わないうちに大打撃を与え、常に日本が攻勢を保つ事が重要だと考えていました。

この頃、すでにヨーロッパではヒトラー率いるナチス・ドイツによって第2次大戦が勃発しており、そのドイツと同盟していた日本に対し、アメリカは石油と鉄の輸出を全面禁止し、さらにアメリカにある日本の資産(アメリカの銀行に預けてあるお金など)を凍結する経済制裁を実施します。

もはや、日米開戦は時間の問題となりました。そこで日本海軍は、開戦に備えて新たに「戦時艦艇急速建造計画」(通称「マル急計画」を立てます。これは開戦に伴う戦闘によって失われる艦艇の補充用に計画されたもので、大小合わせて合計293隻、予算総額16億7千万円というものです。この計画で建造されるのは主に小型艦艇が多く、その主なものは以下の様になります。

重巡洋艦・・・2隻(1隻6千万円)
航空母艦・・・雲龍型1隻(1隻8700万円)
水上機母艦・・秋津洲型1隻(1隻4700万円)
駆逐艦・・・・夕雲型16隻、秋月型10隻(1隻1700万円)
潜水艦・・・・伊号12隻、呂号21隻(伊号1隻2千万円、呂号1隻500~800万円)
海防艦・・・・4タイプ30隻(1隻500万円)
掃海艇・・・・28隻(1隻370万円)
駆潜艇・・・・20隻(1隻300万円)
魚雷艇・・・・18隻(1隻230万円)
駆潜特務艇・・100隻(1隻78万円)

などです。(実際には、その後の戦局の進展による計画変更や物資の不足から、計画された293隻のうち、65隻が中止または取り止めになっています。)

ここで個人的に残念に思うのは、限られた予算と物資をかなり無駄な使い方をしているのではないかという点です。特に、魚雷艇や駆潜艇などの小型艦艇は、実戦でどれほど役に立ったか大いに疑問です。これらの小型艦建造の予算と物資を、もっと大型の駆逐艦や護衛の海防艦の建造に振り向けていればと思うと悔やまれてなりません。

さらに日本海軍は、数年後の増勢が目に見えているアメリカ海軍に対して、第5次海軍軍備充実計画(マル5計画)を策定します。この計画もすごいもので、総予算44億円、大小159隻の艦艇と3400機以上の航空機を、昭和17年から昭和25年までの8年間でそろえるというものです。(しかし、これはあくまで計画のみであり、実行される事はありませんでした。その理由はなんといっても費用が莫大過ぎたからです。)

そして迎えた太平洋戦争開戦、初戦の束の間の勝利の後、わが日本軍は先に述べたアメリカの戦備が整わないうちに短期決戦を狙い、運命のミッドウェー作戦を実行します。そして、アメリカ艦隊の待ち伏せ攻撃によって一挙に4隻もの空母を失った日本海軍は、急遽計画段階だったマル5計画を全面的に見直した「改マル5計画」を策定します。

これは、大小合わせて360隻もの艦艇を建造するという途方もないもので、先のマル5計画で考えていた3隻の大和型戦艦の建造を全て取り止め、またこれも11隻建造予定だった軽巡洋艦の数を2隻に減らし、その浮いた費用と物資で航空母艦の大増産と、駆逐艦、潜水艦、海防艦などを大幅に増強するというものです。

これにより、当初マル5計画で3隻建造予定だった空母は、改マル5計画ではなんと一気に18隻に増やされ、同じく潜水艦は45隻から139隻へ、海防艦も4隻から34隻へと大幅に増やされたのです。


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上は日本海軍が改マル5計画で建造した「雲龍」(うんりゅう)型空母です。全長227メートル、排水量1万7500トン、速力34ノット、53機の艦載機を搭載出来る中型空母で、日本海軍はこのタイプの空母を15隻計画しましたが、実際に完成したのは3隻のみで、しかもそれは大戦も終盤の1944年(昭和19年)8月以降でした。すでにその2ヶ月前のマリアナ沖海戦で、3隻の空母と400機以上の艦載機を失っていた日本海軍には、せっかく建造したこれらの新型空母に載せる搭載機はなく、また発着艦出来る熟練パイロットも多くを失っていました。

しかし、時はすでに遅すぎました。開戦から1年が過ぎ、アメリカは国内の工業地帯と造船所のドックをフル稼働させて、日本をはるかに上回る数の艦船の大増産を進めていたからです。


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上の3枚の画像は第2次大戦中にアメリカが建造した代表的な空母3種類です、1枚目はエセックス級空母で、全長270メートル、排水量2万7千トン、速力33ノット、およそ100機の艦載機を搭載出来る大型正規空母でした。アメリカはこの空母をなんと32隻発注し、その後戦局がアメリカに有利に進んだ事から8隻がキャンセルされ、合計24隻が完成しました。2枚目は軽巡洋艦を改造したインディペンデンス級空母で、全長190メートル、排水量1万1千トン、速力31ノット、30~40機の艦載機を搭載する軽空母です。このタイプは9隻建造されました。3枚目は、輸送船団を空から護衛したり、敵の潜水艦を空から沈める対潜攻撃機を載せた護衛空母です。これらは貨物船やタンカーを改造したもので、搭載機は20機程度、7タイプ合わせて実に76隻も建造されました。つまり、アメリカは空母だけで100隻以上も建造していたのです。

その他の艦艇ともなれば、もはや恐ろしい数です。これに対し、わが日本はすでに敗北の連続と戦局の悪化で必要な物資は入手困難となり、先に述べた改マル5計画で計画した艦艇で終戦までに建造出来たのは、予定の360隻には到底及ばず、先の空母雲龍を含めて完成はたった22隻という惨憺たるものでした。


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上は終戦直後に撮影された雲龍型空母の2番艦「天城」です。終戦間際、積む飛行機も動かす燃料もないこれらの空母は、アメリカ軍によって行われた昭和20年7月の呉軍港空襲によって大破し、なんの活躍も出来ないまま終戦を迎えたのです。しかし、この時沈んだ雲龍型空母のうちで1隻が奇跡的にアメリカ軍機の激しい攻撃をくぐりぬけて生き残った艦がありました。それが3番艦「葛城」(かつらぎ)です。

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上がその葛城です。この艦は飛行甲板に被弾して穴が開いたものの、エンジンには被害がなかったので、自力で航行する事が出来る日本海軍残存艦艇のうちで最大のものでした。

敗戦後、葛城には思いもかけない仕事が待っていました。それはその巨体と格納庫の収容能力を活かし、特別輸送艦として外地からの邦人の引き揚げを担当するというものです。葛城はそのために格納庫の仕切りを取り払う工事を施し、最大5千人もの人々や復員兵を乗せて、はるか南方の外地から日本へおよそ5万人の人々を送り届けました。(上の画像下の日の丸をつけたのが、終戦後「特別輸送艦」として人々の輸送に従事する葛城の姿です。)

1年後の1946年(昭和21年)11月、任務を終えた葛城は解体され、その姿を消しました。こうして大日本帝国海軍最後の空母は、戦場では全く何の役にも立ちませんでしたが、それよりはるかに有益で大きな仕事を最後に全うしたのです。

次回に続きます。
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