ニ号研究 ・ 大日本帝国の最後の切り札

みなさんこんにちは。

みなさんは、第2次大戦中にアメリカが行っていた原子爆弾開発計画、いわゆる「マンハッタン計画」について聞いた事がある方が多いと思います。そして、それにより作られた原子爆弾があの広島と長崎に投下され、一瞬にして20万もの人々が犠牲になった事は、われわれ日本人にとって消える事のない忌まわしい記憶となって刻み付けられている事は、今さらここで述べるまでもないでしょう。

そしてそれは、同時に人類がその歴史において、ついに「核兵器」という全てを滅ぼす事の出来る究極の最終兵器を持ってしまった瞬間でもあります。

この原爆と、それに呼応したソ連の対日参戦によって、わが大日本帝国はついに無念の敗戦に至ってしまうのは良く知られた流れですが、その原爆開発自体は決してアメリカだけが行っていた訳ではありません。実はアメリカとほぼ同時進行で、日本でも行われていた事実をご存知でしょうか? 今回はその知られざる戦時中の日本の原爆開発計画「ニ号研究」についてのお話です。

時は1941年(昭和16年)4月、日独伊三国同盟の締結と、日本軍のフランス領インドシナ(現ベトナム)進駐により、日米関係が悪化の一途を辿り、もはや日米開戦は時間の問題となっていた頃、帝国陸軍航空本部は、ある「新型爆弾」の研究開発を正式に開始するよう各機関に指令しました。その3年ほど前の1938年(昭和13年)に、ドイツの物理学者が原子核分裂によって膨大なエネルギーが得られる事を発見し、その情報は当時の科学雑誌などで日本でも知られており、その情報に接した陸軍航空本部では、これを利用した「ウラン爆弾」の開発を計画したのです。

そして、日本陸軍がその開発の責任者として選んだのが、当時理化学研究所にいた仁科芳雄(にしな よしお)博士でした。


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上が今回のテーマの主役である仁科芳雄博士です。(1890~1951)彼は「日本の原子物理学の父」といわれる優れた物理学者で、当時の日本の最高の化学者の一人でした。軍が彼に原爆開発を依頼したのはごく自然の人選でしたが、ご本人は戦争にはもちろん自らの研究が軍事利用される事にも反対していました。しかし、ご本人のそうした個人的なご意志とは全く正反対に、彼はその名を歴史に残す事になります。

さて、陸軍から正式に原爆開発の以来を受けた仁科博士でしたが、だからといってすぐにそれに着手したわけではありませんでした。何しろ当時今だに誰も作り出したもののない物をこれから作り出そうというのです。いかに彼が優秀な物理学者であっても一朝一夕で出来るものではありません。まずは当時の日本の技術力でそれが可能かどうか十分な調査研究が必要です。やがて始まった太平洋戦争開戦から2年余り、彼はそれらに時間を費やします。

そして大戦も中盤の1943年(昭和18年)5月、ついに彼は「ウラン爆弾」の開発が可能であるとの報告書を軍に提出します。戦局の悪化に苦しんでいた軍はこれに飛びつき、仁科博士に原爆開発の続行を指示します。この計画は最高軍事機密として仁科博士の頭文字を取り、「ニ号研究」と命名され、仁科博士は開発に必要な人材、物資の調達、予算の確保に飛び回り、理化学研究所内で原爆開発が開始される事になりました。


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上の画像1枚目は原子核分裂に必要な「サイクロトロン装置」を操作している仁科博士で、2枚目は部下の科学技術者たちとともに装置を設置する仁科博士です。

こうして仁科博士を筆頭に優秀な人材が揃い、開発に必要な資材も軍から優先的に配分され、いざ原爆開発に取り掛かろうとした矢先、困った問題が起きてしまいます。それは原爆製造に必要不可欠な燃料、すなわち「ウラン」が日本国内でほとんど産出されないのです。慌てた軍は、当時日本帝国の占領下にあった朝鮮、中国大陸、東南アジア一帯まで方々手を尽くしましたが、どこにもウランは見つかりませんでした。

ここで余談ですが、日本国内で「ウラン鉱石」が発見されたのは、戦後の1954年(昭和29年)の事であり、岡山県と鳥取県の境に位置する「人形峠」という場所だったそうです。ここで採掘されたウラン鉱石を元に、日本で最初の濃縮ウランが製造され、これも日本初の原子力発電所の燃料に利用されたそうですが、その後、世界中でウラン鉱山の採掘が盛んになったために、海外の安いウランを輸入した方がコストの面で有利との判断から、現在この鉱山は閉山されています。(「閉山」と書きましたが、実際はウラン鉱石が枯渇したからではなく「いざ」という時のために、貴重なウラン鉱石を温存して置きたいというわが日本政府上層部の政治的思惑もある様です。)

そこで陸軍は、同盟国ドイツからウランを購入し、潜水艦でこれを日本まで運ぶ作戦を立てました。しかし、時は1945年(昭和20年)に入り、状況は切迫していました。すでに日本帝国海軍連合艦隊は、アメリカ艦隊との度重なる海戦で一方的に敗退を繰り返し、その水上戦闘艦艇の大半を失って壊滅状態にありました。アメリカ軍の大型戦略爆撃機B29の大編隊による日本本土への空爆も始まり、日本軍は戦局打開のために藁をもすがる思いで原爆開発に望みを繋ごうとします。

ドイツから日本への潜水艦によるウラン輸送作戦は、ただちにベルリンの日本大使館に指令され、1945年(昭和20年)3月、ベルリン駐在の日本大使館付き海軍武官であった友永英夫技術中佐と庄司元三技術中佐がその実行役としてドイツ潜水艦「U234」に乗艦し、最新のレーダーにロケットエンジン、設計図、ドイツ第一級の技術者らとともに、最も重要な積荷である「ウラン235」560キロを積んで、一路日本への大航海に出発しました。(日本からは、ドイツに対してそれらの対価として相応の金塊を支払う予定だった様です。ドイツの潜水艦は無事に日本へ到達してから積荷のウランその他の重要物資を陸揚げして日本側に引き渡した後に、今度は日本側から「後払い」で支払われた金塊を積み込んでドイツ本国に戻る訳です。)


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上がこのウラン輸送作戦の日本側の実行者の1人である友永英夫中佐です。(1908~1945)彼は東京帝国大学(現東京大学)工学部を卒業後海軍に技術士官として任官した日本海軍のエリートで、とりわけ潜水艦を専門分野とし、30代前半の若さで数々の優れた技術装置を発明していました。開戦後にドイツの最新の技術取得のため、伊号潜水艦でドイツに渡り、それらを集めていた所に今回の任務が彼に降りたのでした。

しかし、この日本とドイツの動きをいち早く察知していた巨大な存在がいました。それは日独共通の敵アメリカです。アメリカは、日本とドイツの暗号を傍受してそのほとんどを解読しており、今回の作戦もアメリカには事前に漏れていたのです。

1945年(昭和20年)4月、ウランを積んだU234号潜水艦が、ドイツ占領下のノルウェー、クリスチャンセンを出航したとの情報を得たアメリカ海軍では、ジェイムズ・フォレスタル海軍長官が早朝から海軍の提督たちを海軍省に呼び集め、緊急会議を開きます。


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上の画像1枚目が当時のアメリカ海軍長官ジェイムズ・フォレスタル(1892~1949)で、2枚目はフォレスタルと海軍首脳たちです。

朝早くからたたき起こされ、まだその事情を知らない海軍の司令官たちは、不機嫌そうに皮肉を交じえてフォレスタル長官にこう言い放ちます。

「朝まで待てないほど重要なご用件の様ですな。一体何事の騒ぎですか?」

「諸君に集まってもらったのは他でもない。現在ドイツから日本へ1隻のUボートが向かっている。その積荷がやっと分かった。」

「ほう。それは何です?」

「ウラニウムだ。」

「ウラニウムですと!」

海軍の首脳たちは一斉に声をそろえて驚愕します。

「ドイツから日本へ、ウランを運ぶ計画があることは察知していた。問題はその手段と時期だが、それがやっと分かったのだ。」

「Uボートか。しかし、まだ原爆を作る技術は日本には無いでしょう? それに日本にそれが出来る化学者などいるのですか? どうです?」

海軍の提督たちは口々にフォレスタルに質問を浴びせかけます。

「いやいる。ニシナ博士と彼の率いる化学チームだが、開発はわが国よりはるかに遅れている様だ。ニシナ博士も理論的には原爆の製造法を知っているが、日本とその占領地域ではウランが取れないので、連中もそれ以上は事を進められなかった。そこでドイツだ。」

重苦しい沈黙が彼らを覆います。やがて提督の1人が口を開きました。

「これは放っては置けませんな。もしウランが日本に運ばれ、奴らが原爆を完成させれば、敵はわが艦隊の頭上からこれを投下する事でしょう。そうなればひとたまりもありませんぞ。」

海軍首脳たちはその有様を想像してみな一様に青ざめた表情を浮かべます。フォレスタル長官もそれに同意し、そして次の様に全海軍に命じました。

「その通りだ。ウランがヒトラーからヒロヒト天皇の手に渡る前に、海軍の全力を挙げて何としてもそのUボートを沈めて欲しい。」

こうして大西洋全域にアメリカ海軍の総力を上げた一大捜索網が展開されたのです。一方そんな事は全く知らないU234号は、先に述べた日独の関係者を乗せ、敵に見つからないよう昼間は潜航し、4ノット(時速およそ7.4キロ)という緩いスピードで進んでいましたが、そうしてノロノロとしているうちに日本側にとって思いもよらない事態が起きてしまいます。

1945年(昭和20年)4月30日、ソ連軍がベルリン市内に突入してベルリンは陥落、ヒトラー総統はカール・デーニッツ海軍元帥を後継者に指名して自殺したのです。それから1週間後の5月7日、デーニッツ元帥は全ドイツを代表して連合軍に降伏してしまいます。これにより大日本帝国にとって唯一の同盟国であり、頼みの綱であったナチス・ドイツ第三帝国は崩壊し、今やかつての枢軸国で残るのは日本1国のみとなってしまったのです。

ドイツ降伏の知らせはU234号にも届きます。艦長らドイツ側はデーニッツ元帥の命令に従って連合軍に降伏する道を選び、それを日本の友永中佐らに伝えます。もちろん友永中佐は抗議しましたが、結局乗組員の安全を第一に考える艦長の心情を理解し、抗議を取り下げます。日本の運命をかけた極秘任務を遂げられなかった彼らに残された最後の道はただ1つ、おめおめと敵の捕虜になるくらいなら、栄光ある日本帝国軍人として潔く自決する事でした。(友永、庄司両中佐は多量の睡眠薬を飲んで自決されました。両人の遺体はドイツ側の手で手厚く水葬されたそうです。涙)

もはや全ての束縛から解放されたU234号潜水艦は5月中旬、浮上して北大西洋上でアメリカの駆逐艦に降伏し、ウラニウムその他、日本へ運ばれるはずだった物資は全てアメリカ軍に没収され、これにより日本の原爆開発計画は完全に不可能となったのでした。


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上の画像はその時の様子です。

一方日本でウランの到着を待ちわびていた仁科博士ら原爆開発グループでしたが、彼らにも災厄は降りかかります。U234号が降伏した2日前の5月15日、理化学研究所内に完成されていた原爆製造に不可欠なウラニウムを濃縮するための装置である熱拡散装置がアメリカ軍の空襲で破壊されてしまったからです。ここに至って日本軍は原爆開発を完全に打ち切り、仁科博士らの数年がかりの苦労は水泡に帰してしまいます。そして3ヵ月後、わが国は8月15日の敗戦を迎える事になるのです。

ここで今回のお話のエピローグを載せておきましょう。

今回のテーマの主役である仁科芳雄博士は、終戦直前に広島と長崎に相次いで投下されたアメリカの原爆の調査のためにそのわずか2日後に現地に向かい、それが自らが作ろうとしていた原子爆弾である事を政府に報告し、それがポツダム宣言受諾の一因になっています。その彼の元に、日本降伏後直ちに連合国軍最高司令部すなわちGHQの手が伸ばされます。その目的は言うまでもなく彼らが行っていた一連の原爆開発と、その全ての施設の差し押さえと研究成果の押収です。


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上は研究所から運び去られるサイクロトロン装置です。この装置自体は、原爆開発というよりも原子物理学の様々な実験に必要なものなのですが、この時アメリカ軍関係者は、理化学研究所内に仁科博士らが建設した様々な核研究施設を目の当たりにして、その進展が今だ基礎的段階に過ぎないものにもかかわらず、そもそも日本が原爆を作ろうとしていたという事自体に驚き、ほとんど恐怖心に近い状態で一刻も早く「日本の手からこれらを奪い去りたい」ただ一心で、手当たり次第に施設を破壊、それらをスクラップとして東京湾などに沈めてしまいます。(この時の仁科博士のご心情はいかばかりであった事でしょうか。)

その後博士は、1946年(昭和21年)に理化学研究所の所長に就任しますが、

「かつて原爆を作ろうとしていた中心人物の物理学者を所長にするなど論外だ。理化学研究所の存在自体を消滅させるべきである。」

というGHQの意向で理化学研究所は解体されてしまいます。その後仁科博士は戦後創設された「文化勲章」の最初の授与者として、昭和天皇の御手からこれを賜る栄誉を得ますが、この頃から体調を崩す事が多くなります。そして1951年(昭和26年)1月、日本の独立と占領軍の撤退を見る事無く60歳で亡くなりました。(彼の死因に付いては、長年原子物理学には付きものの放射線の研究に携わっていた事や、先に述べた広島と長崎の原爆調査にわずか2日の早さで出向いた事から、いわゆる「残留放射能」を浴びてしまった事からではないかなどの複合要因が指摘されています。)

戦中のわが国が、原子爆弾を完成させる事が出来なかったのは、いくつかの要因があります。まず第一に燃料であるウランやプルトニウムの欠如、第二にアメリカと比較した研究開発予算の圧倒的な差があります。日本がこのニ号研究に投入した予算は、当時のお金でおよそ2千万円程度だったそうです。といわれてもピンと来ないと思いますが(笑)ちなみに日本海軍の主力潜水艦である伊号潜水艦1隻分の建造費用がほぼ同じ金額であったそうです。つまり当時の日本軍人たちの頭では、「これだけあれば十分だろう。」という事で、その範囲内で完成させろという無理な注文を仁科博士らに課したのです。

ところが、アメリカが原爆開発に投じた費用は、当時のお金でなんと103億円以上というのですから比較になりません。さらにアメリカは原爆開発に総勢12万人もの技術者・研究者を総動員していましたが、対するわが日本側は仁科博士を筆頭にせいぜい数十人に満たないというお寒いものでした。こうした科学技術というものに対する日米両国の力の入れ方や考え方の違いが、日本が原爆を完成出来なかった第三の理由であると思います。

しかしわが国にとって、結果的にはその方が良かったのかも知れません。なぜなら第2次大戦後、アメリカをはじめロシア、中国などいくつかの国々が核兵器を開発し、その勢力を競いましたが、それらの核兵器は逆にそれを持つ国々に「恐怖の重荷」を背負わせる事になっているからです。

戦前のわが大日本帝国は、単純に言えば

「どの国よりも強くなりたい。」

という考え方で興隆しましたが、それは周辺国との対立を生み、当然の帰結としてその目論見は失敗、惨めに崩壊しました。やがてその反省から、今度は

「どの国よりも豊かになりたい。」

という考えで再出発し、国民のたゆまぬ努力で世界もうらやむ豊かな国家として見事な成功を遂げました。それはみなさん誰もが周知の事実です。わが国が、この繁栄を未来永劫末永く続けていけるかは、ひとえに私たち末端の日本国民の意識にかかっており、私たちはそれぞれの置かれた立場で全力を尽くす事で、今日の繁栄を後の世代に引き継いでいく神聖な義務があるのです。

この「大日本帝国はなぜ敗れたのか?」というテーマはここで筆を置こうと思いますが、いかがだったでしょうか? これはあくまで自分の勝手な命名ですが、かつてのわが大日本帝国は「偉大なる失敗国家」の見本と呼べるものではないかと思います。成功は失敗からという格言の通り、現在のわが日本政府上層部の方々には、大日本帝国の二の舞にならないように、天皇陛下と国民に滅私奉公の精神で国を導いていただきたいと強く願う次第であります。

終わり。
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