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日清戦争1 ・ それはお米から始まった。

みなさんこんにちは。

今回から新たなテーマとして、近代日本最初の対外戦争ともいうべき「日清戦争」についてお話していきたいと思うので、ご興味を持たれた方の退屈しのぎや、何かの調べものなどで検索される方のお役に立てればうれしいです。(笑)

この日清戦争は、今からちょうど120年前の1894年から1895年(明治27~28年)にかけて、日本と清王朝末期の中国との間で、朝鮮半島の支配権を巡って戦われたもので、日本では前述した様に「日清戦争」相手側の清国すなわち中国においては甲午戦争(こうごせんそう 「甲午」とは「きのえ うま」つまり中国古来の干支「えと」にちなんだ呼び方で、ちょうどこの戦争の期間が甲「きのえ」から午「うま」に当たるからだそうです。ちなみにわれわれ日本人の感覚では、干支というと、子・丑・寅~で始まる「十二支」が良く知られていますが、本場中国の干支はもっと複雑な組み合わせで構成されています。)または第1次中日戦争(1937年に始まる日中戦争を「第2次中日戦争」と考える呼び方)などと呼ばれ、明治維新によって近代国家への道を歩みだして20年余りのわが国が、初めて経験した外国との本格的な戦争であるという事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の事と思います。

しかし、歴史ではそれから10年後の日露戦争について語られる事が圧倒的に多く、また、こちらはこれまで映画や小説などでも数多く取り上げられてきたせいか、日露戦争については良く知られているものの、日清戦争については意外にもあまり知られていないのが実情です。

そこで今回そうした点を踏まえ、あまり語られる事の無かった「忘れ去られた戦争」ともいうべき日清戦争について、その開戦に至るまでの経緯や当時の国際関係などを、日清両国の軍事力やお金の話なども交えながらお話していきたいと思います。(いつもながら自分の勝手な気まぐれによるテーマ選定で、こんな駄文を読んで頂いた方には本当に申し訳ありません。汗)

といっても、いきなり戦争の話に入ってしまうのでは、どうしてこの戦争が起きたのかその経緯が分からないので、まずは日清戦争開戦前の明治前期から中期におけるわが国の状況と、清国を含む当時のアジアの情勢から話を始めていこうと思います。

日清戦争 (中公新書)

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この日清戦争について詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。ページ数はおよそ260ページで、文章もコンパクトにまとめられているので、戦争全体の流れを知るにはちょうど良いと思います。また、この作品の良い所は、当時の日清両国の陸海軍の戦力や、戦費の資料などが載せられている点で、戦史や戦力の研究をされている方などにもお薦めです。

時は19世紀後半の1880年代、アジアは欧米列強諸国の進出によって、次々に植民地化が進められていました。


img_5.jpg

上がこの頃のアジア地域です。図で見る限り、かろうじて独立を保っているのは日本、清国、朝鮮、タイの4カ国だけですね。

この様な状況にこれらの各国でも危機感が高まり、この危機に対応するためにそれぞれの国で、旧体制の打破と新体制への移行が進められていきます。その代表的な例がわが国の明治維新である事は、歴史好きならば誰もが周知の事実です。

それではまず、本テーマの主要3カ国である日本、清国、朝鮮の君主と、それぞれの置かれた国の状況をお話して置きましょう。

わが国では1868年に、旧体制である徳川将軍家の江戸幕府が倒れ、天皇を奉じてこれを倒した薩摩、長州の武士たちが新政府を樹立。欧米列強諸国の様な近代国家を目指し、天皇を頂点に頂く新たな国づくりを進めて20年余りが経過していました。明治新政府は近代化のために多くの若者をヨーロッパ諸国に留学させ、昨年世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場に代表される殖産興業政策を推し進め、着実に国力の増強を図っていました。(ちなみにこの当時の大日本帝国の人口はおよそ4千万人前後であったそうです。現在の3分の1ですね。)

Meiji_Emperor.jpg

上はわが大日本帝国第122代天皇にあらせられる明治天皇です。(1852~1912)このお写真は1873年(明治5年)それまでの古めかしいご束帯で髷(まげ)を結ったお姿から、断髪され、近代国家の君主としてのお姿を各国にアピールするために、天皇が21歳頃に撮影されたもので、サーベルに御手を置かれてご着席になられたりりしい大礼服のお姿は、お若いながらも威厳に満ちた明治天皇のお写真として各国へアピールするに充分過ぎるほどの傑作なのですが、残念ながら明治天皇はご自身のお姿を写真に撮られる事を大変お嫌いになられ、これを最後に明治天皇の公式な写真が撮影される事はありませんでした。(私たちが学校の歴史の教科書で見かけた明治天皇のお姿は、立派なヒゲを生やされた壮年期のものですが、あれは「絵」で、各国君主への贈答用に明治政府が天皇に何度もお願いして、ようやく条件付きでお許しを得たものです。)

それではこの時代、他の国の状況はどうだったのでしょうか? まずは相手の清国ですが、この国はもともと中国東北部を根城にしていた女真族(じょしんぞく)が、1644年に先代王朝である「明」を倒して築いたもので、13世紀のモンゴル族が築いた「元」に次いで、中国歴代王朝では最大の版図を支配したいわゆる「征服王朝」なのですが、建国から200年あまりを経て、財政赤字、贈収賄などの官僚の腐敗、内乱の頻発といったお決まりの衰退の道をたどり、そこに付け込んだイギリスなどのヨーロッパ列強諸国によってアヘン戦争(1840年)に代表される謀略と外圧を仕掛けられ、かつての強大さと繁栄は見る影も無く、滅びの淵へ転げ落ちて行こうとしていました。


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上の画像1枚目が当時の大清帝国第11代皇帝の光緒帝(こうしょてい 1871~1908)です。彼は8代皇帝道光帝(どうこうてい 1782~1850 先に述べたアヘン戦争の時の皇帝です。)の孫で、また「恐怖の女帝」として知られる西太后(1835~1908)の甥に当たり、彼女が自らの権力維持のために擁立した傀儡皇帝でした。即位した時はわずか3歳で、当然帝国の実権は西太后が握る事になります。2枚目は大清帝国の国旗です。(支配領域は上に載せた図を参照して下さい。)清王朝の皇帝家である愛新覚羅家(あいしんかくらけ)に限らず、中国歴代王朝において皇帝は「龍の化身」であるとされ、それが国旗に表されています。(ヨーロッパにおいて皇帝の紋章が「鷲」であるのと比較すると面白いですね。)ちなみにこの頃の清の人口はおよそ3億1800万人であったそうです。

また、日本と清国が開戦するに至った原因である朝鮮半島には、1392年に先代王朝である高麗(こうらい)を倒して成立した李王朝の朝鮮国があり、建国以来中国の明とその後の清に朝貢(ちょうこう 中国皇帝に対して貢物をささげ、皇帝はそれに対して王などの君主としての位を与えてそれを認めるというものです。)して、長い間いわば属国として存在していましたが、清王朝の衰退や日本の近代化に刺激され、朝鮮内部にも自主独立の気運が高まっていました。また、この時代における朝鮮国の人口はおよそ700万人程度だったそうです。


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上は当時の朝鮮国李王朝第26代国王高宗(こうそう 1852~1919)です。彼は先代の王が32歳の若さで王子を残さずに亡くなったために、李王家の実力者であった父である李昰応(イ ハウン 1820~1898)の次男であった彼が11歳で即位しました。東の日本、西の清国、北のロシアその他の欧米列強諸国や、国内の宮廷内の権力争いに終生翻弄され続けた朝鮮最後の国王(ラストキング)ですが、同時に1910年の日本による韓国併合によって国を失った亡国の張本人として、韓国では批判の的とされる事もあるかわいそうな王様です。

即位当時はまだ11歳の少年であり、3歳で即位した清の光緒帝同様この年齢で国政が出来るはずも無く、実権は父が握っていました。その彼は、王の実父として興宣大院君(こうせんだいいんくん 「大院君」とは王の実父が王で無い場合に付けられる尊称だそうです。)となり、自身が亡くなるまで辣腕を振るいます。

この国は国王を頂くのに、なぜか「朝鮮王国」という呼ばれ方は内外共にしていません。また王の名も、たった二文字でずいぶん簡素に思えますが、この王家は太宗、文宗など、王が亡くなってから追号として、こうした二文字のいわば「贈り名」で呼ばれる様で、わが国で在位中の天皇をかつては単に「帝」(みかど)と称した様に、在位中は単純に「国王殿下」と呼ばれていました。(「陛下」ではなく「殿下」なのは、「陛下」と呼ばれるのは中国皇帝だけであり、その臣下という建て前上この呼び方で呼ばれていたそうです。)ちなみに彼の即位前の幼名は李命福(イ ミョンボク)といいますが、その後彼は何度も名を変え、多くの名を名乗っていてどれが本名なのか混乱するのでここでは省略させて頂きます。(苦笑)

これが日清戦争開戦前の、3カ国の頂点にあったお三方と、当時の3カ国の状況の概略です。

それでは、そもそもこの日清戦争の直接の原因とは一体何だったのでしょうか? それは最初に述べた様に、全ては朝鮮半島から始まっていました。朝鮮国では、上でご説明した国王高宗の父である大院君が国政を担っていましたが、彼は今風に言えば熱烈な保守派のトップであり、幕末のわが国で言えば、いわゆる「攘夷派」でした。つまり簡単に言えば、外国とは付き合わず、逆に外国勢力など追い払って今まで通りの古き良き朝鮮国を維持して行こうという考え方です。


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上が興宣大院君(こうせんだいいんくん 1820~1898)です。見るからに頑固そうですね。(笑)

それに対し、国王高宗の王妃である閔妃(びんひ)は、舅である大院君の国政への関与を嫌い、自らの一族を重用して大院君から国政の実権を奪い取ろうと狙っていました。


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上がその閔妃(びんひ 1851~1895)です。こちらはまたメデューサの様なすごいヘアスタイルですね。(笑)彼女は権力志向の大変強い女性で、頼りない夫の王に代わり、自らの閔一族を宮廷の要職に重用し、朝鮮宮廷は大院君の保守派と閔妃一族の2つのグループに分かれて対立していました。しかし、1881年(明治14年)に国王高宗が成人すると、高宗は親政(君主自ら国政を担う事)を宣言して父大院君にこう言い放ちました。

「父上、これからは私が全てを決します。父上には何卒安んじられます事を。」

高宗はやんわりと大院君に引退を迫ったのです。さすがの大院君も、これには逆らえませんでした。なぜなら今までは高宗が子供であったから、父親の自分が後見人として国政を預かる道理が立っていたのです。しかし、その息子も立派に成人した以上もうその役目は必要ないのです。やむなく大院君は引退し、国政を高宗に委譲せざるを得ませんでした。

さて、この事を最も喜んでいた人物がいました。それは王の妃である閔妃です。実は国王に大院君の引退を勧めたのは、閔妃その人でした。

「殿下。一体いつまでお父様に甘えていらっしゃるのですか?」

一歳年上の「姉さん女房」である閔妃は、若い高宗にこう耳打ちして王のプライドを揺さぶったのです。ともあれ最大の「目の上のこぶ」が取れた閔妃一族は宮廷と政府を牛耳ってしまいます。

閔妃一族らは大院君率いる保守派とは正反対で、その考えは開国して外国資本をどんどん受け入れ、朝鮮の近代化を進めていこうというものでした。つまり開国派です。そのため開国と近代化においては先輩である日本に学び、まずはその手始めに港を諸外国に開港して貿易を行い、外貨を稼ぐとともに、それで得たお金で軍制改革に着手します。それは旧来の朝鮮軍とは別に、日本の陸軍から軍事顧問を招いて日本の様な近代的な「新軍」を作ろうというものでしたが、これに反発したのが「旧軍」の兵士たちです。

閔妃一族が作ろうとしていた「新軍」は、装備も待遇も旧軍よりはるかに良く、それに引き換え旧軍の兵士たちは、その給料として朝鮮政府から支払われるはずの俸給米の支給が1年も遅れていました。しかし、これには理由があります。当時の朝鮮国は日本や清国よりもはるかに貧しく、輸出出来る物といえば「米」ぐらいしかありませんでした。(輸出先はもちろん日本です。)しかもその米も、国内の需要を賄うのが精一杯の生産量しかなかったのにも関わらず、朝鮮政府は本来国民に廻さなくてはならない大事な米を日本へ輸出し続けました。(理由は単純です。貧しい朝鮮の庶民よりも、日本に売った方が「儲かる」からです。)その結果、米の値段が暴騰し、庶民や兵士たちにまで米が行き渡らなかったのです。

1882年(明治15年)7月、やっと支払われた俸給米を見て、旧軍兵らの怒りは爆発します。なぜならそれは、支給に当たった役人が横領をごまかすために、なんと砂が混じったとんでもないシロモノだったからです。

「こんなものが食えるかっ! これは家畜のエサではないかっ!」

彼らはついに反乱を起こします。その怒りの矛先は閔妃一族ら朝鮮政府と、待遇の面で日頃からその存在を苦々しく思っていた「新軍」に向けられました。貧民や浮浪者も加わった暴徒の集団は朝鮮の都漢城(かんじょう 現在のソウル)の王宮を取り囲み、身の危険を察知した閔妃は、わずかな側近らとともに王宮を脱出していずこかに姿を消してしまいます。

そして反乱軍は、ついに在朝日本人にもその手を伸ばしました。

「われわれの米を奪っていくのは日本人だっ! 日本人はみんな朝鮮から出て行けっ!」

彼らは漢城の日本公使館を襲撃、公使館員や警備の警官ら十数名が殺害され、当時の花房公使は公使館を放棄、生き残りの館員28名と共に朝鮮を脱出し、命からがら長崎へと逃げ延びました。

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上が当時の日本公使であった花房義質(はなぶさ よしもと 1842~1917))氏です。(無事で良かったですね。笑 しかし、後に彼はしたたかに逆襲を開始し、見事に汚名挽回をするのです。)


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上は日清戦争直前の朝鮮の都漢城の様子です。遠くに見えるのが李王家の王宮である景福宮(けいふくきゅう)です。王宮より高い2階建て以上の建物を建てる事は禁止されていたため、市内の建物は全て1階建てだったそうです。

この騒然とした状況下で、密かにほくそ笑んでいたある人物がいました。それは朝鮮国王の父である興宣大院君です。実はこの反乱事件は、大院君が仕組んだ謀略だったのです。先に述べた様に朝鮮保守派のトップであった彼は、当然開国にも大反対であり、開国を進めた閔妃一族を追い落とし、同時に日本などの外国勢力も追い払って自ら国政に復権する事を目論んでいたのです。全ては彼が裏で糸を引いていました。

「後はいずこかに逃亡した嫁の閔妃を捕え、その一族を根絶やしにすれば良い。」

これが1882年(明治15年)7月に起きた壬午事変(じんごじへん 「壬午」とは冒頭でお話した干支です。)と呼ばれる事件です。そしてこの反乱事件は、12年後に日清韓3国を巻き込む日清戦争へとつながる最初の出来事であり、それは「お米」から始まったのです。

次回に続きます。
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