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日清戦争3 ・ 日清両国の軍備増強(前編)

みなさんこんにちは。

朝鮮国において発生した1882年(明治15年)7月の壬午事変、そして1884年(明治17年)12月の甲申政変という2つの反乱事件は、朝鮮半島を自国の勢力下に置かんとしのぎを削る日清両国の派兵したそれぞれの軍隊の衝突という事態を招きました。

しかし、そもそもこの2つの反乱は、当然の事ながら日清両国とも望んでいたものではありませんでした。そこで両国政府首脳は「とりあえずここは兵を引き揚げる。」事で合意し、前回もお話した「天津条約」を結んで朝鮮国から撤兵します。

では、日清両国のその後の動きはどうだったのでしょうか? 実はその後の両国は、互いを大きく意識してそれぞれ軍備の増強を急いでいました。今回はそのあたりを、前、後編の2回に分けてお話したいと思います。まずはわが日本の状況からお話いたしましょう。

先に述べた朝鮮国における2つの反乱事件と、その際の清軍との衝突は、当時の日本政府に清国との力の差を痛感させる事になりました。それというのも、この頃のわが国の陸軍常備兵力はわずか1万8600名程度に過ぎず(「1個師団」ではありません。当時の日本陸軍の全常備兵力がたったこれだけだったのです。驚)予備役(「よびえき」これは現役を退いた退役軍人で、いざという時には再び軍務に付くために召集される制度です。この頃のわが予備役兵力はおよそ2万7600名程度だったそうです。)を入れても、合計4万6千余りしかいませんでした。

ちなみにわが国では、1874年(明治7年)に山縣有朋参議の主導の下で「徴兵令」が施行されます。これは

「戦は武士の仕事であり、武士だけが行うもの。」

というそれまでの封建的な古い固定観念を捨て去り、農民その他の者を含む全ての国民から成る近代的な「国軍」を創るために実施されたもので、これがわが大日本帝国陸軍の事実上の創成です。当時全国を東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本の6つの軍管区に分け、それぞれのブロックに「鎮台」(ちんだい)というものが置かれていました。(この「鎮台」というのはオランダ式の軍隊編成にならったものだそうで、各鎮台の兵力は予定では4千から7千余りと、各軍菅区の人口に比例してバラつきがあり、計画上の定数はおよそ4万に達するはずでしたが、実数はそれぞれ3千程度で、残余は東京の宮城におわす天皇をお守りする直属の部隊、つまり近衛兵でした。)

また海軍に至っては、たった24隻(2万7千トン)で、旧江戸幕府から接収した帆走軍艦などの旧式艦や小型艦ばかりしか持っていませんでした。

明治前期の日本がこれほどわずかな軍事力しか保有していなかった理由については、自分の幼稚でヘタクソな説明を読まずとも歴史好きな方であれば簡単に推察出来ると思います。明治維新からまだ十数年、明治新政府は近代国家建設のためにやる事が山ほどありました。しかし、近代化とはいっても、何をするにも「お金」がかかります。それも莫大なお金が、そのため明治の政治家たちは、当時の貧しい日本の限られた国家収入をどう有効に使って近代化を進めていくか頭を悩まし、その思考の帰結として、最もお金のかかる「軍備」などは後回しとし、まずは国内の様々な近代化を優先させたのです。

その明治政府の方針を大きく変えたのが、今回の清国との衝突です。特に、当時陸軍参謀本部長であった山縣有朋(やまがた ありとも)参議は、壬午事変勃発から1ヶ月も経たない1882年(明治15年)8月に、早くも軍備増強のため「陸海軍拡張計画」を閣議に提出します。その基本プランは、早急に陸軍常備兵力の本来の定数である4万名を充足させ、海軍は現行の2倍の48隻の軍艦を整備するというものでした。


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上がその山縣有朋参議です。(1838~1922)彼は長州の貧しい下級武士の子に生まれ、的確な判断力で幕末の動乱期に頭角を表し、やがて伊藤博文と並ぶ明治の元老となる人物ですね。彼こそわが大日本帝国陸軍の育ての親であり、帝国陸軍は彼が創り上げたといって良いでしょう。もちろん彼自身も軍人として陸軍大将となっていますが、どちらかといえば彼は戦場で指揮を取る実戦派の武人というより、後方から全体を統括する官僚タイプの戦略家で、その卓越した事務処理能力で後に首相を2度務め、さらに内務大臣や司法大臣、枢密院議長、陸軍参謀総長を歴任、元帥、公爵に列せられ、肩書きの多さや貰った勲章の数と来たら枚挙に暇がないというものです。(笑)

山縣の軍拡計画はさらに修正拡大されて、1883年(明治16年)から1890年(明治22年)までの8年間に、先に述べた「鎮台」をドイツ式の「師団」に改めて6個師団とし、さらに天皇を護衛する直属の近衛兵を「近衛師団」に改組拡大して、これを加えた7個師団をもって、戦時動員兵力20万の野戦軍を整備する事が決定されます。

しかし、この山縣の軍拡には莫大な費用がかかるため、時の大蔵卿松方正義(まつかた まさよし)は難色を示します。なぜなら当時の日本は、1878年(明治10年)に西郷隆盛らが起こした国内で最後の内戦である西南戦争鎮圧に膨大な戦費がかかり、国家財政が逼迫していたからです。それを打開するために財政の専門家であった松方が大蔵卿として緊縮財政(「きんしゅくざいせい」 これは簡単に言えば、支出を減らし、極力無駄遣いをせずに節約して、国庫にお金を蓄えようものです。)を行っていた最中でした。


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上が当時の大蔵卿松方正義です。(1835~1924)彼は薩摩出身の元老で、後に首相を2度務めますが、大蔵大臣としての経歴の方がはるかに長い(なんと7回も大蔵大臣に就任しています。)財政通の人物でした。彼の残した業績で最も大きいのは、わが国の中央銀行である「日本銀行」を設立した事でしょう。ちなみにプライベートでは、彼は大変な子だくさんで、正妻と妾も合わせてなんと15男11女26人もの子に恵まれ、明治天皇から「卿(けい)は一体何人の子がいるのか?」とのご下問を賜った際に返答に窮し「後ほど調べてご報告いたします。」とお答えしたそうです(笑)

その松方卿の政策が功を奏し、財政赤字は大きく減ったのですが、その半面で「副作用」も出てしまいます。その「副作用」とは、極端に国家予算の支出を減らしたために、国内が深刻な不景気になってしまったのです。いわゆる「デフレ」です。このデフレは、彼の名を取って「松方デフレ」と呼ばれ、彼は不名誉なアダ名を歴史に残す事になってしまったのですが、ともあれ国家財政を預かる松方としては、今だに「病み上がり」の財政が、今回の軍拡でまた大赤字に逆戻りしてしまうのではないかと大きく懸念していました。

「軍拡だと? 山縣め、人の苦労も知らずに簡単に言ってくれるものだな。一体どこにそんな金があるというのだ?」

当時の明治政府は、倒幕を成し遂げた薩摩と長州の二大勢力出身者が要職を占めていた事は、歴史好きの方ならば良くご存知の事でしょう。しかしそもそも薩摩と長州というのは大変な「犬猿の仲」であり、倒幕という利害の一致のために協力しただけで、明治維新後は何かにつけ事ある毎に対立し、それぞれ派閥を作り、権力争いに明け暮れていました。上でお話した2人、山縣有朋は長州出身、対する松方は薩摩出身ですから、彼の心中察して余りありますね。(笑)

しかし、事は国防に関わる重大事です。なんとかしなければ成らない事は松方卿も十分承知していました。そこで松方は一計を案じます。それは煙草税や酒税の増税によって得られる歳入の増加分を軍備増強の財源にするというものです。(酒や煙草は「個人の嗜好品」ですから、所得の割合に応じた定率の税額を増税するよりも国民の反発を緩和出来ますからね。)

こうして完全とは言えませんが、なんとかお金の工面をつけた日本は、予定通り早速軍備の増強に取り掛かります。まず陸軍の方ですが、これは先に述べた様に、陸軍を7個師団体制にし、1個師団の兵力は平時でおよそ9200名、馬およそ1200頭(軍隊というものは将兵だけで成り立つものではありません。武器、弾薬、食糧その他、軍隊を維持していくために必要な大量の物資も戦場に運ばなくてはなりません。当時は自動車やトラックなどもちろんありませんから、これらの大量の物資運搬にはたくさんの馬が必要でした。その「名残り」ともいうべきなのが、車のエンジンなどの出力を表す「OO馬力」という言葉ですね。)に増強されます。そしていざ戦時になれば、兵力はおよそ18500名、馬の数はおよそ5500頭と、兵の数は2倍、馬に至っては5倍にまで増やされる事になったのです。

また海軍の方については、当時清国が保有していた後述する2隻の大型艦「定遠」(ていえん)「鎮遠」(ちんえん)に対抗するため、この2隻に大きさでは及ばないものの、同じ大きさの主砲を持つ3隻の新型艦を建造してこれを主力とし、さらにフランス式の海軍に倣い、補助戦力として敵艦隊に魚雷攻撃を仕掛ける「水雷艇」(「すいらいてい」 後の「駆逐艦」の原型となる艦艇です。)を新たに数十隻建造する計画でした。


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上がこの時に日本海軍が建造した新型巡洋艦「松島型」3隻です。全長92メートル、排水量4300トン、32センチ単装砲1門を主砲とし、副砲として12センチ単装砲12門を舷側にびっしり装備した速度16ノットの巡洋艦です。それぞれわが日本の名所の名を取って「三景艦」と呼ばれました。ただし「建造した。」といっても、当時の日本にはまだ大型艦を建造する造船技術はなかったので、建造を急ぐために松島と厳島の2隻をフランスに注文し、最後の橋立のみ日本で建造されました。これは軍艦の国産化と建造技術の習得のために成されたのですが、先に述べた様にその頃の日本は軍艦の建造技術が未熟で、フランスに注文した松島と厳島は3年で完成したのに、日本で建造された橋立は完成まで6年もかかってしまったそうです。(笑)

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そして上が、補助戦力として多数建造された水雷艇です。全長30~40メートル、排水量50~100トンで速度20ノットの小型艦です。これらはいくつかのタイプがあり、日清戦争開戦までに24隻が配備されました。

以上が日本側の軍備拡大の主な状況ですが、明治20年代の日本の貧しい国家財政では、これが精一杯でした。この軍拡八カ年計画を進めている間に、日本はそれまでの古い太政官制の政府組織を改め、1884年(明治18年)から「内閣制度」を導入し、初代内閣総理大臣として皆さんもご存知の伊藤博文が就任します。また、軍拡計画の最終年度の1890年(明治22年)には「第1回帝国議会」が召集され、国家の方針をそれまでの少数の有力者による合議制から、多数決による議会政治によって決定する国のあり方がようやく整います。

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上はわが国最初の帝国議会議事堂(つまり国会議事堂)です。ドイツの建築家が設計し、現在の経済産業省の敷地に建てられたものですが、とにかく当時の明治日本は貧しく、お金が無かったので、欧米列強諸国の様な石造りの豪華なものではなく、ほとんど飾り気も素っ気もない木造の質素なデザインです。もちろんこれは「仮の議事堂」で、伊藤博文はじめ明治の元老たちは、いずれ国力に余裕が出来れば、大日本帝国にふさわしい立派な議事堂を建てるつもりでいました。

しかしこの議事堂、なんと第1回帝国議会の会期中の1891年(明治23年)1月に、完成してたった2ヶ月で火事により全焼してしまい、仕方なく議会はあの有名な鹿鳴館(ろくめいかん)や帝国ホテルなどに場所を移して急場をしのいだそうですが、議会は毎年天皇のご臨席の下に開催するものですから、翌年11月の第2回帝国議会の召集までに新たなものを再建しなくてはなりません、そこで明治政府は夜通し突貫工事で2代目の議事堂を再建し、なんとかこれに間に合わせたそうです。明治の人々の苦労が偲ばれますね。(笑)

次回に続きます。
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