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日清戦争4 ・ 日清両国の軍備増強(後編)

みなさんこんにちは。

前回は、わが日本帝国陸海軍の創始と、明治時代前期から中期における、その常備兵力や軍備拡大の変遷についてお話しました。では、本テーマのもう一つの主役である相手側の清国の軍事状況はどんなものだったのでしょうか? 今回はそのあたりを後編としてお話したいと思います。

日本が、明治維新後に帝国陸海軍を創設し、その近代化と兵力、軍備の拡大と充実を図っていた頃、清国においてもそれに先んじて軍の近代化が進められていました。しかし、そのやり方はわが国と大きく違い、当時の清王朝の抱える状況から、極めて特殊なものでした。

もともと、清王朝にはもちろん強力な正規軍がありました。清王朝というのが征服王朝である事はすでにお話しましたが、しかしその清の正規軍が精強を誇ったのは、清王朝が中国全土を支配して帝国を打ち建てた初期の頃までであり、清王朝が中国を統一して全盛期を迎え、平和な時代が続くと、活躍の場を失ったこれらの正規軍は清王朝のエリート特権階級としていわゆる「貴族化」してしまい、軍隊としての体を成さなくなっていってしまいます。

しかし、清王朝の建国から200年を経て、そんな存在に成り果て、惰眠をむさぼっていた清の軍隊に、大きな転機となる二つの衝撃的な事件が発生します。それは1840年に勃発したイギリスとの「アヘン戦争」と、その後の1851年から1864年まで続いた清国内の大規模な反乱である「太平天国の乱」です。


Destroying_Chinese_war_junks,_by_E__Duncan_(1843)

上はイギリス東洋艦隊の砲撃を受けて次々に撃沈されていく清国艦隊のジャンク船です。ちなみに「ジャンク船」とはイギリス側の呼び名で、つまり「ボロ船」とか「クズ船」という意味です。(笑)はるかに正確な射撃が出来る射程距離の長い最新の大砲を両側にびっしりと装備し、産業革命の象徴ともいえる蒸気機関で自走出来る最新鋭の強力な装甲艦から成る20隻余りのイギリス艦隊は、数の上ではその10倍以上にも達するが、時代遅れの木造帆船に青銅製の古い大砲しかない清国艦隊を苦も無く撃破し、中国沿岸の制海権を抑え、そのまま都の北京を目指して北上、さらに1万余の陸軍部隊を上陸させて北京に迫ります。

この戦争は、ごく簡単に要約すれば、当時清国との貿易で大赤字を出していたイギリスが、その赤字分を相殺するために、インドで栽培したアヘンを大量に清国に密輸し、これを阻止しようとした清国との間で1840年6月から起きたものですが、上で述べた様に戦局は最新の近代兵器を持つイギリスの圧倒的優勢で、イギリス軍によって北京を追われる恐怖にかられた時の皇帝道光帝ら清朝政府は戦意を無くし、1842年8月にイギリスとの間に「南京条約」を結んでようやく戦争は終結します。その時にイギリスが中国から得たのが、1997年に中国に返還された「香港」ですね。

そしてもう一つのきっかけが「太平天国の乱」です。これは洪秀全(こう しゅうぜん)という人物が中心となって引き起こした反乱で、1851年から1864年まで、実に13年もの間続いた大規模なものです。


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上が太平天国の乱の首謀者である洪秀全(1814~1864)です。彼は中国南部広東省の農村出身で、立身出世を夢見て何度も清王朝の科挙(「かきょ」 これは隋の時代に始まったいわゆる「官僚登用試験」の事で、中国歴代王朝において受け継がれていったものです。今の日本で言えば「第一種国家公務員試験」に相当するものでしょう。これに合格した者は身分の貴賤を問わず、宮廷に仕えるエリート官僚として将来の栄達が約束されるため、野心的な若者たちが受験勉強に勤しんだのですが、相当な難関だった様ですね。笑)を受験しましたが、その都度失敗し、すっかり塞ぎこんだ彼は次第に現実逃避から宗教の道に走ります。

当初中国人としては珍しくキリスト教徒となった彼でしたが、やがて「神のお告げを聞いた。」と言って自らを教祖とする拝上帝教(はいじょうていきょう)なる新興宗教を立ち上げます。(このあたり、今でも新興宗教の創設者がよくやるパターンですね、確かオウム真理教の教祖も若い頃東大受験に失敗して、同じ様な事を言っていたと思いますが・・・。とにかく自分自身を何か特別な存在であると思い込んでいた人物の様です。呆)そして清王朝に反対する人々を集めて中国南部を支配する大勢力へと成長。その力を持って彼は、自らを天王(てんおう)と称して中国南部一帯に地上の天国「太平天国」なる新国家を樹立させたのです。


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上が彼が発行した太平天国の貨幣です。いくつか種類がある様です。

もちろんこんな事を清王朝が許すはずが無く、当然その鎮圧に討伐軍を差し向け、迎え撃つ太平天国軍との間で激戦となるのですが、驚くべきはその損害と犠牲者の数で、両軍とも通算数百万の兵力を動員、数十万の戦死者を出し、さらにその巻き添えとなった一般の民衆の死者を含めると、その数は2千万に達するそうです。(この時代に一体どの様に計算してそういう統計が出たのか定かではありませんが、戦前と戦後の人口を差し引いてそう判断されたのでしょう。)

この戦乱は、結局清軍の巻き返しと、反乱の首魁であった洪秀全の病死による太平天国軍の自壊によって終息していきますが、このアヘン戦争と太平天国の乱の二つの戦いで、清の正規軍はその時代遅れを痛感させられたのです。その後、清王朝内部では、欧米列強諸国からの防衛や国内の反乱鎮圧のために軍の近代化を急ぐべきとの声が相次ぎますが、先の二つの大きな戦いにより清王朝は大きく疲弊しており、イギリスへの多額の賠償金や、太平天国の乱による膨大な戦費支出によって、特に財政面でそれが困難でした。

そこで清朝政府は、地方の有力者に独自に軍隊を作らせ(もちろん、その費用から何から全てその有力者が出すのです。いわゆる「私設軍隊」ですね。当然兵士たちへの報酬も清王朝ではなくそれらの有力者たちが支払うのです。)それを清朝政府が認可するという間接的でユニークな方法を取ります。こうすれば清王朝としては「タダ」で軍隊を作れるのですが、その反面何の見返りも無しでは、莫大な費用と維持費がかかるこれらの軍の創設に有力者たちも納得がいかないでしょう。そのため清朝政府はその見返りとして、それらの有力者にその規模に応じて大臣や総督などの高い地位を与えていくのですが、これが後々各地方の有力者に軍閥化のきっかけを与えてしまい、清王朝の崩壊と後の中国の動乱をもたらしていく事になります。

そうした有力者たちの中で当時最大の存在であったのが、北洋大臣 李鴻章(り こうしょう)でした。


Li_Hongzhang.jpg

上が日清戦争のもう一人の主役とも言うべき李鴻章です。(1823~1901)彼は中国南部で代々高級官僚を輩出してきた名家の出身で、難関の科挙もストレートで次々に合格し、先に述べた太平天国の乱の首謀者である洪秀全とは違う本物のエリートでした。やがて地道に任務と経験を積み重ねて昇進していき、特に太平天国の乱の際の軍功が認められて、気が付けば中国南部一帯の総督として、押しも押されぬ清王朝最大の実力者になっていました。

李鴻章は太平天国の乱勃発前後から、清王朝の命を受けて自分の配下に地方軍を創設、その数は当初はわずか数千程度でしたが、やがて十数万にまで膨れ上がり、清王朝最大の地方軍に拡大していきます。その後、彼が清王朝の特命大臣である「北洋大臣」に任命されると、彼の配下の軍は「北洋軍閥」と呼ばれるようになります。

李鴻章は、自らが創設したこの軍をもっと近代化するためにドイツから軍事教官を招き、武器などもドイツから最新のものを購入、さらに兵を指揮する士官を養成する士官学校も天津に創設していきます。しかし、ここで疑問に思うのは、彼はそのための莫大な資金をどこから得ていたのか? という点です。これについては意外にもさほどの困難はありませんでした。なぜなら彼は、先に述べた様に中国大陸で最も経済的に豊かな南部一帯を治める総督であったからです。総督はその全ての利権を管理する権限を清王朝から与えられていたので、そこから上がる莫大な収入を、彼は自由に使う事が出来たのです。

但し、ここからがこの人物の尊敬するに値する点なのですが、彼はその気になれば、その莫大な収入で贅沢三昧に遊び暮らす事も出来ました。しかし、彼はそれを私的に流用する事はほとんどなかったのです。彼は自分を引き立ててくれた清王朝に対して終生その恩を忘れず、生涯忠誠を尽くし、豊富な資金を惜しみなく投じてひたすら清王朝の建て直しと国の近代化に人生を捧げた愛国者でした。(彼こそ清王朝を支えた最後の柱でした。清王朝は、事実上彼の死とともにその柱を失い、倒れたと言えるでしょうね。)

さて、こうした独特なやり方で陸軍の方の近代化と兵力の整備を進めた(というより、中央政府にお金が無くてそうせざるを得なかった。)清国でしたが、では海軍の方はどうだったのでしょうか?

これについてもそのやり方は基本的に同じでした。潤沢な資金力を持つ李鴻章の様な各地方の総督に、ヨーロッパ諸国から軍艦を買わせ、これをもって艦隊を編成するというものです。1875年(明治7年)に北洋艦隊と南洋艦隊の2個艦隊が創設され、その名の示す通り、それぞれ30隻以上の艦艇で中国沿岸の北部と南部に展開し、清帝国の海防を担っていました。

その清国海軍の2つの艦隊のうち北洋艦隊は、その名の通りこれも北洋大臣李鴻章が創設したもので、ドイツに発注して建造された「定遠」(ていえん)「鎮遠」(ちんえん)の2隻の装甲艦を主力とする、総勢38隻から成る清国海軍の主力艦隊でした。


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上が定遠型戦艦の2番艦「鎮遠」です。船長94メートル、排水量7300トン、最大速度14ノット(およそ時速26キロ)乗員360名、主砲として30センチ連装砲2基と、15センチ単装砲2基を備える当時アジア最大の軍艦でした。(写真では分かりにくいので図を載せましたが、かなりずんぐりした船体に、なんと主砲が横に互い違いの位置についているのが面白いですね。笑 この時代は軍艦の発達が著しく、形状やデザインも各国で試行錯誤が繰り返されていました。これはその時代の産物でしょう。)

清国はこの2つの主力艦隊にその他の小艦艇も合わせ、日清戦争開戦前には総勢80隻以上の艦艇を保有し、前回お話した様に全艦合わせて30隻に満たない日本海軍の3倍に達していました。つまり海軍力では、清国は日本を完全に圧倒していたのです。

この様に、日本と清国はそれぞれ独自のやり方で軍の近代化とその増強を進めて行きました。一見すると、陸海軍とも清国が日本を完全に圧倒する兵力を持っていたのがお分かりいただけると思います。しかし歴史を見れば、軍隊というものは必ずしも大軍であれば良いというものではありません。何よりもその「質」が大事なのです。

これまでお話してきた様に、日清両国はそれぞれ全く違う方法で軍備を増強させていきましたが、わが日本が中央政府の主導の下で、徴兵制による真の国軍を創設していたのに対し、片や清国では地方の有力者が創設した地方軍を中央政府が認知するというものでした。そのためこの時点で、軍を構成する将兵たちに大きな資質の差が現れます。それは軍の士気と忠誠心です。

わが日本軍は徴兵制をもって、一定の年齢に達した心身ともに健康な成年男子全てに一定の期間の兵役を義務付けるシステムでした。もちろん兵役についている間は、薄給とはいえ国から給与をいただくのは当然の事として、その間に兵士たちは死をもいとわぬ愛国心を培い、そして何よりその絶対的な忠誠の対象である天皇に命を捧げる帝国軍人を創り上げていきました。

それに対し、清国の方は先に述べた様に、各地方の有力者に作らせた私設軍を中央政府が認可するという間接的なシステムでした。そのため兵士たちの忠誠の対象となる存在は、彼らに報酬を支払う雇い主であるそれぞれの有力者にならざるを得ず、当然の事ながら愛国心や清朝皇帝に対する忠誠心など育つはずがありません。各地方軍はそれぞれバラバラで中央政府が指揮統率出来ず、つまり、真の国軍とはとても呼べないものでした。

日清戦争の実質的な勝敗は、この双方の軍隊の成り立ちから必然的に決まっていたともいえるでしょう。そしてそれは現実のものとなって、その後誰もが清国の圧倒的有利とみていた日清両国の軍事バランスを大きく逆転させていく事になるのです。

次回に続きます。
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