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日清戦争5 ・ 日清開戦への道

みなさんこんにちは。

19世紀も末に入った1894年のアジア極東地域において、新興帝国主義国家として少しづつ着実に力を付けつつあったわが大日本帝国と、かつての繁栄と強大さを取り戻さんと必死に近代化を急ぐ大清帝国は、両国の中間に位置する朝鮮半島の支配権を巡って次第に対立の度合いを深めていました。

さかのぼる事10年前の1884年、朝鮮国で起きた動乱鎮圧のために、両国の派兵した軍隊が交戦した事は以前にもお話しましたが、その後に結ばれた天津条約の結果、日清両国はおよそ10年間の平和と均衡を保ちました。しかし、その平和と均衡も、いずれは破られる事は予想されており、両国にとっては次なる戦いの時間稼ぎに過ぎませんでした。

前回もお話した様に、日清両国はその10年の間に大幅な軍備の増強と近代化を急ぎ、互いの出方次第ではいつでも戦争が出来る体制を整えていました。その日清両国の間にあって一人近代化に立ち遅れ、改革も出来ず、ただ両国の動きに翻弄され続ける貧しい弱小国であった朝鮮国において、再び大規模な反乱が勃発してしまいます。「東学党の乱」です。

当時朝鮮国は500年の長きに亘って李王朝の統治下にありましたが、相次ぐ内乱と日本、清国などの外国勢力の干渉、経済、貿易上の不平等条約の押し付けなどにより、ただでさえ貧しく、対外的に売れるものなどほとんどないこの国は財政危機に陥っていました。当然朝鮮国民は貧苦にあえぎ、事に農民はせっかく作った米や大豆も安く買い叩かれ、その上李王朝政府が課した重税に苦しんでいました。

人間というものは、現実世界の悲惨さの逃避から、自然と人智を超えた大いなる存在を創り上げ、それにすがって救いを求める様になります。これは洋の東西を問わず人類の歴史に必ず見られるもので、そうした中で生まれてきたものが「神」と「宗教」です。それはここ朝鮮でも例外ではありませんでした。当時朝鮮国は(現在もそうですが。)中国の孔子が創始した「儒教」(じゅきょう)の国でしたが、この儒教というものは「宗教」というよりも、君主など統治者の「徳」によって国や人民を治めるための「思想」であり、一般の民衆には非常に難解なもので、何よりそこには人々が拝む大いなる存在、すなわち「神」が存在しませんでした。

そこで当時の朝鮮国に広まったのが「東学」という宗教です。これはごく簡単に説明すれば、「神」はこの世の全ての人の心の中に等しく存在するのだと説くもので(そういう事にしておけば簡単だし「便利」ですからね。笑)西洋のキリスト教を「西学」と呼ぶのに対してこの様に呼ばれました。この東学は小難しい儒教や意味も分からないお経に代表される仏教とは違い、その単純さから朝鮮南部の貧しい農民たちを中心に広まっていきます。

東学の信者の大半は無学な農民でしたが、それを彼らに説いて回ったのは少数の知識人たちでした。やがて1894年(明治27年)5月、彼らの扇動により立ち上がった6千の農民たちがついに武装蜂起します。

「目指すは都だ。王様にわしらの苦しさを訴えて税を下げてもらおう。」

6千余の農民軍は大挙して都漢城に向けて進軍を開始しました。これに対し、李王朝政府はただちに討伐軍を差し向けます。一方農民軍は火縄銃や弓槍剣といった古い武器しか持っていませんでしたが、必死の彼らは戦意の薄い(つまり、あまりやる気の無い 笑)政府軍を撃破してしまったのです。勢いに乗る農民軍は、当初の6千からその数を数万に増やし、都漢城に迫る勢いを見せました。慌てた李王朝政府は自力での反撃を諦め、再び清国に援軍を依頼しました。

「朝鮮で再び大規模反乱勃発。」

この知らせは海を隔てた日本にも直ちに伝わります。すでに日本では内閣制度と議会政治が始まっていましたが、時の日本の総理大臣は皆さんもご存知の伊藤博文が再び就任していました。しかし、彼は当時帝国議会の運営、とりわけ薩摩、長州二大派閥と板垣退助らの率いる自由党などの野党勢力の政争に明け暮れており、朝鮮情勢に対しては前回の経験から、その裏にいる清国との衝突を招くなどの危険もある事から、再派兵などの軍事行動には消極的でした。

それに対し、大規模な軍事行動を主張したのが時の外務大臣、陸奥宗光(むつ むねみつ)です。


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上が当時の外務大臣 陸奥宗光です。(1844~1897)彼は紀州出身で、薩摩、長州二大勢力出身者が要職を占めていた当時の明治政府内で、そのどちらにも属さない珍しい人物でした。幕末に旧江戸幕府が欧米諸国と結んでしまった不平等条約の撤廃に終生を捧げ、その功績から伯爵号を賜っています。

陸奥外相は兵力が少なかったために清国に敗れた前回の失敗から、陸軍の大部隊を差し向けて一気に朝鮮の反乱を鎮圧し、これに清国が反撃するならば、清国と開戦すべしと強硬に閣議で主張したのです。彼は渋る伊藤首相に詰め寄ります。

「閣下。本件に関してはいずれは避けられない戦であり、それは閣下も良くお分かりのはずです。ここで二の足を踏んでいるうちに、朝鮮を清国に取られてしまいますぞ。どうかご決断を。」

陸奥外相はこう言って伊藤首相に開戦を促したのです。しかし、ここで疑問に思うのは、なぜ彼が戦争も辞さない強硬論を主張したのか? という点です。陸海軍の首脳ならばまだしも、本来外務大臣といえば、国家の外交責任者として自国と諸外国との問題や交渉に当たる最も重要な役職であり、その性質上外国との戦争などは最も避けようとしなければならない存在のはずです。その外務大臣が口を開けば戦争を声高に叫ぶのです。一体なぜなのでしょうか?

実はこれには彼の外務大臣としてのこれまでの人知れぬ苦労が影響している様です。彼が欧米諸国との不平等条約(具体的には「治外法権」つまり外国人犯罪者の逮捕裁判権や、「関税自主権」これは外国の製品を輸入する時にかける税金ですね。)の改正に心血を注いだ事は先にお話しましたが、その際に彼は欧米諸国との交渉で非常な苦労を強いられたのです。その理由はなんといっても当時の日本と欧米諸国と比較した国力、とりわけ軍事力の差でした。

明治維新からまだ30年に満たないこの時代、当時の日本はその全てが発展途上の弱小国でした。とにかく軍艦1隻建造するのに欧米列強の2倍の時間(欧米諸国が2~3年で建造する軍艦が、日本では技術の経験不足から6年もかかっていました。)がかかるのです。それ以外でも、医学、科学、建築、法律、軍事など近代国家として必要不可欠な分野の習得には、進んだ欧米列強諸国から学ばなくてはなりません。つまり、欧米に絶対に頭が上がらないのです。

当然それは条約改正の交渉の場において、終始陸奥を苦しめます。そうした日本の立場の弱さを熟知しているアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアなどの列強諸国は、露骨に日本側を見下し、なかなか不平等条約の改正に応じようとはしませんでした。

そこで彼が力を入れたのが「ご接待」作戦です。(笑)当時日本が不平等条約を結んでいた全ての国の大使や領事を政府主催のパーティーに招いては豪華な食事でもてなし、「贈り物」と称してはまず間違いなく相当な「賄賂」などを彼らに持たせたのです。その時に特に大きな力を発揮したのが日本の「美女」たちでした。


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上は陸奥宗光の妻である陸奥亮子です。(1856~1900)彼女は東京の元旗本の娘でしたが、士族である実家の没落でやむなく芸者に身を落としていました。しかし、上の写真を見ても分かる様にその美貌と武家出身の教養の深さから、特に明治政府の重臣たちの間でたちまち「売れっ子」となります。中でも最も彼女を気に入ったのが陸奥で、自分の妻として彼女に求婚したのです。

陸奥外相は自身の妻亮子夫人に指揮を取らせ、あらゆる美女たちを集めて外国使節をもてなし、それらの美女たちに時には「夜の相手」までさせて、夫婦二人三脚で条約改正に奔走します。こうした努力が実り、欧米諸国との不平等条約は徐々に撤廃されていくのですが、意地もプライドも捨てて外国大使や領事にペコペコしなければならなかった陸奥外相の苦労が偲ばれますね。

陸奥外相は、日本が今後の外交交渉で欧米諸国に「なめられない」よう日本の「強さ」を示す事が必要だと考えていました。彼が清国との開戦を強硬に主張したのは、先の不平等条約改正交渉で終始下出に回らなければならなかった彼の苦労の反動であったのかも知れません。

さて、話を戻しますが、1894年(明治27年)6月初め、日本の閣議では陸奥外相の強硬論に押し切られ、結局伊藤首相は明治天皇のご裁可を得て、完全武装の1個旅団(およそ8千)の朝鮮への派兵を決定します。その名目は、表向きは日本公使館員と在朝日本人の保護というものでしたが、それにしては明らかに過大かつ過剰な兵力でした。そして同時に日本がこれほどの大軍を朝鮮に差し向けるのは、豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、実に300年ぶりの事でもありました。

しかし、ここで思わぬ誤算が生じます。日本軍が朝鮮に上陸し、都の漢城(ソウル)に入城した時、すでに東学党の乱はほとんど終息してしまっていたのです。その理由は季節が農繁期であり、もともと感情的な理由から始まった反乱だったため、時間が経つにつれて田畑の作物が気になりだした農民たちが大勢戻ってしまったからでした。首都漢城市内は何事も無かったかの様に平穏であり、何にしてもこれで日本の大部隊が駐留し続ける意味が無くなってしまいました。

これに慌てたのが伊藤首相ら日本政府と大本営です。日本側はこちらが大部隊を送り出せば、清国も対抗して必ず大軍を差し向けて来るから、それを口実に開戦に踏み切るつもりでいたのです。しかし、日本軍が到着した時にはすでに乱が収まっており、またその時点では、清国も軍隊を朝鮮に送り込んではいませんでした。さらに悪い事に、陸奥外相が以前に清国に対して、

「清国がわが国に対して軍事的威嚇をしない限り、わが方から戦端を開く様な事はしない。」

と宣言してしまっていました。つまり、日本側から清国に対して宣戦する「大義名分」がなくなってしまったのです。日本側はこのまま何もせずに(というより「何も得るものなしに」といった方が正しいでしょうね。笑)兵を引き揚げる訳にはいかなくなってしまいました。

当時の日本の世論は対清開戦論が大勢を占めていました。新聞が連日の様に戦争を煽る記事を書き立て(理由は簡単です。その方が新聞が売れるからです。)国民はその記事をむさぼる様に読みあさり、開戦論が国民の間に広く浸透していったのです。そして伊藤博文をはじめとする明治の政治家たちの頭に真っ先に湧いたのは「選挙」の事でした。同年9月に総選挙を控えており、もし、このまま何もせずに兵を引けば国民の失望を買い、先に述べた自由党などの野党勢力がここぞとばかりに喜び勇んで政府与党を批判して(今のわが国の議会を見て下さい。与党自民党のする事を野党民主党が「下らない事で」足を引っ張っていますね。今も昔も変わりません。笑)帝国議会の議席数を大きく減らす事になるでしょう。過半数を取れなければ内閣の政策や法案の全てが否決されてしまうのが議会政治の基本である事は、みなさんもお分かりの事と思います。


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上はみなさんもご存知の伊藤博文公です。(1841~1909)明治以後の近代日本は、ほとんど彼が創り上げたといっても良いのではないでしょうか?

ともかく伊藤首相らは、清国と開戦する立派な大義名分を作り出さなくてはならなくなりました。

しかし、そこはさすがにあの明治維新を成し遂げたしたたかな男たちです。伊藤首相以下の明治の元老たちにとって、それを作り出すのはさほど困難な事ではありませんでした。要は相手を挑発して怒らせ、開戦せざるを得ない状況に持って行けば良いのです。そして、そのための口実に使われたのはまたしても朝鮮問題でした。

日本政府は、今回朝鮮国において東学党の乱が発生したのは朝鮮政府に統治能力が欠落しているからであると断じ、今後朝鮮国で無用な動乱が起きる事の無いよう日本が朝鮮政府の改革を行うと清国政府に通告したのです。これは明らかな他国への「内政干渉」であり、増して朝鮮国を属国と見ていた清国にとって絶対に許すべからざる事でした。

ただし、ここで誤解してはならないのは、伊藤首相は決して清国との戦争を望んでいたわけではないという点です。開戦を強硬に主張した陸奥外相とは対照的に、彼は最後まで清国とは協調していくべきだと考えていました。青年時代に欧米先進国に留学し、広く見聞して国際政治のあり方を学んだ伊藤は熱心な国際協調主義者でした。そのため、後の日本軍部が抱いていった軍事力による膨張拡大主義には反対していたのです。

その理由は実に単純で難しい事ではありません。そんな事を続ければ次から次へと戦争の繰り返しになるからです。仮にわが大日本帝国がアジア太平洋にその軍事的野心を向ければ、そのはるか先にいる欧米諸国との対立と戦争を招くのは必至であるという高度な政治判断からでした。(その後のわが国が辿った歴史が、彼の恐れた通りの事態になってしまったのは誰もが周知の事実ですね。)

そして何より戦争というものは大勢の人を死なせ、莫大なお金がかかる非生産行為です。そして勝てれば良いが、負ければ国家を滅亡に導くかもしれない非常に危険なものでもあります。(あの太平洋戦争敗戦時のわが国を思い起こして下さい。)長州の貧しい貧農の子に生まれ、幕末の動乱で多くの戦いを経験してきた彼だからこそ、その悲哀と空しさを誰よりも良く知っていました。といっても、それはあくまで彼の個人的な考えであり、大日本帝国首相としての彼の立場としては全く別でした。彼は首相として国内外のあらゆる状況を大局的に見極め、時には戦争も辞さない強い姿勢を示す必要がありました。時代がそういう時代だったのです。

次回に続きます。
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