日清戦争7 ・ 日清開戦と明治天皇の尊いお嘆き

みなさんこんにちは。

1894年(明治27年)7月、清国の朝鮮へのおよそ8千の派兵により、ついに日本政府は清国との開戦を正式決定するに至りました。といっても、まだこの段階においては両国との間に戦端は開かれてはいませんでしたが、日本側は「清国が軍をこちらに向けて来た。」というその事実をもって、かなり強引に開戦を決定したのです。7月19日、大本営は陸海軍に動員令を発し、日本軍は完全に戦闘準備態勢に入りました。

この時、清国は大きく2つに分けて軍を朝鮮に差し向けていました。一隊はおよそ2300名から成り、輸送船3隻に分乗し、武器、弾薬、食糧その他を満載して朝鮮の都漢城に近い港である牙山(がざん)を目指して天津を出航、これを2隻の巡洋艦が護衛していました。また、さらにもう一隊は6千の兵から成り、朝鮮国第二の都市平壌(へいじょう 今のピョンヤン)に向けて陸路進軍を開始していました。

日本軍は、北から迫る6千の清軍は徒歩行軍であり(当時清国と朝鮮国の間にはまだ鉄道が無かったからです。)到着まで時間がかかるであろう事から、海路南から迫る2300の清軍から先に「片付ける」事にします。

「清国艦隊および輸送船団を撃滅し、朝鮮半島沿岸の制海権を確保せよ。」

7月23日、大本営から海軍に対してこの様な命令が発せられ、日本艦隊はただちに佐世保軍港を出撃します。一方日本側の一連の動きなど知る由もない清国艦隊は、何も知らずに朝鮮近海に近づきつつありました。そして、ついに両国艦隊は運命の遭遇をしてしまいます。今回のテーマ「日清戦争」の最初の戦いの火蓋を切る「豊島沖海戦」(ほうとうおきかいせん)の始まりです。

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上は豊島沖海戦を描いた当時の錦絵の一つです。(残念ながらこの海戦は夜明け前に行われたために、海戦そのものの写真はありません。)海戦はわが日本艦隊が巡洋艦3隻、清国艦隊は先に述べた5隻でしたが、日本艦隊の砲撃により清国艦隊はほぼ全滅、乗っていた清軍兵士のうち1100名が戦死したのに対し、日本側の損害は皆無という日本側の完全な勝利でした。

この海戦については、現在まで「どちらが先に攻撃したのか?」という点で日中双方に論争があり、双方とも「向こうから撃ってきた」といって相譲らない様ですが、どうも歴史家の間では日本側の先制攻撃であったのは間違いないと思われます。

一方、この時朝鮮半島にいた日本軍の兵力は、大島義昌(おおしま よしまさ)陸軍少将率いる第9旅団およそ8千余りで、朝鮮国の首都漢城(ソウル)市内に1千、その郊外に主力の7千が駐留しており、本国からの命令一下、清軍といつでも戦闘開始出来るよう準備を整えていました。


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上が朝鮮派遣軍先遣部隊司令官の大島義昌少将です。(1850~1926)彼は長州(山口県)出身で、明治維新以来、陸軍軍人として黙々と任務を全うして来た人物です。今回の日清戦争における功績で男爵号(後に子爵、陸軍大将)を授けられています。ちなみに彼は現安倍晋三首相の父方の高祖父(「こうそふ」 安倍首相の父方の祖母が大島将軍の孫娘なのだそうです。つまり安倍首相から見れば「ひいひいお祖父さん」になり、安倍首相はその玄孫「やしゃご」つまり「孫の孫」になりますね。笑)に当たります。

しかし、この時もう一つ極秘の作戦が日本側で企てられていました。それは日本軍による「朝鮮王宮の占領」です。この作戦を計画したのは、驚くべき事に日本軍ではなく、時の朝鮮公使であった大鳥圭介(おおとり けいすけ)でした。


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上が当時の朝鮮公使であった大鳥圭介です。(1833~1911)彼は元幕臣で、あの戊辰戦争最後の「五稜郭の戦い」まで、徹底して明治新政府と戦った人物ですね。明治維新後、本来学者であった彼は幕臣時代に身につけた豊富な西洋の知識と英語力を買われて明治政府に仕え、主に技術官僚、外交官としての道を歩み、後に男爵号を賜っています。

それにしても、なぜ軍人ではない彼が、この様な大それた計画を立てたのでしょうか? その理由は日本が清国と戦争を開始する開戦理由を作り出すためでした。

これまでお話してきた様に、日本側は全ての混乱の原因は、朝鮮政府の自国内の反乱に対する無為無策が引き起こした事であり、朝鮮政府が改革を行わなければ、日本が主導してこれを行うと勝手に清、朝鮮両国に通告していました。もちろんこんな強引なやり方を両国が認めるはずはありません。日本側もそんな事は百も承知でした。しかし、日本の目的は相手の清国を挑発して「戦争するための理由」を作り出す事であり、とにかく何でも良かったのです。

大鳥公使は、本国の上司である陸奥宗光外相の指示により、当時の李王朝朝鮮政府に対して内政改革を直ちに行うよう要求していました。しかし、朝鮮政府の返答は

「改革はもちろんするが、それは日本軍が撤兵してから自分たちが行う。」

という日本側が予想した通りのものでした。そこで大鳥公使は、現在の朝鮮政府には改革の意思がないものとして、首都漢城内外に駐留する大島少将の第9旅団をもって朝鮮王宮を占拠し、朝鮮政府を日本側主導の新政府に挿げ替えようとしたのです。大鳥公使の謀略はすでに大島少将も了解済みであり、7月23日未明、日本軍は行動を開始します。

「計画通り作戦を実行せよ。」

大鳥公使からの指令により、大島少将は各部隊に命じ、王宮を包囲宮殿内に突入して警備の朝鮮兵と銃撃戦を交えますが、所詮は多勢に無勢です。日本軍はわずか数時間で王宮を占領し、国王高宗以下政府要人を拘束する事に成功しました。


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上は当時の朝鮮の都漢城の王宮と、その前の大通りの様子です。

作戦に成功した大鳥公使の次の計画は、朝鮮に日本に有利な新政府を樹立させる事です。これには国王高宗の父であり、国王の妃である閔妃(びんひ)とその一族と対立していた興宣大院君(こうせんだいいんくん 1820~1898)を政府の首班に擁立する手筈になっていました。その狙いはただ一つ「朝鮮に迫る清軍を日本軍に撃滅して欲しい。」という要請を彼に出させ、これをもって日本が清国と開戦する大義名分にするためです。成す術の無い大院君はやむを得ずこれに同意、それはまさに脅迫によって出させたものでした。

こうして日本軍は堂々と清軍と戦う事が出来る様になったのですが、この作戦に時間を取られたために、大島少将率いる日本軍はすでに豊島沖海戦前に上陸していた牙山の清軍先遣部隊の攻撃に遅れてしまいます。ここにはおよそ3500の清軍がおり、これを撃滅してからでないと、清本国の李鴻章が差し向けた北から迫る6千の清軍との戦いに臨めないからです。(南北から挟み撃ちに遭ってしまいますからね。)

7月28日、大島少将は手勢の半数の4千の兵を率いて牙山に向かい、迎え撃つ清軍と戦闘を開始します。これを「成歓の戦い」(せいかんのたたかい)といい、先に述べた豊島沖海戦と並んで日清戦争最初の戦いとなります。

この戦いにおいて、日本軍はたった80名余りの損害を出しただけで清軍を撃破する事に成功しましたが、完全な勝利とは呼べませんでした。なぜなら清軍の指揮官が味方の不利を悟るとただちに撤退し、残存部隊およそ3千を集結させて北の平壌(ピョンヤン)の清軍本隊と合流すべく素早く移動していたからです。

こうして陸海両面での戦闘が始まり、日清両国は8月1日に至って国交断絶と宣戦布告を互いに通告し、ここに日清戦争が正式に始まったのです。そしてそれは日本が明治維新以来、近代国家として歩みだしてから初めて経験する対外戦争でもありました。

この事に付き、ある高貴なお方が大きな不安と恐れ、そして何より深い悲しみとお嘆きの意を表されています。わが大日本帝国第122代天皇にあらせられる明治天皇です。


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上は珍しいカラーの明治天皇の肖像画です。ヨーロッパの王候君主に全く引けを取らないスマートで凛々しいお姿ですね。(ルンルン)

この時天皇は41歳で、成熟した壮年期をお迎えになっておられましたが、明治帝は大変慎重かつ繊細なご性格であり、また記憶力に優れたお方で、明治最大の臣下である伊藤博文首相はじめ他の大臣たちも、何度も書類の間違いや言い間違いを指摘され、

「陛下の御前ではごまかしが利かない。」

と冷や汗をかきっ放しだったそうです。(笑)また、貧しい国民の生活を常に気にかけられ、決して贅沢に溺れる事無く、真冬でも「火鉢一つ」で過ごされたほど質素倹約を第一の信条とされる無私無欲なお方でした。(国家予算の配分で、海軍力増強のために軍艦の建造費用が足りなくなった時にも、明治天皇は自らの内廷費、つまり天皇家の生活費の6年分を節約してまで国にご返上されたそうです。)

そんな明治天皇が、今回の日清戦争開戦について、次の様なお言葉を発せられています。

「朕はもとより不本意である。全ては重臣たちの上奏によってやむなくこれを許したものであり、この様な事態に立ち至った事に対し、朕は歴代天皇になんとご奉告申し上げれば良いものか大いに苦しんでいる。」

明治天皇は皇祖にあらせられる初代神武天皇から2千年の長きに亘り、連綿と受け継がれてきた万世一系の尊い皇位と国家を危険にさらす事を何よりも恐れておられました。明治維新からたった27年、今だに近代国家として全ての面でまだまだ幼稚で経験不足な日本の事を最も良く理解しておられたのは、誰あろうその君主にあらせられた明治天皇ご自身であったのです。

とりわけ天皇が恐れられたのは、戦争によって負けるかもしれないという「敗戦への恐怖」でした。そのため明治帝は、その在位中極力対外戦争を避け、諸外国との協調と友好を常にお望みでした。

しかし、実際に日本の国政を執り行う伊藤博文首相ら大臣たちはそうは行きません。彼らは弱肉強食であった当時の国際情勢を睨みつつ、時には戦争という残酷で巨大な事業を遂行しなければならない立場にあったからです。つまり「理想」が明治天皇であったとすれば「現実」は伊藤博文であったといえるでしょう。

明治天皇は非の打ち所無い英邁な君主です。「ごまかしが利かない」天皇に対し、明治天皇のご意志が戦争に反対である事を知る伊藤首相や陸奥外相は肝心な所で天皇を避ける様になり、本来なら真っ先に天皇の裁下を得るべきこれらの重要な決定についても次第に事後承諾が多くなります。特に天皇は陸奥外相の外交指導に大きな不満を持っておられた様で、今回の日清開戦に際しても、事前になんの了承も無いまま突然開戦の詔書を見せられ、熟慮する時間もなく裁下させられたために、天皇は大変お怒りになられたそうです。

この様に、明治天皇は今回の日清開戦を深く嘆いておられましたが、天皇も決して完全無欠な「平和主義」であられたわけではありませんでした。先ほどの天皇のご意志と相矛盾する様ですが、天皇ご自身の個人的な理想や御心と、大日本帝国の立憲君主としてのお立場は全く別のものです。事ここに至った以上、明治天皇は帝国陸海軍の大元帥として戦争指導に一身をお捧げになり、やがてわが国を勝利へとお導きになられるのですが、そこに至るまでの明治天皇のご心情とご心労は、想像を絶する大変な重圧であったのです。

次回に続きます。
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