スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

クローヴィス1世とメロヴィング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回から中世ヨーロッパ最初の大国であるフランク王国と、それに係わる様々な人々についてお話したいと思います。最初はフランク王国の創始者であるクローヴィス1世とメロヴィング王朝についてです。

FRANCO~1

クローヴィス(466~511)はゲルマン民族の一部族であるフランク族の王です。彼が生きた時代、ヨーロッパはローマ帝国に代表される「古代」から「中世」に移行する激動の新時代を迎えていました。

クローヴィス (文庫クセジュ)

新品価格
¥999から
(2014/4/8 02:50時点)



メロヴィング朝 (文庫クセジュ)

新品価格
¥1,134から
(2014/4/8 02:52時点)



クローヴィスとメロヴィング王朝について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。 この時代についての書籍は非常に少なく、彼の生涯と、彼が築いたメロヴィング王朝について書かれた日本でほとんど唯一の本と思われます。

ここで彼が登場する前の時代背景をご説明します。


紀元370年以降、はるか東方のロシア、ウラル山脈の向こうからやって来た凶暴な遊牧騎馬民族「フン族」の襲来によって、それまでライン川の向こう側である現在のドイツに居住していた「ゲルマン民族」が、フン族の侵略から身を守るため、大挙してライン川を越え、ローマ帝国内に侵入を開始しました。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」の始まりです。

この頃すでに、ローマ帝国は度重なる内乱によって衰退しており、かつての栄光もとうに色褪せ、もはや彼らの侵入を自力で食い止める力はありませんでした。そして彼らに「大移動」をするに至らしめたこのフン族は、族長アッティラ(406?~453)の代に最盛期を迎え、一時的にせよライン川からドナウ川に至るヨーロッパの半分を領する大帝国を築き、殺戮と破壊、略奪の限りを尽くして暴れ回りました。

456px-Brogi,_Carlo_(1850-1925)_-_n__8227_-_Certosa_di_Pavia_-_Medaglione_sullo_zoccolo_della_facciata

Hunnen.jpg

Huns_empire.png

上の1枚目がアッティラの肖像、2枚目が敵をなぎ倒すフン族、3枚目がフン族の最大勢力範囲です。

この時にローマ帝国領に侵入した異民族は、西ゴート族、東ゴート族、ブルグンド族、ヴァンダル族などのいくつかの大集団に分かれ、フン族に劣らぬ勢いで領内を荒らし周りました。


歴史の授業などでは、ローマ帝国が衰え、それに乗じてゲルマン民族が侵入した様な教え方をしていますが、実際はこの「フン族」の襲撃から逃れるために、押し出されて逃げて来たというのが実情の様です。また移動を余儀無くされたのはゲルマン人だけでなく、ロシアや東欧のスラブ人も多かったので、単純に「ゲルマン民族の」大移動とは言えないそうです。

この様な危機を迎え、ローマ帝国は新たな国づくりを目指し、都をローマから時の皇帝の名を冠したコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に遷都、さらに395年、ローマ帝国は東西に分裂してしまいます。(「新たな国づくり」とは聞こえは良いですが、これらの異民族の侵入によって、もはや救い様が無いほど四散していた帝国の西側部分を「切り捨てた」という方が正しいでしょう。)

Theodosius_Is_empire.png

上が分裂後の東西ローマ帝国です。

その後フン族とその国家については、王である族長アッティラの死によりあっけなく崩壊して、歴史の表舞台から姿を消しますが、彼らによって押し出された異民族はその後も西ローマ帝国内に留まり、時期はばらばらになりますが、それぞれの族長が「王」を名乗ってその支配地に王国を打ち建て、西ローマ帝国を分割支配してしまいます。

この様な事態に西ローマ帝国(もはや「帝国」などと呼べる様なものではありませんでしたが。) は凋落の一途をたどり、その後の皇帝たちには成す術がありませんでした。帝国の行政機構も帝国軍の主力軍団も、その他重要なほとんどのものが東西に分裂した際に東ローマ帝国に移されており、西ローマ皇帝は「皇帝」とは名ばかりで、東ローマ皇帝から西側の始末を任された「総督」の様な存在でしかありませんでした。

そこで彼らは「蛮族には蛮族で」という事で、同じゲルマン人の少数部族を「傭兵」として戦わせる事を以後の国防方針とします。しかし410年、族長アラリック(360~410)率いる西ゴート族が都ローマに侵入、その前にすでに現在のフランス南部からスペインに至る地域に「西ゴート王国」を建国。さらに432年には族長ガイゼリック(389~477)率いる8万のヴァンダル族が北アフリカに上陸して「ヴァンダル王国」を建国。455年には海側からローマに侵入、西ゴート族よりもはるかにひどい略奪と破壊の限りを尽くし、奴隷にするための多数の女子供や、市民たちから奪い取った財宝を山と船に積んで北アフリカに凱旋しました。(ローマ掠奪)

S070Map.gif

478PX-~1

このヴァンダル王国の建国は西ローマ帝国に大打撃を与える事になります。それまで海の向こうで異民族の侵入を受けず、無傷の領土であった北アフリカの穀倉地帯を奪い取られ、ゲルマン人の傭兵たちに支払う資金源を失ってしまったからです。それでも西ローマ皇帝は、残るイタリア半島の領土を切り売りしながら傭兵たちに与える事で、さらに40年ほど「帝国」の延命を図りますが、470年代にはついにそれも底を尽いてしまいました。

ここに至って傭兵たちは「金の切れ目が縁の切れ目」とばかりに西ローマ帝国を見限り、最終的にそれら傭兵たちの長で、皇帝の親衛隊司令官でもあったゲルマン・スキリア族の族長オドアケル(433~493)によって、476年最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス帝が廃され、ここにイタリア半島を発祥の地とする「古代ローマ帝国」は滅亡します。


Young_Folks_History_of_Rome_illus420.png

上はオドアケルにひざまづいて帝冠を差し出す西ローマ最後の皇帝ロムルス・アウグストゥス(466~511?)奇しくも最後の皇帝の名が、ローマ建国の父ロムルスと、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスである事は皮肉ですね。飾り物に過ぎなかったとはいえ皇帝ともあろう者が、傭兵隊長上がりの将軍に冠を差し出す姿がとても哀れです。しかし幸いにも彼はまだ少年であった為か命までは奪われず、それどころかオドアケルから恩給まで与えられて家族と供にカンパーニャに移り住み、修道院を建てるなどの業績を残したそうです。

その彼を退位させたオドアケルは、西ローマ皇帝位を時の東ローマ皇帝ゼノン(426~491)に返上し、代わりに「イタリア王」となる事を要求して認められ、全イタリアの統治権を承認されますが、成り上がり者の思い上がりからか、東ローマ帝国の内政にまで干渉して皇帝ゼノンの怒りを買い、皇帝がイタリア半島を餌として差し向けた族長テオドリック(454~526)率いる東ゴート族との戦いに敗れて暗殺されてしまったので、彼の王国は一代で終わってしまいます。(その後には、これに勝ったテオドリックが「東ゴート王国」を建国しました。)

厳密にはローマ帝国は、その東半分であり、西側よりもはるかに多くの富が集中するギリシャ、オリエント地域に東ローマ帝国が健在で、しかも1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまでおよそ千年もの長きに渡って続くのですが、歴史上の位置付けではこの時を境に「古代」が終わり、コロンブスやマゼランなどの探検家が活躍する大航海時代までの約千年間を「中世」と呼び表しています。

クローヴィスがフランク族の族長の子として生まれたのはちょうどこの前後に差し掛かる時期でした。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。