日清戦争10 ・ 真相はいかに? 旅順虐殺事件(前編)

みなさんこんにちは。

当ブログをご覧頂いている歴史好きのみなさんは、旅順(りょじゅん)という街の名を当然ご存知であるかと思います。今回のテーマである日清戦争から10年後のロシアとの日露戦争において、わが日本軍が壮絶な死闘と多大な犠牲の末に、ようやく攻略出来た「旅順要塞」のあった港町ですね。

しかし、この旅順が戦場になったのは、先に述べた後の日露戦争が最初ではありません。この旅順港は前回お話した清国の主力艦隊である「北洋艦隊」の根拠地であり、当然本テーマである日清戦争においても日本軍の主要攻略目標として、ここを守る清軍と激しい戦闘が行われています。

つまり、わが日本軍はこの港町を2回も攻撃しているわけです。しかし、2度目の日露戦争の際は敵ロシア軍が築いた大要塞の前に、大変な犠牲と4ヶ月以上の時間を費やしてやっとの思いで占領した事は良く知られていますが、1回目の日清戦争の時は、たった1日でこの重要な軍港を占領する事に成功しています。これは、当時まだこの旅順が、後の日露戦争の時に比べて要塞化されておらず、清軍の防備が手薄であった事に起因するのですが、実はこの第1回目の旅順攻防戦において、栄光あるわが大日本帝国軍は大変な「不祥事」を引き起こし、あれから120年たった今日においても長く尾を引く大きな禍根を残してしまう事になります。今回はそのあたりのお話です。

1894年(明治27年)9月、日清戦争開戦から1ヶ月あまりが経過し、わが日本軍は陸と海で清軍に対して勝利を続けていました。すでに陸上では、9月末までに日本軍は朝鮮半島から清軍を一掃し、朝鮮国のほぼ全域を占領する事に成功。清・朝国境の鴨緑江(おうりょくこう)を越えて、清本国への進攻を目前に控えていました。また、海上においても、9月中旬の黄海海戦において、日本連合艦隊は清国北洋艦隊に勝利し、大損害を被った清艦隊は本拠地の威海衛(いかいえい)に逃げ込み、黄海の制海権もほぼ日本海軍が掌握していました。

言わば、日本は今次戦争における第1段階の目標をほぼ達成したと言えるでしょう。そして日本軍の次なる目標、すなわち第2段階は、清本国に進攻後、残る清主力軍と大会戦を行ってこれを撃破し、日本の優勢を決定的にした所で講和に持ち込み、速やかに戦争を終結させる事でした。(そうでなければ日本の貧しい国家財政が持たないからです。)その作戦のための足がかりとして日本軍が何としても手に入れなければならなかったのが、清国と朝鮮国の間にあって、黄海の奥の渤海(ぼっかい)にトゲの様に突き出した遼東半島(りょうとうはんとう)であり、その先端に位置する軍港「旅順」でした。


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上の画像1枚目が遼東半島と旅順の位置、そして日本軍の進撃経路で、2枚目と3枚目が現在の旅順の様子です。現在この街は単独の都市ではなく、中国の行政区分上、正式には大連市旅順港区(だいれんしりょじゅんこうく)と言い、つまり大連の一部なのだそうです。この旅順だけの人口はさほど多くはなく、およそ21万ほどです。(この旅順も含めた大連市の人口は600万ほど。)

近年この街は、急速な経済発展による建設ブームにより、3枚目の写真の様に高層住宅が次々に建てられており、街並みが大きく様変わりしつつあります。ここは上の地図でも分かる様に遼東半島の先端に位置する天然の良港であり、現在も中国海軍の重要な基地となっています。(2枚目の写真では中国海軍の艦船が停泊しているのが分かりますね。駆逐艦かフリゲート艦でしょうか。)

ここを手に入れれば、日本軍は大陸進攻作戦のための物資を、日本本土から直接輸送船で大量に運び入れる事が可能になり、これまでの様に馬や人が背負って朝鮮半島を南から北へ運ぶなどという将兵に大きな負担を強いる非効率を大幅にカット出来ます。

そこで日本軍は、この旅順を含む遼東半島一帯の占領を目的として、第1、第2、第6の3個師団およそ5万8千からなる第2軍を編成し、大山巌(おおやま いわお)大将を総司令官として、10月下旬に攻略作戦を開始しました。


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上が第2軍司令官の大山巌大将です。(1842~1916)彼は薩摩出身の陸軍軍人で、陸軍大臣、参謀総長、文部大臣、内大臣などを歴任し、この日清戦争と、後の日露戦争を勝利に導いた功績により元帥号と公爵位を賜り、以前お話した山縣有朋と並ぶ明治最大の元老の一人です。陸軍軍人なので、当然陸軍大臣としての経歴が長い(なんと6回も就任しています。)のですが、山縣と違ってご本人は終生政治権力には無関心で、何度も首相候補として名が挙がりましたが、その都度これを固辞し、生粋の武人としての生涯を全うした人です。(敬意)あの西郷隆盛(1828~1877)とは従兄弟同士で、その容貌から「ガマガエル」などとありがたくないニックネームで呼ばれていたそうですが、ご本人はけろっとしていたそうです。(笑)薩摩出身という事で、当然日頃から独特の薩摩弁(「おいどんは~でごわす。」とか「おはんら~してたもんせ。」「これでよか。」など)で話し、頑固一徹なイメージですが、プライベートでは意外にも大変な西洋好きで(明治維新後のまだ若い頃に4年間もヨーロッパに留学した影響です。)食事もステーキやワインなどの美食に凝り、自宅や別邸などもフランスやドイツの城館を模した豪華絢爛なものだったそうです。またブランド品にも目がなく、特にルイヴィトンなどを好んで買い揃えて楽しんでいた趣味人でした。

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上がその大山将軍のお宅です。下に写る人たちと大きさを比較してください。大山閣下は徹底して洋風にこだわり、この家もドイツの古城を模して建てられたそうです。しかし、残念ながらこの家は大山大将亡き後の1923年(大正12年)関東大震災で倒壊してしまい、現在は残っていません。

大山大将率いる日本軍は、何の抵抗も受けずに遼東半島中央部への上陸に成功し、順調に周辺を征圧。11月上旬には目標の旅順近郊にまで迫ります。この時の清軍の旅順守備兵力はおよそ1万3千、対する日本軍は3万5千余でしたが(他方面の占領維持に兵力を割いたからです。)そのうち純粋な戦闘部隊は2万を超える程度でした。

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上は清軍陣地を占領して記念撮影する第2軍部隊の将兵たちです。

ところで、今回の日清戦争は、これまでお話してきた様に簡単にいえば、日本と清国の朝鮮半島の支配権を巡って起きたものですが、日本側にはそれとは別にもう一つの大きな戦争目的がありました。それは欧米列強諸国に対して、日本が国際法を遵守する近代国家であるという事を「見せ付ける事」です。当時のわが国は、幕末から明治初期にかけて欧米列強諸国に結ばされた「不平等条約」の撤廃を第一の外交目標にしていました。外交とは国と国とが対等の立場で互いを尊重しあう事で成り立つものであり、これが成立して初めて日本は欧米諸国に「いっぱしの国家」として認めてもらえるからです。しかし明治維新からまだ27年余り、今だに欧米諸国の日本に対する見方は、

「東洋の片隅の貧しく遅れた弱小途上国」

でしかありませんでした。そのため彼らは、なかなか日本との不平等条約を改正しようとはせず、当時の明治政府は常に外交面で辛い立場に立たされて来たからです。特に明治政府が目指していたのが、当時の超大国イギリスとの条約改正であり、これが成れば、フランス、ドイツ、アメリカなど他の列強との条約改正もスムーズに運ぶはずでした。そのためには、日本が戦時国際法を遵守する「文明国」として「野蛮国」である清国との戦争に勝利したという実績が必要だったのです。

この日本政府の意向は、陸軍首脳である大山大将も良く承知していました。先に述べた様に西欧への長い留学経験を持つ彼は、陸軍でも最も国際法に通じた将軍であり、1886年(明治18年)に日本が加盟した敵味方を問わず負傷者を保護する「ジュネーブ条約」に則り、

「戦争は国と国との事であり、敵の将兵であっても個人的な遺恨を持ってはならない。彼らもそれぞれ家族があり、我らと変わらない同じ人間である。敵の負傷者に対してはそのつもりで仁義をもって対応する様に。」

とする訓令を発し、麾下の全将兵にそれを印刷した冊子を持たせ、敵の清軍の将兵であっても、負傷者は丁重に保護する事を命じていました。少なくともこの時点では、わが日本軍将兵はそのつもりだったのです。しかし、これはいかにも典型的な「官僚型」のやり方でした。人の心というものは、なかなか理想の様にはいかないのが世の常です。日本政府と大山将軍の意思はその後、思わぬ形で大きく破綻し、彼らは戦争の現実を痛感させられてしまうのです。

それは旅順への進撃中に起きた事です。日本軍は旅順偵察のために偵察隊を出します。そこで清軍と戦闘になり、その部隊は死傷者数十名を出して退却したのですが、問題はその後です。翌日その遺体が、清軍によって首や手足を切断された無残な状態で発見されたのです。この知らせはたちまち全軍に知れ渡り、日本軍将兵の心の中に大きな変化を生じさせてしまったのです。

以前にもお話したのですが、軍隊というものは男同士の友情を極限にまで高めます。所属部隊は違えど、共に命を懸けて戦った戦友たちが敵に無残に殺害された事を知った時のわが将兵の怒りは凄まじいものであった事でしょう。そしてそれは、わが将兵たちの心の中に、敵清軍に対する激しい憎悪と報復心という醜いものを生み出してしまうのです。

この兵たちの心の変化を、総司令官の大山将軍は知る由もありませんでした。そしてそんな大きな問題を抱えた状態の中で、彼は11月20日に旅順攻略作戦を開始してしまいます。早朝から日本軍の攻撃により始まった戦闘は、それ自体は敵清軍がその大半が新兵であった事から戦意に乏しく、旅順の街を取り囲む周囲の山々に築かれた清軍の要塞や砲台は、数時間足らずの戦闘で、同日昼ごろまでに大半があっさり日本軍に占領され、午後には清軍は旅順市街へと退却、もはやこの時点で、旅順の戦いの勝敗は完全に決していました。

日本軍の次なる目標は旅順市内に退却した清軍の掃討です。すでに時刻は日の沈みが早い晩秋の夕方、すでにあたりは暗くなり、夕闇と不気味な静けさが旅順の街を包みつつありました。そして、それはまさに嵐の前の静けさのごとく、これから始まる「血の嵐」の前触れでもありました。

次回に続きます。
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