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日清戦争12 ・ 威海衛の戦いと北洋艦隊の壊滅

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成28年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

1894年(明治27年)11月末、日本軍は遼東半島の最重要拠点である旅順の攻略に成功。遼東半島を完全に支配下に置きました。日清戦争開戦以来、これまでの戦闘は朝鮮半島地域において行われていましたが、この遼東半島は完全な清国領であり、日本軍はついにその清の領土の一部に攻め入り、これをもぎ取る事に成功したのです。

これまでにお話した様に、この遼東半島は日本軍がさらに清領奥深く侵攻するために欠かす事の出来ない足がかりであり、旅順、大連などの港は、そのために必要な武器、弾薬、食糧その他を日本本土から大陸へ輸送する船団を入港させる大事な兵站の基地でもあるのです。

これを受けて、日本政府と大本営は次なる作戦、つまりそのまま清の首都北京の近くまで進撃し、これを迎え撃つべく必ず出て来るであろう清主力軍との一大決戦の準備を始めようとしますが、なかなか思うようにいかないのがこの世の常というものです。というのは、遼東半島と旅順などを占領した時点で季節はもはや12月、大陸の冬の寒さ(大陸の真冬の猛烈な寒さは日本の比ではありません。)が大本営首脳にそれ以上の進撃を思いとどまらせたのです。そこで大本営は、清軍との決戦を翌年の春以降に先送りし、それまで現地軍にはそのまま占領地域を確保しつつ冬を越し、現状待機する事を命じざるを得ませんでした。

もともと開戦当初、大本営は短期決戦を想定していました。しかし、日本海軍が黄海海戦によって清国北洋艦隊を撃破し、制海権を確保出来たのが9月中旬、日本陸軍が清国と朝鮮国の国境を流れる鴨緑江を越え、同時に遼東半島攻略作戦を開始したのが10月末であり、すでに大陸では早くも初冬の寒気が漂っていました。

この時、日本軍は大きく2つの集団に分かれ、清国本土に向けて進撃中でした。一つは朝鮮半島から清軍を撃破しつつ攻め上ってきた山縣有朋大将率いる第1軍(第3、第5師団その他)そしてもう一つは遼東半島中部から上陸し、旅順、大連などの重要軍港を押さえた大山巌大将麾下の第2軍(第1、第2、第6の3個師団)です。(当時、日本の陸軍常備師団は7個師団しかありませんでした。それは第1から第6までの6個師団と、天皇直属の精鋭部隊である近衛師団です。そのため、日本本国に残っていた常備軍のうち、使えるのは取って置きの予備戦力である近衛師団の他は、第4師団のみでした。)

そのうち、第2軍を率いる大山大将は、大本営の指示に従い冬営の準備を始めていましたが、もう一方の第1軍を率いる山縣大将は、来春の清軍との決戦を有利に運ぶため、本格的な冬に入る前にいくつかの戦略拠点を攻略占領する積極攻勢を大本営に打診しました。しかし、大本営は山縣将軍のプランをすべて却下してしまいます。なぜなら大本営としては、来るべき清軍との決戦に備えてその主力となる第1軍に戦力を温存してもらいたかったからです。


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上が第1軍司令官の山縣有朋大将です。(1838~1922)彼の経歴に付いては以前にもお話したので、今回は省かせていただきますが、今次戦争において彼は思わぬ失策を犯す事になってしまいます。

やむなく、山縣将軍は一度はプランを取り下げますが、彼はどうしても諦めきれず、その後も続けて大本営に積極攻勢を打診し続けます。

「このまま何もせず現地で冬を越せだと? こちらの苦労も知らずに簡単に言いおって。それでは敵に反撃の猶予を与えてしまうではないか。実戦を知らんにもほどがあるわ。」

というわけです。彼がそこまで固執したのは、当時清軍がこの方面に続々と援軍を送り、その兵力が第1軍を上回る5万にまで膨れ上がっていたからです。それに、彼には南の第2軍を率いる大山将軍との競争心もありました。2個師団しかない第1軍(およそ4万)よりも、3個師団で兵力が多い薩摩出身の大山将軍率いる第2軍(およそ5万8千)は、前回お話した旅順での不祥事を除き、当初の予定通り順調に遼東半島を制圧していました。このままでは大山に「いいとこ取り」をされてしまうのではないかという焦りが、長州出身の山縣の心の中に沸き起こったのも不思議ではないでしょう。

大本営としても、再三の山縣将軍の打診を無視出来なくなっていました。何と言っても彼は陸軍のトップであり、また政府においても、伊藤博文首相以下多くが彼と同じ長州閥であったからです。そこで大本営は山縣の作戦を事実上黙認してしまうのです。

一方の山縣将軍は、第2軍が11月下旬に遼東半島の旅順を占領したとの知らせを受けると、大本営の了解も得ないうちにほとんど独断で麾下の第1軍を前進させます。目指すは清軍の拠点「海城」(かいじょう)です。


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上が日本軍の進撃経路図です。

しかし、この作戦は明らかに不必要なものでした。日本軍は海城の攻略に成功したものの、すぐに大陸の猛烈な寒波が到来、ろくに防寒装備をしていなかった日本軍は1千名以上の凍傷者を出し、さらに第2軍と違って補給の面で大きなハンディキャップのある第1軍は、占領した海城とその周辺の維持のために身動きが取れなくなってしまったのです。これは完全な山縣の作戦ミスでした。非難は当然強引に事を進めた山縣将軍に集まります。

「前線の司令官が大本営の命に背き、独断で陛下の軍を進めた。これは暴走である。」

大本営は12月に山縣大将の更迭を決定。彼は第1軍司令官を解任されてしまいます。(後任には、平壌の戦いの覇者である第5師団長の野津中将が引き継ぎますが、彼も結局山縣と同じ様に積極攻勢を行い、合計1万2千もの凍傷者を出てしまい、戦闘力を大きく低下させてしまう愚を犯してしまいます。)

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上が「凍傷」にかかった人の指です。この凍傷というのは、皮膚が極度の低温に長時間さらされる事によって生ずる傷害で、心臓から最も遠い手足から生じ、軽度の場合は赤く腫れ上がる程度ですが、何もせずにいると上の写真の様に徐々に黒ずみ、さらに重症になると皮膚の細胞が腐って指や手足を切断するほどになってしまう怖いものです。(これでは兵は銃を撃てませんし、補給を担う荷物運びの軍夫たちも、物を背負って歩く事すら出来ませんね。)

それにしても、なぜ山縣はこの様なミスを犯してしまったのでしょうか? 本来彼は冷静沈着で、綿密な計画の下に事を進めていく官僚タイプの人物です。どうやらこれは彼の体調不良が大きく影響している様です。実はこの時、彼は気管支炎と胃腸炎に悩まされ、本来なら安静にしていなければならない病身にも拘らず作戦指導を行っていたのです。また彼が南国育ちの長州出身である事も災いとなりました。何度も述べた様に、大陸の猛烈な寒さは日本の比ではありません。その厳しい冬の現実を良く知らなかった上に体調の悪い山縣将軍は判断力が鈍り、普段の冷静で的確な状況分析が出来なかった様です。

ともあれ山縣大将は失意の内に帰国しますが、そんな彼を日本では二人の人物が大いに心配していました。一人は明治天皇。そしてもう一人は伊藤博文首相です。前者の明治天皇は、維新以来元老として支え続けてくれた山縣の体調をご本心からお気遣いあそばされ、勅使を遣わしてねぎらいの勅語をお与えになりますが、もう一人の伊藤首相は別の心配をしていました。

それは、このまま彼の病状が悪化して陸軍を辞める事になれば、陸軍が薩摩閥の大山らに乗っ取られてしまうのではないかという懸念です。そこで彼は山縣に「陸軍大臣」のポストを用意し、これまで通り陸軍のトップとして彼にいてもらう事を望んだのです。(もちろん彼も同郷の盟友である山縣を高く評価し、彼の病状を案じていましたが、それと並行して政治家としてのこうした「政略」も必要だったのです。それにしても、解任更迭された軍人が大臣になるなど本来ならあり得ませんね。驚)


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上は言わずと知れた大日本帝国初代首相 伊藤博文公(1841~1909)です。(彼のこの肖像を見て、昭和世代の方なら旧千円札を思い出す方も多いのではないでしょうか。これは自分の勝手な主観ですが、自分は今の千円札よりも、かつての伊藤博文の千円札の方がデザインや色合いが良かったと思います。懐かしいですね。笑)

一方その伊藤首相は、すでに戦争終結後の事を考えていました。なぜなら9月の末に、イギリスから外交ルートを通じ、朝鮮国の独立と、清国が日本に賠償金を支払う事を条件とする日本に有利な形での講和の仲裁をする旨の申し入れがあり、さらに2ヵ月後の11月に、今度はアメリカからも同様の申し出があったからです。(この時、英米両国がこの様な動きに出たのは、もちろん日本に対する親愛の情などからではありません。両国はすでに清国に大きな権益を持っていました。このまま戦争が長引けば、それらに損害が及ぶ事を恐れたのです。)

しかし、外交も戦争も当然の事ながら「相手」のある事です。この場合の相手である清国政府からは、今だ講和の申し入れは来ていませんでした。そのため日本政府は英米両国に対し、清国の方からその申し入れがあるまで(つまり、言葉を代えて言えば「向こうが耐えかねて音を上げてくるまで」という方が正しいかも知れません。)あくまでも戦争を続行すると返答します。

そのための手段として、伊藤首相は大胆な事を目論んでいました。それは今だ威海衛に籠って抵抗を続ける清国北洋艦隊を壊滅させるため、その威海衛を攻略し、これにより清国の海軍力が粉砕された事をもって、さらに南の台湾にも軍を差し向け、これを占領してしまおうというものです。彼がこんな考えを持つに至ったのは、これまでの戦局の展開だけではいくら英米の仲裁があったとしても、清国との講和において日本が欲しいもの(今後清国は朝鮮に一切手は出さない。そして日本に多額の賠償金を支払わせ、新たな領土か権益を獲得する。など)を引き出す事は難しいと考えたからです。(つまり、講和の交渉で日本側が強気に出るには、もっと清国に対して圧倒的な勝利を得る必要があるという事です。)

そこで伊藤首相は、大本営に対して「威海衛と台湾攻略」の意見書を提出します。一方軍においても、彼と同じ事を考えていた人物がいました。それは遼東半島攻略に当たった第2軍司令官大山巌大将です。大山将軍は黄海海戦で北洋艦隊に勝利した連合艦隊司令長官伊東祐亨(いとう すけゆき)中将と協議し、大本営に威海衛攻略とその必要性を提起します。そして政府と軍のトップの一致に、大本営は12月中旬、ついに威海衛攻略作戦を決意する事になるのです。

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上が第2軍司令官大山巌大将です。(1842~1916)

こうして1895年(明治28年)1月20日、日本軍は威海衛攻略作戦を開始しました。兵力は大山大将率いる第2、第6の2個師団およそ4万余りで、これを輸送船団に分乗させ、連合艦隊の護衛のもとに威海衛に上陸作戦を開始します。


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上の画像1枚目と2枚目が当時の威海衛の姿です。多くの清国艦船が停泊していますね。ここは先に述べた様に、清国北洋艦隊の本拠地であり、黄海海戦で敗れた丁汝昌(てい じょしょう)提督率いる残存艦隊14隻が、強力な要塞に守られつつ立て篭もっていました。そして3枚目は現在の姿です。現在この街は「山東省威海市」と呼ばれ、人口250万を擁する中国では中級(日本なら、人口100万を超える都市は政令指定都市に指定される大都市ですが、人口がわが国の10倍以上の中国ではこの程度の人口の都市で中級なのです。)都市です。現在も中国海軍の重要な基地であり、また高層ビルが立ち並ぶ近代都市となっています。

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そして上が威海衛の位置と、日本軍の攻略進路です。

この威海衛の街は旅順同様に、莫大な費用と10年以上の歳月をかけて、海岸沿いに大小合わせて160門以上の大砲が設置された巨大な要塞都市に変貌しており、さらに清軍は、鎖と丸太を編んだ防柵を湾の端から端まで繋ぎ(上の図参照)日本艦隊の侵入を塞いでいました。丁汝昌提督率いる北洋艦隊の残存艦艇は、この湾の奥にじっとひそんでいたのです。

しかし、この威海衛には大きな弱点がありました。それは旅順と違って防御の重点が海岸沿いのみに集中しており、背面の陸側はほとんど無防備であったからです。そこで日本軍は清軍の裏をかき、陸上から攻撃して威海衛の要塞を占領し、防柵によって湾内に閉じ込められている北洋艦隊を挟み撃ちにする作戦を立てます。

1月20日、2個師団からなる日本軍はそれぞれ二手に分かれて上陸、進撃を開始します。海側から艦隊で攻め寄せてくるだろうと思い込んでいた清軍は完全に虚を衝かれ、清兵に動揺が広がりますが、元は陸軍出身であった歴戦の清軍司令官 丁汝昌提督はあくまで冷静でした。そして彼は思わぬ反撃で日本軍を迎え撃ちます。彼は自らが率いる北洋艦隊の強力な主砲にものを言わせ、湾内から陸上の日本軍を砲撃したのです。

大砲というものは陸軍の持つ野砲や山砲よりも、軍艦の主砲の方がはるかに有効射程距離が長く、正確な射撃が出来ます。そのうえ大口径の巨大な砲弾で、その破壊力はすさまじいものです。この清艦隊の艦砲射撃に、日本軍は200名以上の死傷者を出し、戦闘はたった一日で勝敗が決した旅順と違って2週間近く続きましたが、日本軍はじりじりと一つづつ清軍の陸上砲台を攻め取り、ついに2月2日、湾内に浮かぶ劉公島の砲台を除く全ての要塞の奪取に成功しました。

しかし、それでも丁汝昌提督は降伏しませんでした。彼は手持ちの砲弾が尽きるまで果敢に陸上の日本軍に砲撃を浴びせ続け、日本軍を大いに悩ませます。これに対し、陸軍では対応出来ないと考えた大山大将は「艦隊には艦隊で」という事で、連合艦隊の伊東長官に援護を要請。伊東長官はこれを受け、翌日海上から砲撃を開始します。防柵によって湾内を出られない清艦隊は狭い湾内で身動きが取れず、雨あられと降り注ぐ日本艦隊の砲弾の水柱に、一隻また一隻と直撃弾を浴び、次々に沈められていきます。

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上が連合艦隊司令長官 伊東祐亨中将です。(1843~1914)

伊東長官はさらに決定的な打撃を与えるため、魚雷攻撃を仕掛ける水雷艇部隊を湾内に突入させます。わが水雷艇部隊は長く威海衛湾を塞いできた防柵を打ち破り、湾内で得意の雷撃を清艦隊に仕掛けて縦横無尽に暴れ周り、丁汝昌提督の旗艦「定遠」を撃沈、その他の艦艇もほとんど撃沈され、東洋最大を誇った北洋艦隊は壊滅しました。

艦隊の壊滅は、今だ抗戦を続けていた清軍をいっきに総崩れにさせてしまいます。これを見た丁汝昌提督は、もはやこれまでと上官である北洋大臣 李鴻章に次の様に打電しました。

「お預かりした艦艇の全てを失い、多くの兵を死なせ、それでも戦い続ける事を命じましたが、配下の者たちは狼狽して戦意を完全に喪失してしまい、もう自分にはどうする事も出来ません。」


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上が北洋艦隊司令長官 丁汝昌提督です。(1836~1895)

日本軍は敵将丁汝昌提督に対し、無駄な抵抗をやめて速やかに降伏する様勧告します。この時、日本軍は彼が艦隊司令である事から、陸軍の大山大将ではなく、同じ艦隊司令として黄海海戦で彼を敗った伊東長官を通じて降伏勧告を発します。同じ海の男としてそれを察した丁汝昌提督は、配下の将兵の助命を条件についに降伏に応じ、2月12日、威海衛の戦いはここに終わりを告げました。

しかし、ここで日本軍が思いもよらないハプニングが起きてしまいます。なんと敵の総司令官 丁汝昌提督が敗北の全責任を負って服毒自殺してしまったのです。彼だけではありません。彼ともに最後まで付き従って戦った旗艦定遠の艦長と、陸上部隊の指揮官までも後を追って自殺してしまいます。これには、日本軍も驚きを隠せませんでした。なぜなら、これまでの戦闘で、清の軍人たちは常に逃げてばかりで、日本軍はすっかり清軍を嘲る様になっていたのです。しかし、彼らの最後はまさに「武士道の鑑」であり、これを知った伊東長官は、

「敵ながら最後まで戦い抜き、見事な本懐を遂げられた。」

として彼らの遺体を丁重に扱うよう命じ、湾内に残る使える船は全て鹵獲したものの、その中の一隻の貨物船を鹵獲から解き、降伏した清兵らとともに清本国に送り返したそうです。


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上は降伏に伴い武装解除され、捕虜として連行される清軍将兵たちです。周囲を日本軍が警備していますが、両者の間には戦いが終わって緊張が解けた解放感が感じられます。彼ら清兵たちおよそ1千名は、伊東長官の図らいで全員解放されました。(まさに武士の情けですね。この戦いによる両者の損害は、日本軍の死傷者およそ260名に対し、清軍は多くの将兵が軍艦内にいたために日本艦隊の砲撃で艦とともに沈み、なんと4千名に達したそうです。)

一方、威海衛の戦いの敗北と北洋艦隊壊滅の知らせは、清の都北京にも早々に届いていました。これを知った皇帝光緒帝は激怒し、丁汝昌提督の財産没収と葬儀の禁止を言い渡し、彼の上官である李鴻章を北洋大臣の職から解任してしまいます。光緒帝には、そんな事をするくらいしか怒りのやり場がなかったのです。そして、普段は温厚な皇帝のそんな姿を見た清朝宮廷の人々の間には、悲壮感と清王朝の将来への深い絶望感が広がる事になって行きます。

次回に続きます
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