日清戦争13 ・ 下関条約 テーブルの上の戦争

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)2月、日本軍は大清帝国北洋艦隊の本拠地、威海衛の攻略に成功しました。この戦いで日本軍は、軍港内に立て篭もる北洋艦隊を全滅させ、要塞とともにこれを陥落させたのです。この勝利によって、日本は名実ともに黄海から東シナ海に至る清国沿岸の制海権を完全に手中に収め、陸上ではすでに清軍を追い出して支配下に置いている朝鮮半島と、さらには清国領土である遼東半島を攻め取り、残る目標は満州において、清の主力軍に一大決戦を挑んでこれを撃破し、その勢いをもって清の都北京にまで進撃し、清朝政府に講和を迫る事でした。

そのために日本軍は、当時の日本が持っていた陸軍常備兵力7個師団のうち、すでに大陸に派遣している遠征軍5個師団に、日本本国に残る2個師団(第4師団と近衛師団)を加えて増強、さらにそれだけでは足りないので、新たに1個師団を臨時編成し(その主力となるのは北海道の開拓で有名な「屯田兵」です。これが後の旭川第7師団となります。ただしこの師団はこの日清戦争時点ではあくまで臨時編成でした。)その他にこれまでに占領した地域の確保のために、予備役を主力とする40個大隊(およそ2万5千)をかき集め(これらは占領した各地にバラバラに分散配置されるため、「師団」などの単位ではありません。)総勢20万に達する大軍を動員する計画でした。

つまり、これにより日本はその陸軍兵力の全てを遠征させるわけで、日本本国には陸軍が全くいなくなってしまう事になります。しかし、実際には海軍にも陸上戦闘を任務とする「陸戦隊」があり、日本列島の沿岸各所に建設されていた要塞や砲台に数多くの海軍陸戦隊が配置されていたので、これを本土防衛軍とする事で当座はしのぐ予定でした。

一方、清国はこの時どうしていたのでしょうか? 実はこの時点において、清朝政府では日本と早期講和を策する和平派が大勢を占めつつありました。無理もありません。陸上では朝鮮半島と遼東半島を日本に奪われ、さらに海上ではその海軍の主力である北洋艦隊を全滅させられ、もはや清国には迫り来る日本軍から首都北京を守る最後の手段として、戦えば逃げてばかりで当てにならない寄せ集めの私兵集団に過ぎない清軍に首都の防衛を委ね、その挙げ句にまたも敗れて首都を日本軍に蹂躙されるよりも、日本への領土の割譲と賠償金の支払いを含めた講和に応じる選択肢しかなかったのです。


1164682406_3162.jpg

上は大清帝国歴代皇帝の居城であり、清王朝宮廷の中心であった紫禁城です。(「しきんじょう」 その名の由来は古代中国の天文学で、天空における中心の星である北極星を天帝の住む紫微星「しびせい」と称し、地上においてその天帝の化身である皇帝の住む宮殿「紫宮」と、庶民の自由出入りを禁じられた城「禁城」を合わせた造語だそうです。)

これは元々は元王朝の初代皇帝クビライ・ハン(1215~1294)がここを都と定めて宮殿を築いたものを、元滅亡後に中国を再統一した明王朝、さらにそれを征服した清王朝が受け継いでいったもので、当然世界遺産に登録されています。中国関連のニュース(といってもその大半が、わが国にとって常に不愉快かつろくなものではありませんが。呆)で必ず出て来るのでみなさんも良く目にされた事があると思います。正面の正門に掲げられたあの忌まわしい毛沢東の肖像と「中華人民共和国万歳云々」と書かれた悪趣味な看板が早く撤去される日が来ればいいですね。

これまでお話してきた様に、当時の清国の政治、外交、軍事の実務レベルの最高責任者は北洋大臣 李鴻章(り こうしょう)という人でした。


4739d033t78f397121e9a690.jpg

上がその李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴に付いてはこれまで何度かお話してきたのでここでは省略させていただきますが、清王朝と西洋化のために人生を捧げた敵ながら立派な政治家であると思います。しかし清国の西洋化を推し進めた彼自身は、一度も洋服に袖を通した事は無く、上の写真の様にかたくなに中国伝統の服装を貫き通しました。古い時代と新しい時代の過渡期にあって、こうした保守的な所が彼の限界であったのでしょうか?

彼は中国で最も経済的に豊かな南部一帯を治める総督として、そこから上がる莫大な収入を財源に、清朝で最大の北洋陸海軍閥を作り上げ、その総帥として日本との戦いを取り仕切った事実上の責任者であり、今次戦争は日清戦争といいながら、わが国が実際に戦ったのは清国というより、ほとんど彼とその私兵集団である北洋軍でした。

しかし、その北洋軍も、兵力こそ30万に達する大軍でしたが、それは先に述べた様に李鴻章に金で雇われた「傭兵」に近いもので、国家国民のために命を懸けて戦う国軍とはとても呼べないものでした。そのため彼らは日本軍との戦闘で状況が不利になるとすぐに退却してしまい、一度も勝つ事が出来ずに敗退を繰り返していました。

こうした清軍の軍隊としての根本的かつ構造的な欠陥により、清国は陸上海上両面で日本軍に敗れ続け、その批判は当然李鴻章大臣に集まります。そして威海衛の戦いで東洋最大最強を誇った北洋艦隊が全滅すると、清朝11代皇帝光緒帝(こうしょてい)は激怒し、ついに李鴻章を北洋大臣から解任してしまいます。

実は光緒帝は、威海衛の戦いより2ヶ月前の旅順陥落直後から、すでに李鴻章以外の別の廷臣を選んで日本との講和交渉に当たる様指示していました。しかし、来日した彼らは伊藤首相ら日本政府から相手にされず、ほとんど門前払いされてしまいます。その理由はネームバリューと全権委任の問題です。つまり日本政府としては、清国の事実上の「首相」にして、その政治、外交、軍事の権限と圧倒的な知名度のある李鴻章と交渉したいのであり、彼でなければ他の無名の清の役人では信用出来なかったのです。

帰国した彼らから報告を受けた光緒帝と側近たちは進退窮まってしまい、結局一旦解任した李鴻章を天津から呼び戻し、御前会議を開いて今後の方針を議論する事になりました。議題はもちろん日本との戦争についてです。主戦派は北京から遷都してでも徹底抗戦すべきと主張し、和平派は今のうちに講和して態勢を立て直すべきと訴え、議論は紛糾しますが、会議の流れを決めたのは李鴻章でした。

「陛下。この期に及んでは領土の割譲も致し方ございませぬ。何とぞ臣にその大役をお申し付け下さいます事をご進言申し上げます。」

皇帝もそれには賛成でした。なんといっても今の清軍では戦っても勝てる見込みが無いのです。しかし、光緒帝は一旦李鴻章を北洋大臣から解任しており、これを取り下げて李鴻章を復職させては皇帝のメンツが立ちません。そこで皇帝の意を察した李鴻章は自分を新たに「欽差大臣」(きんさだいじん これは清王朝の一種の特命大臣で、ただ一つの特定の事案に限って全権を持つ官職です。)にするよう上奏し、こうして彼は皇帝から全権を委任され、100名以上の大使節団を率いて1895年(明治28年)3月20日、山口県下関に入港、日本側全権の伊藤博文首相らと旅館「春帆楼」(しゅんぱんろう)で講和交渉が開始されました。


200711292016344613348.jpg

imageCall.jpg

4IxUdP.jpg

上が日清講和交渉の舞台となった旅館「春帆楼」です。この旅館は伊藤博文が命名して開業されたもので、日本で最初のふぐ料理第一号店でもあるそうです。旅館内には日清講和条約の際に使われた部屋とテーブル、椅子や調度品などが大切に保存展示され、現在も見学出来ます。

さて、ここから伊藤博文と李鴻章の高度な政治的駆け引きが始まります。それはまさに武器を用いない「テーブルの上の戦争」でした。李鴻章大臣はまず、講和交渉の前に「休戦条約」を結ぶ事を日本側に提起します。彼はこう切り出しました。

「これ以上の戦闘は両国の人民に無益な犠牲を強いるだけです。われわれがここで講和の儀を決するまで、一時休戦する事に致しませんか?」

これはもちろん彼の本心から発せられたものですが、その裏にはこれ以上の日本軍の進撃を阻止する事と、休戦の間に欧米列強諸国に手を回して日本に揺さぶりをかけるための時間稼ぎをするという狙いがありました。

しかし、わが伊藤首相もしたたかさでは決して引けを取りません。彼は李大臣の狙いを見抜いていました。そこで彼は李大臣にこう告げます。

「貴方のおっしゃる事はごもっともです。しかし、もしわが軍が休戦しても、貴国の軍がそれを破らないという保証はどこにありますか? もしどうしても休戦したいとおっしゃられるならば、貴国の軍がわが軍に対して戦端を開かない事の証として、天津を占領させて頂くが、いかがか?」

これには李鴻章も驚きました。なぜなら天津は清国最大の港湾都市であり、そして何より彼の本拠地であったからです。その様な事を認められようはずがありません。すぐに彼は、これが日本側の事実上の「休戦拒否」であると察し、これを取り下げざるを得ませんでした。

しかし、ここで思わぬハプニングが起こります。交渉開始から4日後の3月24日、なんと李鴻章大臣が、講和に反対する日本の若い警官に拳銃で狙撃され、危うく暗殺されそうになったのです。弾丸は彼の左目下に命中しましたが、驚くべき事に彼は一命をとりとめ、講和交渉は一時中断を余儀なくされます。(頭なら当然即死だったでしょう。それにしても、顔面に銃弾を受けて良く死なないものだと思われるでしょうが、実際顔に銃弾を受けても意外に死ななかった例は、戦場で戦う兵士にも歴史上多く見られる様です。その代わり顔面に大きな傷として残りますけどね。ちなみに亡くなる直前の李鴻章の写真にも、左目の下にこの時の傷が残っているのが見受けられます。)

ところで、これに焦ったのが明治天皇と伊藤博文ら日本政府です。この暗殺未遂事件が完全に日本側に非がある事は子供にも分かる事です。もしこれが大々的に報じられれば、以前お話した「旅順虐殺事件」の時の様に、欧米列強諸国の日本への批判が再び再燃してしまうでしょう。特に明治天皇は李鴻章の負傷を大変お気遣いあそばされ、当時の日本で最高の外科医であった佐藤進(さとう すすむ)陸軍軍医総監を李大臣の治療に差し向けられ、その甲斐あって李鴻章大臣は2週間後には再び講和交渉の場に復帰する事が出来ました。

この事件は当時の日本国民の間でも「とても申し訳ない。」として、全国から李大臣に当ててお見舞いの品や手紙が数多く寄せられますが、これが思わぬ形で李鴻章に有利に働きます。なぜなら、こうした国内世論と諸外国との対外関係に配慮し、伊藤首相は先に李鴻章が提案した「休戦条約」を認めざるを得なくなってしまったからです。休戦は3週間の期限付きで結ばれ、ここに日清両軍の戦闘状態は事実上終結しますが、伊藤首相はそれまで自分のペースで進んでいた交渉が、全く思いがけない形で譲歩するはめになってしまい、さぞ慌てた事でしょうね。(笑)

さて、日本と清国のテーブルの上の戦争は続きます。4月10日から再び開始された講和交渉において、伊藤首相は李鴻章に厳しい講和条件を突きつけました。特に賠償金の額が莫大で、なんと日本側は軍事賠償金として庫平銀3億両(これは両「りょう」または「テール」と読みます。)を要求したのです。

これには李鴻章も「あまりにも多すぎる。」として、伊藤首相に賠償金の減額と、領土割譲の縮小を求める修正案を提示、それに対して伊藤首相は賠償金を3億両から2億両に減額する事と、領土割譲の縮小には応じたものの、基本的な内容は一歩も譲りませんでした。


268dbd428cef365c413e886cf473e3d2_convert_20160130195210.jpg

上が日清講和交渉の様子です。伊藤首相と陸奥宗光外相が李鴻章ら清国代表と話し合う姿を描いたものです。

peco_peco_berry-img600x450-1446189227jcgnsv22013.jpg

そして上が賠償金として要求された庫平銀(こへいぎん)です。これは「庫平」と呼ばれる天秤で重さを量った事から名付けられた清朝時代の銀貨です。ちなみに先に述べた両(テール)とは、私たちが一般に使う「円」や「ドル」の様な通貨の単位ではなく、尺貫法による重さの単位であり、この時代の1テールはおよそ37グラムほどであった様です。

李鴻章は北京の清朝政府と電信で連絡を取りながら、イギリス、ロシア、フランスなどの列国に調停を依頼して交渉の引き延ばしを図ろうとします。しかし、そうはさせるものかと伊藤首相は交渉を一気に決着させるべく、最後の切り札を切りました。

「本件については1週間以内に回答されよ。 もし、交渉決裂の際はわが軍は休戦を破棄して再び戦闘を開始し、北京に進攻する。」

そしてそれが単なる言葉だけのものではない事を清国側に見せつけるために、冒頭でお話した第4師団と近衛師団などの増援軍を乗せた輸送船団に下関海峡を通過させたのです。これはもはや完全な「脅し」でした。しかし、彼にはそこまでしなくてはならない差し迫った事情がありました。なぜなら日清開戦からすでに8ヶ月余りが経過し、膨らむ臨時軍事費が当時の日本の国家財政を圧迫していたからです。

そう、清国が苦しいのと同様に日本もこれ以上戦争を続けるのは辛いのです。そのため、伊藤首相はなんとしても戦争に投じた莫大な国費を回収するのは当然として、それを上回る大きな利益を出さなくてはなりませんでした。そうでなければ戦争をした意味が無いのです。

一方、大陸へ渡る援軍を乗せた日本の輸送船団を海峡で目撃した李鴻章ら清国代表団は、北京の清朝政府に電信で危機を報告します。それを受け、かつてイギリスとのアヘン戦争での惨敗の記憶から震え上がった清朝政府は、ここに至ってついに講和条件を受け入れ、交渉を直ちに締結するよう指示、そして1895年(明治28年)4月17日、両国の間で合意が成立し、ようやく日清講和条約が締結される事になりました。この時締結された条約の主な内容は以下の様なものです。

1 清国は朝鮮国の独立を承認する事。

2 清国は日本に対して遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲する事。

3 軍事賠償金として庫平銀2億両(当時の日本円でおよそ3億1100万円)を支払う事。

4 清国が欧米各国と結んでいる条約を日本とも締結し、日本に対して欧米各国と同様の通商特権を与える事。

5 条約批准後3ヶ月以内に日本軍は占領地から撤退するが、清国が誠実に条約を履行するまで威海衛を占領する事。

などです。

こうして日清戦争は終結したのです。それは当時世界中が誰も予想もしなかった日本の圧勝でした。 しかし、この日本の勝利を快く思わない巨大な存在がその後の日本に大きく立ちふさがり、事態は日本の予想外の方向に向かって動いていく事になります。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR