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日清戦争14 ・ 三国干渉 お金とメンツとロシアの脅威

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)4月、山口県下関市において行われた日本と清国の講和交渉は、清国が日本に多額の賠償金と、領土の一部を割譲するという条件で双方が合意し、締結されました。これにより、開戦から約8ヶ月余り続いた日清戦争は日本の完全な勝利で幕を閉じる事になったのです。

歴史を見れば、一般に戦争の終わり方は大きく三つあります。一つ目は休戦によるもの。これは文字通り交戦状態にある国同士が、諸般の事情から一時的にあるいは長期的に戦闘を休止するが、いざとなればいつでも戦闘を再開するというもので、戦争の勝敗がまだ着いていないものです。(朝鮮戦争などがその例ですね。)二つ目は敵国を降伏させる事によるもの。これは完全に戦争の勝敗がはっきりしているので、最も分かりやすいオーソドックスなものでしょう。(言わずと知れた第2次世界大戦がその例ですね。)そして三つ目は、今回の様に交戦国同士が交渉によりいくつかの約束事を取り決め、双方合意の上で条約を結ぶという形にするものです。(この日清戦争は日本の勝利で幕を閉じていますが、戦争の勝敗が着かなくても講和した例は歴史上数多くあります。)

この日清講和条約でわが国が清国から得た主なものは、前回もお話した様に賠償金として銀貨で2億両(テール)と、台湾、遼東半島その他の清国領土の割譲、朝鮮国の独立の承認、清国が欧米列強諸国と結んでいるものと同様の条約に基づいた通商特権などで、まさに日本は清国から取るものを全て取る事が出来たと言えるでしょう。

しかし、この日本の一方的な大勝利を快く思わない巨大な存在が、戦勝に浮かれるわが国の前に立ち塞がります。それは北方の大国ロマノフ朝ロシア帝国です。ロシアは日清戦争開戦前から極東における日本の勢力拡大を懸念し、同じく極東地域に利権を持つイギリスと協調して日清戦争の早期講和を図って裏で動いていました。


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上が当時のロシア帝国の支配者であった皇帝ニコライ2世です。(1868~1917)彼はロシア帝国第2王朝ロマノフ朝14代皇帝にして、同時に最後の皇帝でもあり、またロシア革命によって愛する家族とともに非業の最期を遂げた悲劇の皇帝として広く知られていますね。いずれ当ブログでも別のテーマを設けて詳しくお話したいと思います。また下の画像は彼の王家ロマノフ家の紋章である「双頭の鷲」です。この双頭の鷲はそもそも古代ローマ帝国皇帝の紋章であり、ロマノフ家はその正統な後継国家であるビザンツ帝国(東ローマ帝国)の最後の皇帝家であったパレオロガス家から皇妃を迎えた事から、自らをローマ皇帝の正統な後継者であると主張していました。ちなみになぜ鷲の首が二つあるのかというと、それぞれが東(アジア)と西(ヨーロッパ)の大陸を征する者、すなわち世界の支配者である皇帝を表現しているからです。

ロシアは下関での日清講和会議開催期間中に、清国から日本の講和条件の内容を知らされ、特にその中に遼東半島の割譲が入っているのを知るや、ドイツ、フランスを味方に引き入れてその遼東半島を放棄する事を日本に勧告する動きに出て来ました。では、なぜロシアはそれほどまでに日本の遼東半島獲得を嫌がったのでしょうか?


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それはロシアが海の出口を求めていたのがその理由です。上は当時のロシア帝国の領域図ですが、濃い緑の部分が領土、それ以外がロシアが影響を及ぼし、あるいは及ぼそうとしていた地域です。(この地図ではアラスカまで入っていますが、実は現在アメリカ領のアラスカは、1867年までロシア領でした。しかし当時勃発していたオスマン帝国とのクリミア戦争での戦費調達のために、あまり実益の無い最辺境のこの地をアメリカに売却したのです。)これをご覧になればお分かりの様に、ロシアという国は世界最大の閉じ込められた大国なのです。ロシアという国が、冬は凍てつく猛烈に寒い国である事は言うまでもなく、また、そのロシアが冬でも凍らない港すなわち「不凍港」を求めて南下し、周辺国と戦争を繰り返して来た事実は歴史好きの方ならば良くご存知でしょう。

しかし、はるか西のヨーロッパ側には列強がひしめき合い、とてもそれ以上ロシアが進出する事は出来ませんでした。そこでロシアが目を向けたのがはるか東の極東地域です。ヨーロッパ方面と違ってさしたる強力な敵がおらず、貧しく未開の地が多かった極東に、ロシアは新天地と新たな植民地獲得を目論む様になっていきます。その第一目標としてロシアが狙っていたのが日本が獲得しようとしていた遼東半島でした。

ところが、この時これまで協調してきたイギリスが、日本への干渉を拒否して離脱しまいます。なぜならイギリスは日本との対立を招くその案を好まず、それに日本の講和条件が、特にイギリスが清国に対して持っていた利権を阻害するものでもなかった事からです。

このイギリスの「裏切り」に、ロシア政府内部ではこのまま日本へ遼東半島放棄を勧告すべきかジレンマに陥ってしまいました。そこでロシア帝国政府は皇帝臨席の下に特別会議を開いて対応を協議します。会議ではこの案を取りやめるべきだとの少数意見もあったものの、大多数の重臣たちが賛成していました。その中で特に強硬な意見を主張したのが時の大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテ伯爵です。


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上が当時のロシア帝国大蔵大臣セルゲイ・ヴィッテ伯爵です。(1849~1915)彼はニコライ2世の父である先帝アレクサンドル3世に登用されて頭角を現し、43歳の若さで帝国の財政を預かる大蔵大臣に就任していました。(ちなみに彼の名は英語読みでは「ウィッテ」となります。)後の日露戦争終結を取り決めたポーツマス講和会議でも、ロシア側の主席全権代表としてわが日本を悩ませる事になる手強い相手です。(苦笑)

「陛下。このままではわが帝国がかねてから計画してきた極東支配の夢を絶たれてしまいますぞ。その前に先手を打ち、日本から遼東半島を取り上げてしまうべきです。もし日本がこれを拒むならばマンチューリア(満州)に兵を送り、力ずくでも日本から奪い取る事をご進言いたします。」

ヴィッテ蔵相のこの強硬意見に、列席する重臣や軍人たちもことごとく賛同し、皇帝ニコライ2世はやむなく日本への遼東半島放棄勧告を裁可せざるを得ませんでした。実はこの時、皇帝ニコライは即位してまだ半年であり(彼が先帝アレクサンドル3世の崩御に伴い急遽即位したのは日清戦争最中の1894年(明治27年)11月の事であり、まだ正式な戴冠式も済ませていませんでした。)皇帝になって間もない27歳の若いニコライ2世は、ヴィッテを始めとする父帝の重臣たちに頭が上がらなかったのです。

こうして下関条約締結からわずか1週間後の1895年(明治28年)4月23日、ロシア、ドイツ、フランス三カ国による日本への遼東半島放棄が勧告される事になります。これが世に言う「三国干渉」です。

「日本による遼東半島領有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなるものである。従ってロシア帝国、ドイツ帝国、フランス共和国は、日本帝国に対して遼東半島領有の放棄を勧告する。」

これに対し、伊藤博文首相率いるわが日本政府は主要閣僚を集めて対応を協議します。その結果、勧告は断固拒否し、露仏独三カ国に干渉の撤回を求める事が決められました。しかし、相手は列強三カ国です。とても日本一国では太刀打ち出来ません。そこで日本政府はもう一方の列強であるイギリス、アメリカ、イタリアの三カ国に援助の要請を図り、またドイツをこちらの味方に引き入れ、ロシア陣営を切り崩そうと画策します。しかし、この日本の目論みは残念ながら実を結びませんでした。なぜならイギリスもアメリカも中立を盾に動こうとはせず、イタリアは元より数合わせで頼りにならず、結局ロシアら三カ国の要求を受け入れざるを得ない状況になってしまったからです。

「多勢に無勢」とはまさにこの時のわが国の事でしょう。やむなく5月4日、日本政府は三国の要求を受諾し、清国に遼東半島を返還する事に決しました。しかし、明治日本の政治家たちは今のふがいない(失敬。笑)日本の政治家と違ってはるかに豪胆かつしたたかでした。日本は力の差から、列強三カ国には譲歩しましたが、清国に対しては一歩も譲る理由はありません。そこで日本政府は遼東半島を清国に返還する代償として、その還付金3千万両(テール)を清国政府に要求してこれを認めさせ(清国にしてみれば拒否出来る立場ではありませんでしたが。)先の講和条約で取り決めた内容を修正した条約を新たに清国との間で結んだのです。


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上がこの時返還された(というより「返還させられた」という方が正しいでしょうね。)遼東半島の位置です。これにより日本が清国から得た領土は、台湾とその近くの小さな島々だけになりました。

ともあれ、これで日清戦争は両国政府間の合意の下に正式に終わりを迎える事になりました。さて、この戦争でわが国が清国から得たものは、先に述べた台湾などの領土以外に最も注目すべきものがありました。それは何といっても巨額の賠償金です。では、この時に日本が得た賠償金とは、一体どれくらいの金額だったのでしょうか?

これについては前回の下関講和会議でお話した様に、軍事賠償金2億両(テール)という数字が、歴史好きな方には良く知られていると思います。この両(テール)という単位は前回もお話した様に、円やドルなどの通貨の単位ではなく尺貫法による重さを表す単位であり、1テールは約37.3グラムになり、これに基づいて換算した金額は当時の日本円でおよそ3億1100万円に相当します。これに、上で述べた遼東半島返還の還付金3千万両(テール)日本円でおよそ4600万円が加わり、合計2億3千万両(テール)約3億5700万円になります。

といってもピンと来ない方も多いでしょう(笑)ちなみに日清戦争開戦直前の日本の年間国家予算がおよそ8500万円程度であったそうですから、なんと4倍以上ですね。これを現在のわが国の国家予算の一般会計(およそ96兆円ほど)に合わせて想像すると、およそ400兆円余りという大変な金額になります。(もちろん単純な数字上の比較です。)

この莫大な賠償金を、日本は清国に庫平銀(こへいぎん)と呼ばれる清国で流通していた銀貨で要求しました。なぜなら当時清国には紙のお金すなわち「紙幣」というものはなく、銀貨で決済をしていたからです。これを重さに表すと、なんとおよそ8575トンの銀塊になります。(ちなみに現在の銀の市場価格は1グラムあたり大体60円前後の様です。これで計算すると、この時に日本が受け取った賠償金は現在の価値では514億円余りになりますね。但し、当然の事ながら当時と現在では銀の市場価格も貨幣価値そのものも全く違いますから、単純な比較は困難です。その点を踏まえてご了承ください。笑)しかし、日本は賠償金を清国にその銀貨でそのまま支払えと要求したのではありません。つまり

「貴国で発行している庫平銀2億3千万両(テール)に相当する金額を賠償金として要求する。」

という意味で言ったのです。(清国でしか通用しない銀貨で支払われても、日本はもちろん外国でも換金するのは困難ですからね。)ですから実際には後述する様に別のやり方でお金の受け渡しが行われています。

一方、それを支払う清国の苦労は尋常なものではありませんでした。この講和によって清国が日本に支払う賠償金は2億3千万両(テール)それに対して当時の清国の年間国家予算はおよそ1億両(テール)ほどに過ぎず(当時の日本円でおよそ1億5千万円余り)当然一度にこれを支払う事など出来るはずがありません。そこで清国は、これを先の三国干渉に登場したロシア、フランス、ドイツ、イギリスなどの列強諸国から借金し、8回の分割払いで数年かけてイギリスのポンド金貨で支払う事で日本側と合意します。


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上は当時の大英帝国の支配者ビクトリア女王(1819~1901)の5ポンド金貨です。彼女の在位は63年に及ぶ長期であったため、その期間中に様々な種類の金貨が発行されています。

当時世界の金融の中心地は、世界中に植民地を持つイギリスのロンドンでした。そしてそのイギリスの通貨である「ポンド」こそ、この時代世界中で通用する国際通貨であったからです。そのロンドンには列強諸国の銀行が軒を連ね、清国はこれらと借款契約を結んで資金を調達する事になります。しかし、なんの見返り(つまり担保)もなしにこれだけの莫大なお金を貸すほど列国も甘くはありません。そこで各国はそれぞれ個別に清国にそれに見合う利権を要求します。といっても、この時の清国にはもはや自国の領土を切り売りするしか他に担保として提供出来るものはありませんでした。お金を借りる弱い立場の清国は、もうかつての大国としてのメンツにこだわっている余裕はなく、意地もプライドもかなぐり捨ててヨーロッパ列強諸国に頼るしかなかったのです。


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上はこの時に清国が、借金の型に列強諸国に「無償賃貸」した地域です。列強諸国はそれぞれに欲しい地域を「租借」という形で借り受け、さながら自国の植民地同様好き放題に利権を貪り、それを守るためと称して軍を駐留させ、鉄道を敷設し、砲台や要塞を建設していきました。その代表的なものが、後の日露戦争でロシアが築いた「旅順要塞」や南満州鉄道です。

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そして上が、この列強諸国による中国分割を描いた絵です。中国という「パイ」のどの部分を、いかにして多く自分が切り取るか、睨み合いつつ群がる各国の姿です。(日本とフランス以外はそれぞれ当時の有名人がそのまま描かれていますね。左からイギリスのビクトリア女王、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世です。)

学生時代の歴史の授業などでは、「眠れる獅子」と呼ばれて恐れられていた清国が、日本という極東の島国との戦争で敗れ、その混乱と弱みに付け込んだヨーロッパ列強諸国によって半植民地化されたかの様に説明されていますが(結果的にはそうですが。)その背景には、こうしたお金にまつわる深い事情があったのです。

次回に続きます。


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