クローヴィス1世とメロヴィング王朝 2

みなさんこんにちは。

ローマ時代末期の4世紀後半、アッティラ率いるフン族の襲来によって引き起こされた「ゲルマン民族の大移動」では、多くのゲルマン人部族がライン川を越え、衰退したローマ帝国領内に侵入しましたが、クローヴィスの出身部族であるフランク族は、それらとは少し違った形で存在していました。

ここでそのフランク族について少し説明しますが、彼らはフン族襲来のはるか以前の300年頃からすでにガリア国境やライン川の周辺で略奪を繰り返していたそうです。(現在のドイツ中部にも、ソーセージで有名な「フランクフルト」や、ドイツワインの名産地「フランケン」など、彼らに由来する地名が残っていますね。)しかしまだこの頃の彼らは、その都度集合と離散を繰り返す程度でこれといったまとまりは無く、ローマ中央から見れば、「野蛮な荒くれ者の集団」という存在に過ぎませんでした。

状況が変わるのは354年からで、帝国北部のガリア国境が崩壊してフランク族が一斉にガリアに侵入し、すでに脱走兵の続出や財政破綻などで軍が弱体化していたローマ帝国は彼らにフランドル地方(現在のオランダ、ベルギー)の領地を与え、「傭兵」として召し抱える事で他のゲルマン民族と戦わせ、これらに対する「防波堤」としました。


この「傭兵」として存在したおよそ100年の間に、それまで無知蒙昧で野蛮な蛮族に過ぎなかったフランク族に、先進的なローマ文化が浸透していきます。やがて446年、クローヴィスの祖父に当たるメロヴィクス(?~457)が頭角を現して族長に就任、その後に襲来したアッティラ率いるフン族と激戦を繰り広げました。

そのメロヴィクスが亡くなり、息子である後継者キルデリクス(?~482)の子として生まれたのがクローヴィスで、彼は父キルデリクスの死に際し、482年に何とわずか16歳でフランク族の族長の位を継承します。その6年前に、もはや無いに等しかったとはいえ、形の上では長年の間彼らフランク族の「支配者」であった西ローマ帝国が滅亡。ヨーロッパはまさに「群雄割拠」の時代に突入します。

クローヴィスは族長になると、その若さに見合わぬ驚異的な力量を発揮して他のフランク族を統一し、486年20歳の時には、すでに滅んでいた西ローマ帝国のガリアにおける最後の残存勢力である城塞都市ソワソンの執政官シアグリウス(436~486)を破り、ロワール川より北のガリア北部を支配下に置きます。

その後彼はさらにガリアを南下してブルグンド王国と接する地域まで支配下に置くと、493年ブルグンド王の娘で、彼の人生に最も大きな影響を与える事になる王女クロティルド(475~545)と結婚します。

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上が王妃クロティルド。彼女はとても敬虔なキリスト教徒でした。

同じ年の493年、南のイタリア半島では西ローマ帝国を滅ぼした張本人オドアケル(433~493)を倒した東ゴート族のテオドリック(454~526)が東ゴート王国を建国。クローヴィスは彼と同盟を結ぶ事を画策、建国したばかりで隣国との争いを避けたいテオドリックもこれに同意。両者の思惑と利害が一致し、彼は自分の妹をテオドリックと結婚させます。

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上が東ゴート王テオドリック(ドイツ語読みではディートリッヒ)下が東ゴート王国の範囲です。

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497年王妃クロティルドの実家であるブルグンド王国の隣で絶えず争っていたアラマン族との戦いに勝利したクローヴィスは、彼女の勧めもあって、配下のフランク族3千とともにランスにおいて初めてキリスト教カトリックに改宗します。これが「クローヴィスの改宗」です。

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上はランス大司教、聖レミ(サン・レミ)から洗礼を受けるクローヴィスです。しかし彼がそれまでの異端の宗教を捨ててカトリックに改宗した理由は、王妃クロティルドの様な厚い信仰心から来るものというわけではなく、とても政治的な現実問題を考慮しての事でした。彼の支配地であるガリアの住民の大半がカトリックを信仰しており、数の少ないゲルマンのフランク族は別の宗派のキリスト教や、ゲルマンの古い神を信仰していたからです。

この事は、彼が自らの王国をガリアに打ち建てる上で障害となっていました。(いくら力で支配しても、住民の支持が得られなければ国の運営は出来ませんからね。)彼はその事を冷徹に計算し、今後の円滑な統治を進めるために大パフォーマンスを演じたものと思われます。

その結果は大成功でした。ガリアの住民とフランク人との融和が進み、さらにローマ教会との強いつながりを持ったお陰で今後の他国との戦を正当化出来る様になったからです。「我の敵は神の敵、歯向かう者はキリストの敵である。」というわけですね。つまりローマカトリック教会の威光を利用したのです。(これはわが国においても似た様な事例がたくさんあります。平家に始まり、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川、そして薩摩と長州と歴代の権力者たちは天皇と朝廷の威光を借り、「自分に手向かう者は帝の敵、すなわち「朝敵」「逆賊」である」と称して敵に戦を仕掛ける際の口実に多用しました。)

その翌年498年に、クローヴィスは同じランスでローマ教会の公認の元に戴冠し、「フランク王クローヴィス1世」として即位、ここにメロヴィング朝フランク王国が正式に成立しました。(実際には彼がフランク族の族長になった時点からすでにこの王国は始まっていますが、正式に「国家」として公認されたのはこの時からの様です。また「メロヴィング」とは「メロヴィクスの」という意味で、彼の祖父であり、最初にフランク族の族長になったメロヴィクスが実質的にこの王家の初代とされているからです。また当時のフランク人には「姓」というものがありませんでした。)

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上は彼が戴冠したランス大聖堂とその内部です。大聖堂自体は12世紀に壮大なゴシック様式で建てられたもので、クローヴィスの時代はもっと小さなものだった様です。そしてメロヴィング朝以後の歴代フランス王朝においても、新たに即位する国王はこのランス大聖堂で戴冠式を行う事が慣習となりました。(内部の写真をご覧ください。下に写っている座席と比較すると建物の巨大さが良く分かります。)

次回に続きます。
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