日清戦争17 ・日本になれなかった二つの帝国

みなさんこんにちは。

1895年(明治28年)10月、日清戦争勃発のそもそものきっかけを作り、20年以上に亘って夫の国王をしのぐほどの権力を振りかざした朝鮮王妃 閔妃(びんひ)は、日本の三浦梧楼(みうら ごろう)公使らの謀略により暗殺されました。この事件については、前回もお話した様にうやむやのまま闇から闇に葬り去られてしまうのですが、何にしても、日清戦争の引き金となった諸々の事件の渦中には常に閔妃が絡んでおり、その彼女の死によって、日清戦争というものが本当の意味で終結したと言えるのかも知れません。

では、この日清戦争が日本、清国、朝鮮三カ国に与えた影響と、この三カ国がその後に辿った歴史はどの様なものだったのでしょうか? 今回はまず朝鮮国と清国からお話したいと思います。

まず、日本と清国がその支配権をめぐって激しく対立し、そしてついに開戦するに至った原因である朝鮮国の日清戦争後の状況ですが、これは前回もお話した様に、長く朝鮮国を二分する権力争いに明け暮れた二人の人物、すなわち朝鮮国王妃の閔妃と、国王の父親にして宮廷の陰の実力者であった摂政の興宣大院君(こうせんだいいんくん)が相次いでこの世を去ると、後に残った国王の高宗(こうそう)が、1897年(明治30年)10月、朝鮮の歴史上初めて「皇帝」に即位、国名を「大韓帝国」と改めて自主自立した独立国を目指して動き出します。


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上が大韓帝国初代皇帝「光武帝」として即位した旧朝鮮国李王朝第26代国王の高宗です。(1852~1919)彼は長い間悩まされ続けた妻の王妃と摂政の父の権力争いからようやく解放され、今度こそ朝鮮を自らの理想とする新国家とすべく、皇帝即位と帝政の開始という思い切った手段により、国の近代化を図ろうとしました。(その手本となったのが、明治維新によって近代化を成し遂げたわが大日本帝国である事は、歴史好きの方であれば容易に察しが付く事でしょう。)しかし、彼が思い描いた「夢の国」は、後にその手本とした帝国に呑み込まれてしまう運命にありました。

高宗、いや光武帝は、貧しく遅れた朝鮮、いや大韓帝国を、日本の様な近代国家にすべく、自らの名を冠した「光武改革」という近代化政策を立ち上げます。しかし、彼のやり方はその第一歩からわが日本の明治維新とはかけ離れたものでした。なぜなら日本の場合は立憲君主制に基づく議会政治を確立したのに対し、光武帝はあくまで皇帝親政による絶対王政を目指したからです。(これでは完全に封建制ですね。全く何のために帝政に移行したのか意味が分かりません。)

さらに彼はもう一つの大きな失敗も犯してしまいます。それは財政、すなわち「お金」の事です。近代国家として生まれ変わるためには何と言ってもたくさんのお金がかかります。その財源を捻出するために彼は国民に増税を強いたのです。その結果どうなるかは目に見えています。ただでさえ貧苦にあえぐ朝鮮の民衆はさらなる増税に耐えかねて各地で反乱を引き起こし、改革どころではなくなってしまいます。これは完全に光武帝の失政でした。

そうして朝鮮、いや大韓帝国が一向に近代化出来ずにモタモタと年を重ねるうちに時代は20世紀を迎え、再び周辺で大きな戦争が勃発します。1904年(明治38年)の日露戦争です。この戦争で強敵ロシアを破った日本は、ロシアの南下を食い止める防波堤として、朝鮮半島を日本の支配下に置く事を列強諸国、とりわけイギリスとアメリカに認めさせる事に成功(その見返りとして、アメリカによるフィリピンの領有の承認、イギリスとは日英同盟を締結します。)

欧米列強の了解を取り付けた日本は、三度に及ぶ「日韓協約」を結ばせて大韓帝国の外交権を剥奪、さらに軍隊の解散と警察、司法までも日本に委任させます。つまり、外交、国防、司法、治安といった独立国家としての権利を全て韓国から奪い、日本の「保護国」としたのです。(この保護国というのは、主に外交権を他国に一任する国の事です。外交権がないのだから、その国はそれを一任した国の一部とみなされます。)

こうした一連の失敗により、光武帝は皇帝としての威信を失い、1907年(明治40年)大韓帝国首相であった李完用(り かんよう)らのグループによって退位に追い込まれ、息子である皇太子純宗に帝位を譲って「太上皇」(「だいじょうこう」 これは退位した皇帝の尊称です。わが日本の天皇家においても、かつて譲位あそばされた帝に対して「太上天皇」略して「上皇」とお呼びしていましたね。)となります。


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上が譲位して光武太上皇となった高宗(左)と、その跡を継いで大韓帝国2代皇帝となった純宗(右)親子です。しかし、彼ら李王家の皇帝としての系譜は、もはや風前の灯でした。

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そして上が、光武帝に譲位を迫った大韓帝国首相の李完用です。(1856~1926)彼は伊藤博文の推薦を受けて大韓帝国の首相に抜擢されたエリート政治家で、さらに日韓併合後には朝鮮総督府の要職に着き、その功によりわが日本政府から侯爵位を賜っています。(そのため彼は何度も暗殺者に襲撃され、また韓国独立後、その名は国賊として「売国奴」の代名詞となっています。しかし、彼は決して親日であったわけではなく、それが証拠に彼は日本語を一切学ばず、日本人との会話では英語で話していたそうです。また、当時から彼に対する同情者も数多くいて、近年の韓国では高宗と並んで歴史の流れに逆らえなかった哀れな人物としての冷静な評価が定着しつつあります。)

そしてついに1910年(明治43年)8月、大韓帝国はわが大日本帝国に併合されます。いわゆる日韓併合または韓国併合です。これにより大韓帝国はその成立からわずか13年で滅亡し、朝鮮半島は1945年(昭和20年)のわが国の敗戦まで35年余り、日本領となるのです。

日韓併合後、高宗と李王家の人々は日本の皇族に準ずる王公族とされ、それぞれ日本流の長い命名による王公名で呼ばれて京城(けいじょう)と改名された旧漢城の李王家の離宮でその命脈を保ちます。そして1919年(大正8年)1月、朝鮮最後の王高宗はその波乱に満ちた67年の生涯を閉じました。

ちなみに現在、旧李王家の末裔は、高宗のひ孫に当たる李源(り げん)氏が李家30代当主としてその系譜を繋いでいます。


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上が李家第30代当主にして朝鮮王家の王位請求者(もちろん名目上の話です。笑)の李源氏です。(1962~)彼は現在は現代グループの一企業に勤めるサラリーマンで、後継者として息子さんが2人いる様です。

さて、それでは清国の日清戦争後の状況はどんなものだったのでしょうか? これについては、戦争に敗れた清国が日本に多額の賠償金を課され、その支払いのために欧米列強諸国から莫大な債務を負ってしまった事は以前にもお話したと思いますが、これにより大清帝国は、借金したそれらの国々になりふり構わず国土を租借させ、もはや帝国などとは名ばかりの半植民地に成り下がってしまいました。

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上が日清戦争後の清国の状況です。清王朝がかろうじて直接統治していたのは、都である北京周辺の中部地域のみでした。

この帝国の状況を最も嘆いていたのが、時の皇帝光緒帝(こうしょてい)です。彼は全ての責任はこれまで清帝国の事実上の「宰相」として辣腕を振るってきた北洋大臣の李鴻章(り こうしょう)にあるとして彼を罷免し、代わって改革派の側近たちを重用して新体制により帝国の建て直しと勢力挽回を図ろうと動き出します。


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上が大清帝国第11代皇帝の光緒帝です。(1871~1908)彼は伯母の西大后がその権力維持のために、わずか3歳で即位した典型的な傀儡皇帝でしたが、成長するに連れて「院政」を敷く伯母からの離脱と、自らの親政による新たな国づくりを願う様になります。

李鴻章

そして上が光緒帝に罷免された前北洋大臣 李鴻章です。(1823~1901)彼の経歴については、これまで何度かお話してきたので今回は省きますが、当時の清王朝最大の実力者である点は、皇帝から罷免されても変わりませんでした。

光緒帝は、自ら登用した改革派の側近たちと図り、日清戦争敗北から3年後の1898年(明治30年)に、思い切った新体制への移行を実現しようとします。それはわが日本の明治維新を参考に、立憲君主制の近代国家を造ろうというもので、これを戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう 「戊戌」とは干支の事で、この年がそうだったからです。)といいます。

光緒帝は側近たちにこう言い放ちます。

「西欧諸国が500年かかって成した事を、日本は20年余りで成し終えた。日本に出来た事ならばわが国にも出来ぬ事はない。我が国土は日本の10倍以上あり、明治維新に倣えば3年にして大略成り、5年にして条理を備え、8年にして効果を上げ、10年にして覇業を達成するのだ。」

この時、まだ27歳の若い皇帝はどれだけ期待に胸を膨らませていた事でしょう。しかし、それはあまりにも事を急ぎ過ぎた無茶なものでした。とりわけ、これまで清王朝を支え、賄賂の横行と肥大化により腐敗した旧体制の官僚たちは、新体制への移行に伴いその多くが切捨て(つまりリストラですね。)される事になり、大きな危機感を持つ様になります。彼らは同じくそんな皇帝の計画を快く思わないある人物を担ぎ上げ、「抵抗勢力」としてその前に大きく立ちはだかります。その人物とは、誰あろう皇帝の伯母 西太后です。


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上がその西太后です。(1835~1908)悪名高い彼女の経歴についても、以前お話したので省略しますが、皇帝にとって生涯最大の敵は、この怖い伯母さん(失敬。笑)だったのではないでしょうか?

西太后は、清王朝と帝国そのものが、自分のために存在する「私物」であると思っていました。しかし、女性である彼女は「皇帝」になる事は出来ません。(そう、清王朝に限らず、中国歴代王朝では皇帝は男性だけであり、ただ一人として女帝というものは存在しませんでした。)そこで彼女は、清王朝の皇帝家である愛新覚羅家(あいしんかくらけ)の皇族から、自分に血筋が最も近く、さらにまだ何も分からない幼児を傀儡として皇帝に据え、その後見人として帝国の全権を握る「間接統治」で権力を欲しいままにしてきたのです。彼女はこれまで通り自らが影で実権を握り続ける事を望んでいました。

西太后ら保守派グループは、皇帝ら改革派グループに対してクーデターを起こし、この戊戌の変法を潰してしまいます。(この時の光緒帝の失望はどれほど深いものだった事でしょう。若者の夢を老人が潰した典型ですね。)結局、帝国の実権はその後も西太后が握り続け、光緒帝は終始その傀儡から脱する事は出来ませんでした。

こうして清国が内向きの障害により一向に近代国家へと改革出来ないまま時は流れます。やがて起きた1900年(明治33年)の義和団の乱の勃発、これは義和団と呼ばれる宗教集団が外国勢力に対して引き起こした反乱でしたが、これに目を付けた西太后は、この義和団を利用して外国勢力を追い出そうと彼らに味方します。これに対して日本と欧米各国は、この反乱鎮圧と自国のそれぞれの権益の確保のために協調して連合軍を組織し、反乱を叩き潰してしまうのです。

またも敗れた清王朝の凋落はもはや目を覆うばかりでした。そして1908年(明治41年)10月、何も成し遂げられなかった哀れな皇帝光緒帝は、帝国の行く末を嘆き悲しみながら37歳の若さで謎の死を遂げます。(彼の死因については、近年中共が行った遺体の発掘調査と検死により、遺体の髪の毛から致死量をはるかに越える砒素が検出された事から、どうやら毒殺されたらしい事は明らかな様です。その犯人は不明ですが、言わずともそれが誰の命なのかは、皆さんも容易にご想像が付く事でしょう。)

その翌日、彼を生涯悩ませた伯母の西太后も亡くなり、清帝国の新しい皇帝には、彼女の指名によりまたも何も分からぬ3歳の幼児が12代皇帝として即位します。そう、彼こそは宣統帝(せんとうてい)皆さんもご存知の「ラストエンペラー」溥儀(ふぎ)です。


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上が大清帝国第12代皇帝として即位したまだ3歳頃のラストエンペラー溥儀です。(1906~1967)この幼い男の子に待ち受けるその後の波乱に満ちた人生を、一体誰が想像出来たでしょうか?

度重なる外国との戦争に敗れ続け、国内は乱れ放題、中国の人心はとうの昔に腐敗しきった清王朝に対して微塵の期待も敬愛も抱いてはいませんでした。そもそも清王朝自体が中国を征服して成立した征服王朝なのです。もはや清王朝の命脈が潰えるのは時間の問題でした。そしてついに1911年(明治44年)10月、その時は訪れます。辛亥革命(しんがいかくめい 「辛亥」とはこれも干支です。)の勃発です。翌1912年1月1日、革命家孫文(そんぶん)を大総統とする共和制の中華民国が成立、1644年の成立以来12代268年続いた清王朝はついに滅亡するのです。

だいぶ駆け足で、朝鮮国と清国、二つの国の日清戦争後の行く末をお話しました。この二つの国はそれぞれの置かれた状況を憂い、このままでは「国が滅びる」との危機感(というより恐怖感)から、最後の力を振り絞って懸命に生き残ろうとしました。そして、その目指す模範としたのが、わが日本すなわち大日本帝国でした。そう、彼らは日本の様な立憲君主制の近代国家になろうと必至にもがいたのです。

しかしその結果、前者は大日本帝国の一部に併合され、後者は帝国とは全く正反対の完全共和制国家となり、二つの帝国は共にほぼ同じ時期に滅亡してしまいます。結局彼らは日本の様になる事は出来ませんでした。そして、この二つの国を外的に滅ぼしたのは、誰あろう彼らがその目指すべき模範としたわが大日本帝国であったのです。

次回に続きます。
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