黄金の仮面が眠る街 ・ ミケーネ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に続いて再びギリシャから「ミケーネの王宮」をご紹介したいと思います。といっても、正確には宮殿と街をぐるりと堅固な城壁で囲ったいわゆる「城塞都市」と言うべきものですが、後の中世ヨーロッパ全土に築かれていった城塞都市の原型として、大変興味深いものです。

このミケーネの王宮は、ギリシャ本土、ペロポネソス半島の東部に位置する古代遺跡で、その起源は紀元前1500年頃(今から3500年前)にさかのぼります。この時代は、歴史の大きなくくりで言えば、いわゆる「青銅器時代」に当たり、各地域の古代文明の存続期間によって、その発祥と終わりに数百年の差が表れるのですが、おおむね紀元前3500年頃~紀元前800年頃までのおよそ2700年余りがこれに相当します。

この青銅器時代は、それまで石器しか知らなかった人類が、その名の通り青銅を素材に様々な道具を使い出した時代です。ちなみに青銅というのは銅と錫(すず)を混ぜ合わせた合金で、この配合の多少によって、硬さや色などの点で大きな変化が出る事から、最も加工しやすい金属として珍重され、「鉄」が出現するまで幅広く利用されたものです。今回お話するミケーネの王宮でも、大量の青銅器が出土しています。


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上がミケーネの位置と、空から見た全景です。

このミケーネは、前回お話した古代エーゲ文明の一つであるクレタ島のミノア文明が衰退期に入った頃に、入れ替わる様に興隆発展したもので、歴史好きの方であれば誰もがご存知のあのハインリッヒ・シュリーマンによって、1876年に大々的に発掘調査が行われ、数多くの金銀細工と貴重な出土品で世界を驚かせました。


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上がハインリッヒ・シュリーマンです。(1822~1890)彼については前回もお話した様に、伝説の都「トロイ」の発見者としてあまりにも有名ですね。実業家として財を成した後に考古学の道にのめりこみ、後の世に「ギリシャ考古学の父」として、「偉大な考古学者」の様に紹介される事の多い彼ですが、実際には彼は正規の考古学者というよりも、考古学者に匹敵するほど詳しく良く知る「考古学マニア」でした。つまり「アマチュア」だったのです。そのため彼は、発掘で出土した多くの財宝を「自分の物」としてトルコやギリシャから彼の祖国ドイツに勝手に持ち出し、さらにそれらの財宝は第二次大戦終結直前にソ連軍によって接収され、今日それがそれぞれの国の間で所有権をめぐる争いになっています。

このミケーネは、そんなシュリーマンがトロイの発掘をしていた頃とほぼ同じ時期の1870年代に並行して行われていました。なぜならこのミケーネは、伝説のトロイの都を攻撃したギリシャ軍の総大将「アガメムノン王」の王国であったからです。そのためシュリーマンは、トロイと変わらない情熱さを傾けてこの街の発掘に全力を注いでいました。

ミケーネがこの地に興隆したのは、先に述べた様に紀元前1500年頃と推定されています。これは、遺跡から出土した粘土板に刻まれた線文字を解読した結果などから割り出されたもので、最初は小さな都市国家だったものが、エーゲ海全域での活発な海洋交易により富を蓄え、それが人口の増加と国力の増大により周辺の都市を服属させながら勢力を拡大、やがてクレタ島を中心とするミノア文明に代わる「ミケーネ文明」としてギリシャ世界に君臨する事になったと考えられています。

ちなみに「ギリシャ」という名の由来についてですが、これはかつてギリシャ本土のペロポネソス半島に居住していた「高地の人々」または「名誉の人々」を意味するラテン語の「グレキア」が、わが国が最初に接した西洋の国であるポルトガル語で「グレーシア」と呼ばれていたものが訛ったのだそうです。もちろんこう呼んでいるのはわが国だけで、それぞれの国で呼び方は違います。例えば、当のギリシャ本国において、彼らが自国の名を呼ぶ場合の正式国名は「エラス共和国」と読んでいるそうです。(ギリシャ神話の女神ヘレンに由来し、ギリシャ民族はこのヘレンの子孫であるという伝説から。)

今回ご紹介するミケーネは、古代ギリシャ民族を構成したいくつかの民族のうち、紀元前2000年頃に北方から南下して定住した「アカイア人」の一派である「イオニア人」が建国した王国でした。


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上が当時のギリシャ世界の全体の流れを現した図です。前回お話した様に、エーゲ海一帯に最初に華やかな文明の花を咲かせたのはクレタ王国のミノア文明でしたが、その後に興隆した本土のミケーネ王国が、紀元前1400年頃にこれを併合してギリシャ世界の覇者となったのです。

このミケーネ王宮が前回のクノッソス王宮と違う最大の点は、なんといってもその防御力の高さといえるでしょう。クレタのクノッソスは、城壁や城門、堀というものがほとんどなく、宮殿は外来者が自由に出入り出来るものでした。それがゆえに、クレタはミケーネ軍にあっけなく占領されてしまったものと思われるのですが、このミケーネの王宮は、冒頭に載せた写真をご覧になればお分かりの様に、小高い山の上に堅固な城壁をめぐらして宮殿と街全体をすっぽりと囲んだ城塞都市でした。


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上の一連の画像は現在のミケーネ遺跡の様子です。このミケーネは、1999年(平成11年)に世界文化遺産に登録されています。上の画像の最後の2枚に注目して下さい。これはミケーネの正門ともいうべき「獅子の門」といい、2頭のライオンが中央の太い柱の左右対称に刻まれています。このデザインは後のヨーロッパの王侯貴族の紋章に良く使われていますね。(4枚目の写真は門の入り口につながる道に、だいぶごつごつした大きな石ころが転がっていますが、5枚目の写真ではすっかり道が整地されて歩きやすくなっていますね。世界遺産への登録とともに観光客が増えたための配慮なのでしょう。)

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そして上が、ミケーネの復元想像図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ3万程度と推定されています。)これを見てまず目が行くのが、上で述べた王宮の正門である「獅子の門」を入って右手にある円形の構造物ではないかと思います。これは円形墳墓といい、地中海世界の遺跡では全般的に良く見られるもので、このミケーネを支配した歴代の王や王族が眠る「王家のお墓」です。

この円形墳墓から、シュリーマンは数多くの副葬品を発見するのです。そしてその大半がまばゆい黄金製でした。


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上の一連の画像は、シュリーマンが王家の円形墳墓とその周囲から発掘した黄金の品々です。1枚目が、かの有名な「アガメムノン王の黄金の仮面」です。これはシュリーマンがその様に名付け、今だにその名で呼ばれているものですが、実際はアガメムノンではなく、王族の一人のものであると考えられています。また、黄金の仮面はこれだけではなく、他の王族の墓からも出土しています。5枚目の「黄金のカップ」と6枚目の「黄金の器」に注目して下さい。この黄金のカップでミケーネの王はワインを飲み、黄金の器に豪華な料理を盛り付けて食べていたのでしょうか?

これらは全て、現在アテネの国立考古学博物館に展示されています。みなさんもギリシャに旅行される機会があれば、目の保養にぜひ立ち寄って見てはいかがでしょうか。(笑)

「黄金に富めるミケーネ」

あのトロイ戦争を題材にした叙事詩「イリアス」を書いたホメロス(紀元前700年代? に生きた大詩人)は、その中でミケーネをこの様に表現しています。そしてミケーネは、彼の言う通りの「黄金都市」でした。

ミケーネをこの様に豊かで強大な国家に押し上げた原動力は、なんといっても先に述べた「海洋交易」でした。ミケーネに限らず、エーゲ海一帯のギリシャ地域は地中海性気候で乾燥しており、農耕によって得られる作物は必然的に乾燥に強いものが古くから栽培されています。その中で代表的なものがオリーブと葡萄であり、それからオリーブ油やワインを作り、さらにそれらを入れる「入れ物」として鮮やかな絵柄を施した陶器を大量生産、さらに青銅でこしらえた剣や槍、甲冑などの武器が「高付加価値品」として輸出されました。

「輸出」といっても、この時代は今日の「お金」という概念はまだありません。余談ですが、「お金」すなわち貨幣というものが歴史に始めて登場するのは紀元前670年頃、現在のトルコに存在したリディア王国(紀元前690?~紀元前547)が鋳造したエレクトロン貨(金銀の合金)が最初のものと言われ、この時代から1000年近く後の事になります。つまり、それまで人々は日々の生活に欠かせない食べ物はもちろんそれ以外の他の物でも、手に入れる時は互いの欲しい物か、それに見合う価値のある物を交換する純粋な「物々交換」でやり取りしていたのです。

ミケーネの商人たちはこれらを船に積み込み、単独または複数の船団を組んでエーゲ海周辺の国々(エジプト、ヒッタイトなど)に出かけ、現地の商人と金、銀、銅、錫などの金属資源や象牙、琥珀、香料などギリシャでは手に入らない貴重で珍しい「贅沢品」と交換してミケーネ本国に持ち帰ったのです。

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このミケーネを含むエーゲ文明について詳しくお知りになりたい方は上の2冊の本が良書です。古代ギリシャの本は数多いのですが、この本はギリシア文明の初期、すなわちクレタやミケーネ、それ以後の「暗黒時代」からポリスの興亡まで、とにかく豊富な図解でヴィジュアル的にお薦めするものです。ページ数は上の本が180ページ余り、下の本が140ページ余りです。文章で想像するより見て情報を知りたい方に良いと思います。

こうして繁栄を謳歌したミケーネ王国でしたが、その繁栄は突如終わりを迎えます。紀元前1150年頃、ミケーネの王宮は周辺の都市も含めて破壊され、ミケーネ王国は滅亡してしまうからです。それだけではありません。エーゲ海全域に広がったエーゲ文明そのものが、この時に一斉に滅びているのです。このミケーネを含むエーゲ文明の滅亡については、今だに世界の考古学上の大きな謎とされていますが、現在最も有力な説とされているのが当時勃興した「海の民」と呼ばれる謎の海洋民族の襲来です。


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上は「海の民」の進路図と、これと戦うエジプト王率いるエジプト軍の様子を描いた壁画です。この海の民は、定住する事無く略奪と破壊を繰り返す歴史上最初の「海賊」と呼べるもので、図で見てもお分かりの様に西地中海から東地中海に侵入し、まずはエーゲ海一帯を荒らし回り、トルコに上陸して当時の大国ヒッタイト王国を滅ぼし、さらに南下してエジプトにも攻撃を仕掛けています。当時エジプトは「新王国時代」と呼び、時の第20王朝の王ラムセス3世がこれと激しく戦い、なんとか追い払っています。

上の壁画では、大きく弓を引いて海の民を狙う王の姿が誇大に描かれていますね。これはもちろん王の偉大さを人々にあまねく知らしめるために強調されたものですが、もう一つ大きな理由があります。それはエジプト軍が大量の弓兵部隊を動員し、海の民に雨あられの様に弓矢を射かけ、これにより弓を知らなかった海の民はエジプトに上陸出来ずに敗れ去った、つまりエジプト軍の作戦を伝えるためのものなのだそうです。(これはわが国でも、かつて鎌倉時代の蒙古襲来の折に、来襲したモンゴル軍に対して幕府軍が同じ戦法で撃退していますね。要は「上陸させなければ良い」わけです。)

この海の民は、その後四散して歴史の表舞台からあっという間にいなくなるのですが、彼らによって、東地中海世界は大きな歴史的変動期を迎える事になります。この時期の一連の混乱によって、ミケーネを含むエーゲ文明は滅びてしまうのです。

この海の民が来襲した紀元前1150年頃を境に、およそ800年ほど続いた華やかなエーゲ文明は滅び去り、その時代を記した線文字は打ち捨てられ、ギリシャ世界はその後、文字による記録が一切ない暗闇の時代が到来します。それはおよそ400年ほど続き、世界史ではこの時代を表して「ギリシャの暗黒時代」と呼んでいます。

今回お話したミケーネは、その歴史が外敵の侵入という不幸な形で終わりを迎えていますが、もしそれがなければ、古代ギリシャの歴史はまた大きく違ったものになっていた事でしょう。あるいはいずれ地中海全域に広がる後のローマ帝国の様な一大帝国に拡大発展する事も出来たかもしれません。しかし、歴史はミケーネにそれを許しませんでした。今はギリシャの田舎のオリーブ畑に囲まれた小高い山の上で、その遺構がひっそりと残るのみです。正門の上に掲げられた2頭のライオンが、かつての繁栄を懐かしむ様に、人がいなくなってからも3千年の長き年月、ミケーネを守り続けています。

次回に続きます。
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