鉄の王国ヒッタイトの都 ・ ハットゥシャ

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、遠い昔から幾多の古代国家が興亡を繰り返し、アジアとヨーロッパ、東洋と西洋が交じり合い、悠久の歴史を刻んできた魅惑の国トルコから、「ハットゥシャ」をご紹介したいと思います。この「ハットゥシャ」は、紀元前1600年頃にこの地に興った最初の統一国家である「ヒッタイト王国」の都として築かれたものです。

ヒッタイト。この王国こそ初めてアナトリアを統一し、強大な軍事力で周辺国に恐れられ、後には東のメソポタミアに侵攻してこれを征服。さらに転じて南のエジプトにも進軍し、迎え撃つエジプト軍と激しく争った恐るべき軍事国家でした。では、そもそも今回のお話の主役であるヒッタイト王国はいつ頃、どのようにして誕生したのでしょうか? まずはそのあたりからお話したいと思います。

現在知られている最も有力な説では、ヒッタイト人は紀元前2千年頃(今から4千年前)にカスピ海の北方からアナトリアの地に移動し、定住したといわれています。もちろんその時期も場所もばらばらで、大小いくつもの集団に分かれ、最初からまとまっていたわけではありませんでした。彼らはそれぞれ移住した地に都市を築いていきましたが、やがてその中で大きな集団を率いる者が指導者として周辺のヒッタイト都市を従えていく様になります。

ちなみに「ヒッタイト」という名ですが、これははるか後の19世紀から20世紀にかけて、この地域を調査研究していたセイスなるイギリスの考古学者が、旧約聖書に登場する「ヘテ人」にちなんで名付けたのがその由来だそうです。(もともとの固有名詞ではなく、後の学者が後付けで名付けたのですね。ただし、なぜこう名付けたのかは不明です。)

そして紀元前1580年頃、全ヒッタイト民族を統一して最初の王になったのがラバルナ1世(?~紀元前1565年頃)という人物です。彼が築いた最初のヒッタイト王国はおよそ80年ほど続き、歴史上ではこれを「ヒッタイト古王国」と呼んでいます。ヒッタイト王国はその後、70年続いた「中王国」そして滅亡するまで最も長く続いた250年余りの「新王国」に分かれ、合わせて400年間に亘り、アナトリアから現在のシリア、イラクに至る地域を支配しました。


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上がこの地域における当時の国際関係を表した図です。ヒッタイトと合わせ、南にはエジプト王国、東のメソポタミアにはこれも強大なアッシリア帝国が覇を競っていました。(注)上の図では、Reich「ライヒ」すなわちドイツ語で「帝国」と表記されていますが、「帝国」とは「皇帝」の統治する国家であり、この時代にはまだ「皇帝」という称号は存在せず、さらにヒッタイトをはじめ、その他の国々においても、その頂点に君臨するのは「王」である事から、厳密には「王国」と表記すべきでこれは正しくありません。しかし、世界史では多くの場合、そうした国でも帝国と呼んで(ペルシャ帝国や大英帝国など。いずれも君主は王です。)それがすっかり定着している場合も多いです。頭が固いかもしれませんが、当ブログでは原則論に従ってヒッタイト王国と呼ぶ事にするので、その点を踏まえてご了承ください。(苦笑)

さて、ヒッタイト王国を建国した最初の王ラバルナ1世ですが、残念ながら彼については「ヒッタイト王国初代国王」であるという事くらいしか分かっていません。なにしろ3600年も昔の人物であり、肖像はもちろん彼にまつわる記録も粘土板に記された極めてわずかな記述しか残っていないからです。では、そのラバルナ1世に始まるヒッタイト王家歴代の王たちにまつわる記録は、一体どの様に記録されたのでしょうか? それについては下の画像を見て下さい。


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上はいわゆる「楔形」(くさびがた)文字をが刻まれた粘土板です。この文字はもともとメソポタミアで考案され、古代エジプトの象形文字(ヒエログリフ)と並んで歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ヒッタイト民族がカスピ海の北方からアナトリアに移住したというのは先に述べましたが、その途中で彼らは地理的にメソポタミアの影響を強く受け、その結果自分たち自身で文字を作らず、メソポタミアの楔形文字をそのまま導入してさまざまな記録に活用しました。

この楔形文字によって、ヒッタイト王国についての記録は極めて断片的かつ大雑把ではありますが、今日の私たちも知る事が出来るのです。それによると、初代ラバルナ1世については次の様に記述されています。

「狭かった国土をラバルナが大きく広げた。ラバルナは7つの街を征服し、敵を海にまで追いやり、それぞれに息子を支配者として送り込んだ。」

彼が強大な武力を持っていたのは間違いないと思われますが、しかし、諸部族を統一して広大な王国を建国するには、単に強大な武力を持っているだけではなく、人々を従えさせる王としての品格と度量の広さ、さらに統治者としての政治指導力なども無くては無理でしょう。おそらくそうしたものも全て兼ね備えた優れた王であったのだろうと思います。(と、いうのは自分の勝手な想像ですが。汗 みなさんはどう思われますか? 笑)

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上はヒッタイト王のイメージです。(拾いもののイラストです。笑)

記録によれば、その後初代ラバルナ1世が亡くなると、後継者には彼の王妃の従兄弟にあたるハットゥシリ1世(?~紀元前1540年頃)が2代国王に即位します。ここで疑問に思うのは、先王ラバルナ1世には少なくとも7人の息子すなわち王子たちがいたのに、血筋では全く関係ない他人である王妃の従兄弟が王位を継いでいるという点です。記録には残されていませんが、おそらくこの時、王位を巡る争いがあったのは間違いないでしょう。そして先王の王子たちを破り、勝ち進んだハットゥシリが彼らを粛清し、王位を奪ったものと思われます。(この時点でヒッタイト王国は王朝が交代しているわけですが、この王国はその後も王位を巡る内紛が幾度も続き、その都度王朝の交代が恒例化していく事になります。)

ともあれ、ヒッタイト王国2代国王となったハットゥシリ1世ですが、この彼の変わった名を聞いて、誰もがすぐに「ピン」と来るのではないかと思います。そう、彼こそが今回のテーマの主役である王国の都「ハットゥシャ」を築いたその人なのです。彼は新体制のシンボルとして、自らの名を冠した新たな街を築き、ラバルナ1世が都を置いていたクッシャラ(所在不明)なる街からハットゥシャに遷都し、それ以後このハットゥシャは、ヒッタイト王国の滅亡まで王国の都であり続けるのです。


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上の画像1枚目がハットゥシャの復元想像図です。尾根沿いに堅固な城壁が街を取り囲んでいますね。2枚目の同じ位置の画像と見比べて見てください。3枚目は現在のハットゥシャの見所の配置図です。大きさは東西およそ1.2キロ、南北およそ3キロの楕円形をしています。(人口は都市の規模からおよそ4~5万程度と推定されています。)

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上の一連の画像は現在のハットゥシャ遺跡の様子です。上空から見た画像を見ると、遺跡は石が削り取られたかの様にきれいになくなっていますね。これは後の時代にこの地に興り、滅んでいったあまたの国々が城壁などの資材として転用するために長い年月をかけて持ち去ってしまったためです。しかし、転用を免れた石には多くの彫刻やレリーフが残され、当時の繁栄を偲ぶ事が出来ます。

最後の写真に注目して下さい。これは兵士ではなく神々を掘り刻んだもので、「ヒッタイトの12神」と呼ばれています。これを見るだけで、この国が多神教国家であったのは容易に想像出来ますね。キリスト教もイスラム教もないはるかな昔、さまざまな異教の神を信ずる多くの民族を束ねるには、その方が都合が良かったのでしょう。

このハットゥシャは、ドイツの考古学者フーゴー・ウィンクラー(1863~1913)によって1906年に発掘調査が行われ、失われたヒッタイト王国の都の全貌が明らかにされました。そして1986年世界遺産として登録され、世界中から多くの観光客が後を絶たないトルコでも人気の観光スポットです。

それからのヒッタイト王国は隆盛期に入ります。歴代の王たちによって繰り返された外征により、その領土と支配地域は大きく広がっていくからです。それではヒッタイト王国躍進の原動力とは一体なんだったのでしょうか? なぜ彼らヒッタイト軍はそんなにも強かったのでしょうか?

それは歴史好きの方ならば知識としてご存知と思いますが、このヒッタイト王国は史上初めて「鉄」を大々的に生産、加工する技術を確立した今で言う「先進テクノロジー国家」であったからです。


前回のミケーネでもお話した様に、この時代の世界は「青銅器時代」の全盛期でした。青銅とは銅と錫の合金で、加工がしやすいのが特徴ですが、銅の産出地が多い所でないと大量生産は出来ない欠点がありました。そのため銅や錫が取れない国では高価な貴重品だったのです。

しかし、鉄は銅よりはるかにその埋蔵量が多いのです。みなさんも子供時代、磁石で砂の中から「砂鉄」を取り出した事があると思います。そう、ヒッタイトの製鉄技術は主にこの砂鉄から作り出す「たたら製鉄」によって生産されたものでした。


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上はたたら製鉄によって炉から流れ出した「銑鉄」(せんてつ)です。これを鋳型に流し込んで形を整え、叩いて剣や槍、矢じりを作ったり、それ以外の様々な鉄器を生産しました。

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上はヒッタイトの戦車のイラストです。その車輪にも鉄が使われています。ヒッタイト軍はこの様な戦車を数百両集めた「機甲部隊」で敵の防衛線を打ち破り、その後を鉄剣や鉄槍で武装した歩兵部隊が怒涛のごとくなだれ込み、敵国の都まで一気に侵攻する電撃作戦で連戦連勝を重ねました。

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さらに鉄の利点はなんといってもその強度です。青銅の硬度は50~100程度に対し、鉄の硬度は150~200で、2~3倍の強度の違いがあるのです。(鉄の剣と青銅の剣で戦えば、当然青銅の剣は折れてしまいますね。これでは実戦では勝負になりません。)

ヒッタイトはいち早くこの製鉄技術を確立すると「国家機密」として厳重に管理し、いわゆる「ブラックボックス化」して独占しました。そのため周辺国は、ヒッタイトの滅亡まで製鉄技術を得る事が出来ず、青銅器を使い続けざるを得なかったそうです。

このヒッタイト王国の躍進に大きな脅威を感じていた南の大国がありました。それはエジプト王国です。ヒッタイトとエジプトは現在のシリアとイスラエル付近を挟んだ国境地帯で戦争を繰り返しましたが、双方ともなかなか決着が付かず、戦争は300年も続いていました。しかし、その300年に及ぶ歴史に終止符を打つべく、エジプトで一人の王が大きな決意を固めていました。古代エジプト最強の王として有名なラムセス2世(紀元前1302頃~紀元前1212)です。


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上は戦車に乗って大きく弓を引くラムセス2世の絵です。彼はエジプト第19王朝3代国王(ファラオ)にして、エジプトのファラオとして通算すると138代目に当たるそうです。

領土拡大の野望に燃える若きラムセス2世は、シリアをヒッタイトから奪い取ろうと紀元前1274年、自ら大軍を率いて北上、これを迎え撃つ時のヒッタイト王ムワタリ2世の軍と一大決戦に臨みます。これが「カデシュの戦い」です。


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上はカデシュの戦いで奮戦するラムセス2世を描いたイラストです。この戦いにおける両軍の兵力はエジプト軍が歩兵1万6千、戦車2千両(1両の戦車には3名程度が乗るので、それを合わせると2万2千程度でしょうか。)これに対しヒッタイト軍は歩兵2万、戦車3千両(同じく計算するとヒッタイト軍は2万9千。兵力ではヒッタイト軍が有利ですね。)

ラムセス2世は捕えたヒッタイトのスパイの情報から、ヒッタイト軍が到着する前にカデシュを占領してしまおうと無理して兵を進軍させます。しかし、これはヒッタイト王ムワタリ2世の仕掛けた罠でした。彼はエジプト軍をカデシュに引き込み、包囲殲滅するつもりでいたのです。これにまんまと引っかかってしまったラムセスのエジプト軍にヒッタイトの戦車部隊が一斉に襲い掛かります。油断していたエジプト軍は大混乱に陥りましたが、ラムセス2世がいざと言う時に備えて温存していた取って置きの別動部隊が側面からヒッタイト軍を撃退し、ラムセス2世はようやく戦場を離脱する事が出来ました。

その後、戦線はこう着状態になり、ムワタリ2世とラムセス2世との間で講和条約が結ばれ、戦闘は終結します。この戦いによってラムセス2世は当初の目的であったシリア獲得は成らず、大勢の兵を失う大損害を被り、事実上戦いはラムセス2世の惨敗なのですが、偉大なファラオが「敗れた」とはいえないため、エジプト側の記録では全てラムセス2世の大勝利と改ざんされています。(負けず嫌いのラムセス2世らしいですね。笑)

この時、エジプトとヒッタイトとの間で結ばれた講和条約こそ、明文化されたものでは歴史上世界で最初の和平条約として有名で、これ以後両国は、ヒッタイト王国の滅亡までおよそ100年以上もの間、国境線上で均衡を保つ事になるのです。


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上がヒッタイト・エジプト平和条約を記した粘土板です。これもハットゥシャの遺跡で発掘され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されています。

この様に精強を誇ったヒッタイト王国でしたが、このカデシュの戦いの始まる頃から衰退の兆しが見え始めていました。特に東のメソポタミア地域には、新興国家アッシリア帝国が徐々にヒッタイト領を侵食し始め、国境紛争が後を絶たなくなります。さらに西からは、これも新興勢力「海の民」が地中海からヒッタイトに襲い掛かります。

ヒッタイト軍は騎馬を中心とする陸軍が主力であり、基本的に海の戦いは不得手でした。そのため海の彼方からいつ攻め寄せてくるか分からない海の民からの防衛のため、地中海沿岸の各都市に守備隊を分散配置せざるを得ず、その結果各個撃破される悪循環に陥ってしまったのです。

さらにヒッタイト王家の王位争いによる内乱が追い討ちをかけます。内憂外患とはまさにこの事です。これら一連の混乱により国の統制は乱れ、王国は崩壊の道を転げ落ちていきます。そしてついに紀元前1180年、ヒッタイト王国は滅亡し、都ハットゥシャは放棄されてしまうのです。

長い間、ヒッタイト王国は海の民の攻撃によって滅んだと言われて来ましたが、近年の発掘による研究結果から、ヒッタイト滅亡の原因はそれだけでなく、末期の3代に及ぶ王位を巡る内紛と、それにともなう深刻な食糧難、それに付け込んだアッシリアの介入などの複合的な要因により滅亡に至ったものと推定されています。


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上は草原の中に広がる現在のハットゥシャの遺跡の姿です。遠い昔に栄え、そして滅び去った古代の王国の都の跡を、今はその子孫の少女が無邪気に歩いています。

次回に続きます。
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