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王妃への愛が生んだ空中庭園 ・ バビロン

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は、エジプトと並ぶ人類最古の文明発祥の地である古代メソポタミアから「バビロン」をご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、この地域についてどの様なイメージをお持ちでしょうか? これは愚問だったかもしれませんが(笑)おそらく100%の方が「砂漠」と答えるでしょう。確かに、現在は気温50度にも達する猛烈な灼熱の砂漠地帯が広がっているのが事実です。しかし、古代メソポタミア文明が花開いた遠い昔、このあたりは今とは全く違う水と緑に溢れた豊かな土地だったのです。

それについてお話する上で欠かす事の出来ない大きな存在があります。それは古代メソポタミア文明を育んだ二つの大河、ティグリス川とユーフラテス川です。メソポタミアとは、ギリシャ語で「二つの川の間の土地」を意味しています。(この程度の事は、歴史好きな方であれば一般知識としてご存知の方も多いかもしれませんね。)


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上は今回の主役、バビロンを含むメソポタミアの主要地域です。

では、その二つの大河が生んだ古代メソポタミアの歴史は一体いつ頃から始まるのでしょうか? これについては現在までの発掘調査とその研究成果によって、このメソポタミアにおける最初の都市文明が興ったのは紀元前3500年頃(今から5500年ほど前)に、シュメール人が築いた都市国家ウルクに始まるとされています。

彼らシュメール人は、水路を作って人工的に川から水を農地に引き込む灌漑(かんがい)農業によって、食糧の安定供給を実現し、それが人口の増加と生活の安定につながり、やがて数十の都市国家群からなるメソポタミア文明が花開いた大きな理由でした。


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上の画像1枚目がユーフラテス川沿いの湿地帯を船で渡る現地の方々です。そう、これこそ数千年前の古代メソポタミアの原風景なのです。そして2枚目がティグリス川沿いで行われている灌漑農業の様子です。二つの川の上流から中流域では、この様に可能な範囲で川から水を引いて農地を潤しています。

この灌漑農業によって、古代メソポタミアは多くの作物が実る豊かな地になったのですが、その中で最も多く栽培されていた作物が「小麦」でした。人々の生きていく糧となるパンの原料として、小麦は欠かす事の出来ない一番大事な農産物だったからです。


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この小麦がこの地で多く栽培されたのにはもう一つ理由があります。実は意外に思われるかもしれませんが、小麦は乾燥した気候を好むのです。そのため、私たち日本人の主食である「米」の様に、収穫までの長い間多くの水がいらず、この地域の様に暑くて乾燥した地域でも、時折水を流してやる程度で十分育つのです。

この様に、かつては豊かな土地であった古代メソポタミアでは、シュメール以後もさまざまな民族、国家が興亡を繰り返していく事になります。今回お話するバビロンも、そうしてこの地に生まれた国家の一つ「バビロニア王国」の都として栄えた街でした。

古代メソポタミアでは、先に述べたシュメール人によって、すでに紀元前3500年頃には楔形文字が考案され、さまざまな記録に使用されていました。それはシュメール滅亡後も後継国家に受け継がれ、その記録によれば、バビロンは紀元前2300年頃には、地方都市として存在していた様です。それがメソポタミアの中心となるのは、紀元前1894年に成立したバビロニア王国(「バビロン第1王朝」または「古バビロニア王国」と呼ばれます。)の時代になってからです。

この古バビロニア王国は11代の王が君臨し、メソポタミアの主要地域を支配しておよそ300年続きましたが、前回お話したヒッタイト王国の侵攻によって紀元前1595年に滅亡してしまいます。しかし、バビロンの街そのものは、その後もメソポタミアの中心都市として揺らぐ事無く繁栄し続けるのです。


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上が当時のバビロンの繁栄ぶりを描いたイラストと、古い記録や発掘調査などから復元された全体像を上から見た図です。(人口は都市とその周辺を含めておよそ12~13万程度と推定されています。)このバビロンはユーフラテス川をまたぎ、縦2.5キロ、横3.5キロのほぼ長方形をしています。堅固な二重の城壁に囲まれ、さらにその外側にユーフラテス川の水を引き込んだ堀が都市を囲んでいます。街の真ん中をユーフラテス川が流れている事から、自然と上流、下流の両方を行き交う船の寄港地として、そしてそれによって運ばれてくる様々な物資をやりとりするために周辺から多くの人々が集まり、これがバビロンが栄えた大きな地理的要因でした。

このバビロンの「大人気ぶり」は、その支配者が交代しても変わる事はありませんでした。なぜなら古バビロニア王国が滅んだ後も、なんと9つの王朝がこの街を支配し、そのうち8つの王朝がここを都としたからです。(バビロンに都を置かなかったのは9つ目のアッシリア帝国でした。アッシリアはニネヴェという街を都とし、バビロンは帝国末期の100年余りを支配していましたが、経済文化の中心地としてのバビロンの地位は、アッシリア時代においても揺ぎ無いものでした。)

そのバビロンが、メソポタミア全域を支配する強力な統一国家の都として歴史に燦然と輝く日が再び巡ってきます。紀元前625年にアッシリア帝国のメソポタミア南部方面総督であったナボポラッサル将軍が、アッシリア王家の王位争いによる混乱に乗じて挙兵し、バビロンを占領して自らバビロニア王として即位したのです。彼が新たに興した王朝は「新バビロニア王国」と呼ばれ、バビロンはその都となります。


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上が新バビロニア王国を興したナボポラッサル王です。(?~紀元前605)これはいつもながら自分がネットで拾ったイラストで(汗)もちろん彼の肖像など残っていないのですが、王国の創始者として人々を従えさせる威厳と力強さに満ち溢れるたくましい人物だったのだろうと思います。(自分の勝手なイメージです。笑)

その後、ナボポラッサル王率いる新バビロニア王国は、領土拡大を狙ってメソポタミア北部へと侵攻を開始します。当時この地域には1400年以上に亘ってこの地を支配したアッシリア帝国がありましたが、度重なる王位争いと反乱によって帝国は大きく衰退していました。


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上がアッシリア帝国の最盛期の支配地域です。

しかし、かつてはメソポタミア全土を支配し、ヒッタイト滅亡後のアナトリアとエジプトまでも支配下に収めた強力な軍事力は今だ健在で、それゆえ堅実なナボポラッサル王はバビロニア単独での戦いを避け、東の隣国メディア王国と同盟を結び、さらに密かにアッシリア軍を率いる将軍たちでその待遇に不満を抱く者などに、味方になれば今よりも高い地位と莫大な報酬を約束して離反を促し(こういうのを「調略」と呼びます。)16年もの時間をかけて着実にアッシリアを追い詰めていきます。そしてついに紀元前609年、バビロニア・メディア連合軍はアッシリア帝国を滅亡させるのです。

こうしてメソポタミア北部をも手中に収めたナボポラッサル王は、さらにその先のシリア、パレスチナなどの地中海沿岸の領土も支配すべく軍を差し向けます。狙いは地中海沿岸部を支配する事で、東西の海洋交易路を確保する事です。しかし、その先には同じくこの地を狙うエジプト王国が待ち受けていました。バビロニアとエジプトはこの大きな利権を巡って戦争に突入しますが、勢いに乗るバビロニア軍はエジプト軍を破り、シリア、パレスチナはバビロニアの手に落ちます。新領土獲得にナボポラッサル王は大いに喜びますが、もはや老齢で体調を崩していた王は、紀元前605年に急病に倒れて亡くなってしまいます。その後を継いで2代国王となったのは、先王の長男ネブカドネザル2世という人でした。


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上がネブカドネザル2世(?~紀元前562年)の彫刻と、アッシリア滅亡後の国際情勢です。主に4つの大きな国に分かれていますね。そしてひときわ目立つのが最大の領域を支配するメディア王国の存在です。この国は上の図にもある通り、新バビロニアより90年ほど早く成立し、現在のトルコ東部からイラン、アフガニスタンに至る広大な地域を支配した巨大な王国でした。

新王ネブカドネザル2世は、すでに先王の後継者として老齢の父王に代わってバビロニア軍を指揮し、アッシリア打倒戦やシリア方面での戦いでも前線で戦っていた生粋の武人でした。シリア、パレスチナも平定したところで父王が亡くなると、その遺志を継いで即位、父が築いた王国の更なる拡大発展のために尽力します。

ところが、このバビロニアでの王位交代の隙を突き、エジプトが再びシリア、パレスチナ方面に介入してきたのです。その兵力はエジプト軍と旧アッシリア帝国の残党を合わせて総勢4万。これに対し、ネブカドネザル2世はシリア奪還のため直ちに軍を率いて出陣しますが、その兵力は敵の半数以下の1万8千でした。紀元前605年、両軍はシリア北部カルケミシュで激突します。これが「カルケミシュの戦い」です。

兵力は圧倒的にエジプト軍が優勢です。しかし、思わぬ誤算がエジプト軍に生じます。彼らはアッシリア軍の残党を加えた混成部隊であったため、指揮統率が思う様に取れず、うまく連携出来なかったのです。ネブカドネザル王はこの敵の混乱の隙を突いてエジプト軍に甚大な損害を与え、見事に大勝利を収めました。これにより、エジプト王国はシリア、パレスチナ方面への進出を断念し、その後二度とこの地域へ進出を企てる事はありませんでした。

こうして西の脅威を取り除いたネブカドネザル2世は、意気揚々とバビロンへ凱旋しますが、彼には一つの大きな悩みがありました。その悩みとは、いつの時代も時の権力者を振り回す存在。つまり「女性」の事です。

ネブカドネザル王はすでに結婚して妃がいました。お相手は隣国メディア王国の王女アミュティス姫です。といっても、互いに好き合って結婚したのではありません。これは彼らの父王たちが、先に述べたアッシリア打倒の軍事同盟を結ぶ際に、その「証」として行われた完全な政略結婚でした。両国の末長い関係維持のためには必要なものだったと思われますが、見た事も会った事もない相手と結婚させられる方はたまったものではありません。アミュティス姫は父王に抗います。

「父上。わたくしは絶対嫌でございます! 何ゆえあの様な地の果てにわたくしが行かねばならないのですか? わたくしはこのメディアの国を離れとうはございません。」

このメディア王国のあった現在のイラン一帯は、高原と山脈の多い地域です。メソポタミアよりはるかに緑に溢れ、とりわけ、雪を頂く3千メートル級の山々が連なる壮大なザグロス山脈を見て育った彼女には、見渡す限りの平野と川の周囲の農地以外は砂漠の続くメソポタミアでどんな暮らしが待ち受けているのか想像するのも身震いがしたのかもしれません。

当時、バビロニアの隣国メディア王国の王はキュアクサレス2世という人でした。彼は娘をなだめ、説得します。

「そなたにはすまぬが、これはもうバビロニア王との間ですでに決めた事なのだ。今さら取り消す事など出来ぬ。もしそんな事をすれば、わしの立場がないではないか。ここは父のため、わが国のためにどうかバビロニアに行ってくれ。頼む。」

結局父王の命には逆らえず、アミュティスはバビロニアに輿入れする事になります。キュアクサレス王は娘のために大勢の女官と信頼の置ける家臣たちをつけて彼女を送り出しました。一方のネブカドネザルの方は、アミュティスの心情について臣下からの報告で良く理解しており、彼女が退屈しないよう贅を凝らした宮殿を建設して出迎えます。

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「遠い所から良く参られた。これからはここがそなたの国だ。至らぬ事や欲しいものがあれば何でも私に言ってもらいたい。」

まだ皇太子であったネブカドネザルは妃にこう言ってやさしく迎えたのですが、先に述べた様に当時彼は父王の代理でシリア方面征服作戦の途中であり、その忙しさからバビロンに妻を残して長い遠征に出かけてしまいます。バビロンに一人残されたアミュティスは、次第に募る故郷への望郷の思いと寂しさから、すっかり塞ぎ込んでしまう様になってしまいました。

やがてアミュティスにとっては義理の父であるナボポラッサル王が崩御し、ネブカドネザルがバビロニア2代国王に即位しますが、王妃となったアミュティスはなかなか彼に心を開こうとはせず、王は困り果ててしまいます。

夫婦仲が悪いわけではないのです。アミュティスもメディア王家の王女として立派な教養と品格を備えた女性です。しかし、あまりにも違いすぎる環境の変化に、彼女は自分を合わせていくのが精一杯でした。


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「可哀相な事をしてしまった。何か良い方法はないものかな。」

ネブカドネザル王は悩みます。なぜなら王である彼は世継ぎをもうけなければなりません。そのために彼ならその権力で自分の好みの女などいくらでも手に入れられます。しかし、事はそんな単純なものではないのです。もし、彼が正妻であるアミュティスを疎んじ、側室らとの情事にばかり耽る様になれば、アミュティスの実家メディア王家が怒ってメディア王国との関係が悪化し、戦争になるかもしれません。

上の地図でお分かりの様に、メディアは当時オリエント最大の領土を支配する大国で、その軍事力も侮れない大きなものです。もし戦争になれば、メディア王キュアクサレス2世には「娘を取り返す」というバビロニア侵攻の絶好の口実があるのです。

そこで彼は、王妃のためにとんでもない事を思いつきます。


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「わが王宮をメディアの地と同じにせよ。木と草花を植え、水を通して池も作れ。宮殿を森と泉で埋め尽くすのだ。」

王は家臣たちにこう命じたのです。宮殿の改装工事は王の直接指揮のもとで行われ、出来るだけメディアの風景に近づけるよう配慮がなされました。こうして歴史上初めての屋上庭園を持つ宮殿が完成したのです。これを「バビロンの宮中庭園」と呼びます。


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上がバビロンの空中庭園の復元想像図です。宮殿を階段状にし、そのテラスに各地から取り寄せた樹木と季節の花々が植えられ、魚が泳ぐ泉はもちろん滝まで作られていたそうです。ポンプなどないこの時代に、どの様にして水を宮殿の屋上にくみ上げていたのか謎ですが、おそらく水車をいくつも組み合わせていたものと推定されています。(現在東京などの大都会でも「屋上緑化」されたビルが見受けられますが、2600年も大昔にすでに作られていたのには驚きですね。)

自分のためにここまで気を使ってくれた夫に対して、妻のアミュティスがなんと答えたのかは残念ながら記録がありません。しかし、確かなのは、その後ネブカドネザル王夫妻には無事に後継者の王子が誕生し、新バビロニア王国はネブカドネザル2世の40年以上の長い在位中に最盛期を迎えたという歴史的事実です。


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上は伝説の空中庭園があったとされるバビロンの王宮の現在の姿です。

しかし、その後新バビロニア王国は、ネブカドネザル2世の死からわずか26年後の紀元前536年、メディア王国の属国であった南の小国アンシャンから興ったアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされる事になってしまいます。そして空中庭園を含むバビロンの王宮はその戦乱の際にペルシア軍によって破壊され、オリエント最大の繁栄を謳歌したバビロンの栄光の日々も終わりを迎えます。

それから月日は流れ、この地の支配者も目まぐるしく移り変わる中、メソポタミアは前段で述べた灌漑農業の弊害ともいうべき「塩害」(農地に引き込んだ川の水が蒸発する際に、含まれていた塩分が土壌に噴出し、作物を駄目にしてしまうものです。)によってかつての肥沃な緑の大地は荒れ果てた砂漠へと変わり果ててしまいます。

かつて一人の王が、王妃への愛の証として建てた壮麗な宮殿は、今はイラクの砂漠の中にその土台部分だけがその遺構を留めるばかりです。今この宮殿の跡を包み込んでいるのは、時折吹きすさぶ暑い砂嵐だけです。

次回に続きます。
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