アレクサンドロス大王が恐れた宮殿 ・ ペルセポリス

みなさんこんにちは。

今回の宮殿は古代オリエント世界を統一し、恐らく人類史上初めて世界帝国と呼ばれたペルシア帝国の都「ペルセポリス」をご紹介します。

このペルシア帝国とは、現在のイランを本国として、西はエジプト、トルコから東はパキスタンとインド国境に至る、今日ではいわゆる「中東」と呼ばれる地域のほぼ全域を支配した大帝国であり、かのローマ帝国より以前に人類社会に出現した最初の世界帝国と呼べる国家です。では、そのペルシア帝国はいつ、どの様な経緯を経て成立したのでしょうか? まずはそのあたりから今回のお話を始めたいと思います。


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時は紀元前600年頃(今から2600年ほど前)古代オリエント地域は大きく四つの国に分かれていました。そしてその四つの国の中で最大の領土を支配していたのがメディア王国です。そのメディア王国の支配下にあった現在のイラン南部ペルシス(パールス地方とも呼ばれます。ペルシア帝国の名の由来です。)地方に「アンシャン」という小国がありました。

紀元前559年、このアンシャン王国で新しい王が即位しました。その名はキュロス2世といいます。彼には大きな野望がありました。それはオリエント全域を統一し、自らその全ての王になるというものです。そして彼は、その野望実現のために動き出します。


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上がそのキュロス2世の肖像です。(紀元前600頃~紀元前529)彼は先に述べたアンシャン王国7代国王にして、後にアケメネス朝ペルシア帝国の創始者となる強大な王です。

キュロス2世はまずその手始めとして、自らの根拠地アンシャンの宗主国であるメディア王国に対して反乱を起こします。当時、メディア王国の王はアステュアゲスという人でしたが、ここに、ちょっと理解しがたい事実があります。それはキュロス2世の母が、そのアステュアゲス王の娘であるという事です。つまり、キュロス2世にとってメディア王アステュアゲスは実の祖父なのです。

普通に考えれば、孫が祖父に反旗を翻すなどありえない事です。しかし、これにはある事情がありました。ある時、メディア王アステュアゲスは夢を見ます。それは彼の娘マンダネが産んだ息子によって自分が王位を奪われ、メディアが滅ぼされるという恐ろしい夢(というより「悪夢」ですね。)です。王は恐怖に駆られますが、とはいえマンダネは彼にとって可愛い娘です。そこで彼はマンダネをメディア貴族ではなく、都から遠く離れた属国アンシャンの王であったカンビュセス1世(?~紀元前559)にのもとへ嫁がせ、遠ざける事にしたのです。

やがて夫妻には男子が生まれます。それがキュロスです。夢が現実になる事を恐れたアステュアゲス王は、なんと側近のハルパゴス将軍を遣わして、生まれたばかりのキュロスを暗殺するよう命じます。しかし、この命令は赤子殺しの汚名をそそぐのを恐れたハルパゴスが、ある羊飼いにそれを託した事によって実行されませんでした。なぜならその羊飼いは、キュロスの身の上を不憫に思い、自分の死産した子を身代わりに差し出して密かにかくまったからです。

こうしてその羊飼いに育てられたキュロスは立派な若者に成長したのですが、やがて彼は自分の思いもよらぬ出生の秘密を知るのです。彼は思い悩み、そしてある決意を固めます。

「もし祖父が私の健在を知れば、必ず私を亡き者にしようと再び刺客を差し向けてくるだろう。このまま何もせずにいれば、いつか祖父に殺される。私が生きのびていくには、先手を打ってこちらから祖父に戦いを挑むしかない。」

そう、後に彼がメディア打倒の兵を挙げたのは、先に述べた全オリエント統一の野望など「建て前」で、本当は生き残るための必死の手段だったのです。

こうして彼はアンシャンの宮廷に戻ります。まだ赤子のころにハルパゴスにさらわれ、その後子宝に恵まれず、このままではアンシャンのアケメネス王家が絶えてしまうと諦めていたカンビュセス王夫妻は、長い間行方知れずだった王子が生きていた事に大いに喜び(親子というものは当然の事ながら遺伝により顔立ちが良く似るものです。彼の場合両親のどちらかに良く似ていたのでしょう。)キュロスは皇太子として次の王位継承者となるのです。

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そんな中の紀元前559年、父カンビュセス1世がこの世を去ります。アンシャン王国7代国王に即位したキュロス2世は、宿敵である祖父アステュアゲス王率いるメディア王国打倒のため、紀元前552年ついに挙兵します。

この時彼は、敵メディア王国軍内部にある「内通者」を得ていました。それは、なんとまだ赤子だったキュロスをさらっていったあのハルパゴス将軍です。しかし、なぜハルパゴスは王を裏切ってキュロスに内通したのでしょうか? 実はキュロスの挙兵によりその生存を知ったメディア王アステュアゲスは、キュロス暗殺を怠ったハルパゴスに怒り、彼の息子を捕えて残忍な方法で処刑し、側近と軍の要職から外して辺境守備隊司令に左遷してしまったのです。

もはや老齢のハルパゴス将軍は大事な一人息子を殺され、彼の家系は断絶するしかありませんでした。そう、それがアステュアゲス王の狙いだったのです。この仕打ちにハルパゴスは王に対して激しい憎悪を抱き、これが彼をキュロスに内通させる事につながりました。

メディア軍内部の実情を良く知るハルパゴスを味方に付けたキュロス2世は、アステュアゲスの差し向けた討伐軍を次々に破ります。その司令官であったハルパゴス率いる部隊もペルシア軍に合流、もはやメディア軍は総崩れとなって敗走を続け、やがて紀元前550年、メディアの首都エクバタナが陥落、そして今日の混乱を招いた張本人アステュアゲス王は捕虜となってキュロス2世の前に引き立てられるのです。

どちらかといえば、キュロスよりも彼を深く恨んでいたのはハルパゴス将軍でした。そこでキュロス2世はアステュアゲスの処置をハルパゴスに任せてしまいます。ハルパゴスは息子の恨みを晴らすべく散々彼を罵倒した後、一切食を与えずにアステュアゲスを飢え死にさせたそうです。(因果応報とはまさにこの事ですね。)アステュアゲスの死により、6代160年余り続いたメディア王国は滅亡します。

メディアを征服したキュロス2世は、その後も快進撃を続けて周辺国を次々に征服していきます。

紀元前547年 リディア王国征服。

紀元前540年 エラム王国征服。

紀元前539年 新バビロニア王国征服。

その進撃を支えたのも経験豊かな軍人でもあったハルパゴス将軍でした。(紆余曲折あったとはいえ、結果的にこの人物はキュロス2世にしてみれば生涯の大恩人といえるでしょうね。人の縁とはつくづく計り知れないものです。驚)


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上はキュロス2世が在位中に征服した領土と、新バビロニア王国を滅ぼしてその都バビロンに入城するキュロス2世のイラストです。この時点で彼のペルシア帝国はオリエントのほぼ全域を支配下に置いていました。

紀元前529年、空前の大帝国を築いた稀代の帝王キュロス2世は81歳で崩御します。しかし、この時点において、ペルシア帝国はまだ正式な都を定めていたわけではありませんでした。なぜなら帝国の創始者キュロス2世は生涯征服戦争に忙しく、都はその都度転々と変わっていたからです。

それは彼の後を継いでペルシア帝国2代帝王となった長男のカンビュセス2世(?~紀元前522)の時代になっても変わりませんでした。カンビュセス2世は父王の果たせなかったエジプト征服を実現させ、帝国の領土をさらに広げたのですが、その後実弟スメルディスを擁立して反乱を起こしたある人物によって死に追いやられてしまいます。

その人物とは、ペルシア帝国最辺境のバクトリア地方総督であったダレイオスでした。


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上がそのダレイオスです。(紀元前558~紀元前486)彼はアケメネス王家の分家の一族で、アケメネス家の当主としてやがて紀元前522年、ペルシア帝国3代帝王の座に付きます。

ダレイオスはとても慎重な人物でした。キュロス親子の様に力ずくで従わせるのではなく、帝国内の有力諸侯に根回しして彼らに推戴される形で帝王の座に着いたのです。(帝国内の有力者全員の合意を得ているのですから反乱の心配は要りませんね。)以後、彼はダレイオス1世と呼ばれます。

このダレイオス1世こそ、今回の宮殿ペルセポリスを造営した人物でした。彼は即位2年後の紀元前520年から、巨大帝国ペルシアにふさわしい新しい帝都の建設に着手します。


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上の一連の画像は現在のペルセポリスの遺跡の姿と、復元想像図です。これを見ても分かる通り、宮殿は複雑に建て増しされた複合構造となっています。宮殿の造営を始めたのはダレイオス1世の代からですが、帝国が最盛期を迎え、彼の後を継いだ王たちが必要に応じて新たな部分を増築したためです。(人口は周辺の遺跡を含めた規模から推定しておよそ5万程度だったと推定されています。また、この遺跡はイランでも最も人気のある観光スポットで、世界中から観光客が後を絶ちません。また、良く見ると遺跡はかなり手入れをされており、土台部分が復元されているのが分かります。画像2枚目の遺跡の中央に建物が見えますが、これは発掘調査により出土した出土品を展示する博物館です。)

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この宮殿で最も注目すべきなのは、上の一連の画像を見て分かる通りなんといってもその彫刻の素晴らしさです。王に謁見する諸国の使節が美しいレリーフに刻まれています。この地域の建物は紀元前の昔から、粘土を固めた「日干しレンガ」で造られ、長い年月の間に風化で崩れてしまう事が多いのですが、このペルセポリスの宮殿はその全てが花崗岩や大理石の様な頑丈で硬く、高価な石材がふんだんに使われていました。(このペルセポリスは1979年という比較的早い段階からユネスコの世界遺産に登録されています。その登録基準の第一が、やはりこれらの素晴らしい彫刻群であったのは言うまでもないでしょう。)

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上はペルセポリスの最も有名な「百柱の間」の現在の姿と、その復元想像図です。かつて宮殿の天井を支えていた高さ25メートルに達する巨大な柱は、元は上の様に色とりどりの極彩色で彩られていました。

このペルセポリスの宮殿が完成した頃、アケメネス朝ペルシア帝国はその繁栄の絶頂期を迎えていました。特に先の3代帝王ダレイオス1世と、4代帝王クセルクセス1世(紀元前519~紀元前465)親子の時代にはギリシャ征服を企て、海を越えて大軍を差し向けます。「ペルシア戦争」の幕開けです。


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上はペルシア帝国最盛期の領土です。

この戦争はダレイオス1世が起こし、その子クセルクセス1世が引き継いで続けたもので(つまり、親父が始めた戦争を息子が継いだのです。笑)紀元前499年から紀元前449年まで、なんと50年も続いたのですが、「海」という自然の防壁を武器にしたアテネ、スパルタを中心とするギリシャ連合軍の長期持久戦により、最強を誇ったペルシア帝国軍をその都度撃退、その損害の大きさにペルシア帝国はついにダレイオス1世の孫である5代帝王アルタクセルクセス1世(?~紀元前424)の時代にギリシャと講和条約を結び、ギリシャ征服を断念します。

それまで躍進と拡大を続けてきたペルシア帝国も、このギリシャ遠征に失敗した頃からその繁栄に陰りが見え始めてきました。特に、ペルシア戦争を終わらせた5代帝王アルタクセルクセス1世の死後、アケメネス王家では王位争いが恒例となり、それに乗じて帝国内の支配地域で反乱も頻発し、帝国はゆるやかに衰退の道を辿る様になります。

そうして時が過ぎた紀元前356年、ギリシャ北部のマケドニア王国で、一人の王子が誕生します。その名は「アレクサンドロス」そう、後のアレクサンドロス大王です。成長して父王フィリッポス2世の死後マケドニア王となった彼は弱冠20歳の若さで軍事の天才振りを発揮し、わずか1年余りでギリシャ全土を統一、紀元前334年には父王の遺志を継いで宿敵ペルシア打倒のため大遠征を開始します。


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上がアレクサンドロス大王の彫像です。彼についてはその後のヨーロッパや中東においても「偉大な大王」として人々の記憶と歴史に深く刻み込まれ、彼を模した彫刻は数多く存在するのですが、もちろん彼がどんな顔立ちをしていたのかなど誰も知る由もありません(笑)その中で、記録や古い文献から、最も彼の顔立ちに近いとされているものです。

当時、ペルシア帝国の頂点に君臨していたのは12代帝王ダレイオス3世という人でした。(紀元前380?~紀元前330)彼は帝国の存亡をかけて、アレクサンドロスを迎え撃ちます。しかし、アレクサンドロス大王の強さはダレイオス3世の想像をはるかに超えるものでした。(相手が悪かったですね。笑)ペルシア軍は陸海ともにアレクサンドロス軍に敗れ続け、ついに都ペルセポリスもアレクサンドロス大王軍によって占領されてしまうのです。


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上はローマ時代にあのポンペイの遺跡に描かれたアレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦いの様子を描いたモザイク画です。

ペルシア帝国の都ペルセポリスに入城したアレクサンドロス大王は、まずその宮殿の壮麗さに圧倒されます。戦においては天才であった彼もまだ20代で若く、国を統治する王としては経験が未熟でした。その彼が、自らが討ち滅ぼそうとしている帝国の宮殿を見て次に抱いたのが「恐れ」です。それは幾多の戦いに勝ち続け、「恐れ」などというものなど抱いた事がなかった彼が初めて経験するものでした。

かつてペルシアは、ギリシャ世界をその存亡の淵にまで追い詰め、そのためギリシャ世界においてペルシアは「野蛮で凶悪な悪の帝国」そのものでした。マケドニア出身のアレクサンドロスも、ペルシア戦争について子供の頃から嫌というほど聞かされ、当然の事ながらペルシアを邪悪な帝国と考え、それが彼にペルシア遠征を思い立たせる大きな要因であったのです。

しかし、遠征を開始してからペルシア領内を進撃中に、敵ペルシアに対する彼の見方は大きく変わっていました。特に数十の民族を束ねる巧みな統治システムと、ギリシャには無い独特の高度な文化、これぞ世界帝国というものを目の当たりにして来たからです。

それまでのアレクサンドロスはギリシャ文明こそ世界最高のものであり、そのギリシャが頂点として世界を支配すべきと考えていました。しかし、ペルシア遠征によってペルシアの真の姿を目にし、彼は自分が生まれ育ったギリシャ世界と比較してそのあまりの違いに愕然となったのです。その集大成がペルセポリスの大宮殿でした。

「世界の全てを治めるとはこういうものか。これに比べれば、わがギリシャのなんと狭くて小さい事か。」

そして彼は、ある大きな決意を固めるのです。それはこの壮麗なペルセポリスの宮殿を焼き払うというものです。では彼はなぜこのペルセポリスを焼き払う決意をしたのでしょうか? ごく普通に考えれば、そのまま残してその後の統治に活かそうと考えるはずです。

これについては、現代においても考古学者の間で意見が分かれています。しかし、多くの学者たちの間で一致したものとされているのが、このペルセポリスを焼き払う事で、ペルシア帝国の威光を完全に消し去り、そのペルシアに代わる新たな支配者としての自分を人々にあまねく見せ付けたかったのではないか。というものです。そのためには、この宮殿にはなんとしても消えてもらわなければならない。それほどまでに、このペルセポリスはアレクサンドロス大王を恐れさせたのです。

こうして紀元前331年、アレクサンドロス大王の命によりペルセポリスは炎上します。それは同時にアケメネス朝ペルシア帝国の終焉の炎でもありました。その翌年、ペルシア最後の王ダレイオス3世が家臣の裏切りによりバクトリアで暗殺され、キュロス2世以来12代220年続いたアケメネス朝ペルシア帝国は滅亡します。

帝国の滅亡後、この地域では数多くの国々が勃興しては消え去っていきました。そして、炎上から2300年に及ぶ長い間にペルセポリスは人々の記憶から忘れ去られ、歴史の表舞台に登場する事は二度とありませんでした。しかし現在、かつて世界の中心として栄え、人種も言葉も民族も違う多くの人々が集まった都は、今は同じく人種も言葉も民族も異なる世界中の人々が再び集まる一大観光スポットとなって蘇っています。

次回に続きます。
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