暴君ネロの見果てぬ狂った夢の跡 ・ ドムス・アウレア

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は「暴君ネロ」の異名でその名を歴史に刻むローマ皇帝ネロが築いた「ドムス・アウレア」をご紹介したいと思います。

今回のお話の主役は暴君ネロなのですが、みなさんはこの人物について、一体どんなイメージをお持ちでしょうか? ローマ皇帝として悪逆の限りを尽くしたその名の通りの暴君? おそらくそういう印象が強烈なのではないかと思います。(かくいう自分もそうでした。)確かに、結果的に彼はそんな悪者に成り下がり、非業の最期を遂げた事から、2千年もの長い間人々にそんな風に語り継がれて来た事は事実です。

しかし、そんなネロも、最初からひどい暴君だったわけではないのです。物事にはどんな形であれ、そうなるに至った経緯というものがあります。というわけで、まずはそのネロという人物の生い立ちから今回のお話を始めたいと思います。


740full-nero-caesar.jpg

上は皇帝ネロの胸像です。残されている彼の像にデジタルで色彩を施したものです。歴史上の人物がどんな顔立ちをしていたのかというのは、多くの場合残された文献などの記録や、抽象的な絵などで想像するしかないのですが、ありがたい事にローマ時代の人物の彫刻は実物と見間違えるくらい大変写実化が進んだ時代であり、多くのローマ皇帝の胸像が残されています。こんな顔立ちをしていたんですね。

ネロ(37~68)は、正式な名は非常に長く、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスといい(笑)その身分はローマ帝国5代皇帝です。ローマ帝国といえば、およそ2千年前に成立した人類史上最初の超大国である事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。そして彼はその皇帝、つまり当時世界一の権力者であったのです。

このローマ帝国ですが、もちろんこの国も最初からこんな大国であったのではありません。大望を成す場合の最も有名な格言である

「ローマは一日にして成らず。」

の言葉通り、紀元前8世紀(今から2800年ほど前)に現在のローマの地に誕生した人口数千程度の小さな都市国家だったものが、徹底した共和制の仕組みの下に700年以上もの長い時間をかけて地中海全域を支配する広大な領域国家に成長し、やがてネロの高祖父(ネロの祖母の祖父)にあたるアウグストゥスが初代皇帝として即位した事により共和制から帝政に移行し、ローマ帝国となったものです。


Me-Augustus-Emperor-of-Rome.jpg

154.jpg

上がネロの偉大な祖先であるローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14)の有名な像と、ローマ帝国の最大領域図です。

ところで、このローマ帝国について詳しい方ならば良くご存知の事かと思われますが、実際のアウグストゥスの本名は「オクタヴィアヌス」といい、あのユリウス・カエサルの甥(カエサルの姉の子)で、志半ばで暗殺されたカエサルの遺志を継いで後継者として地中海世界を統一、ローマ元老院から「尊厳者」という意味の「アウグストゥス」という称号を贈られたのがその名の由来ですが、アウグストゥス本人は政・官・軍の全権を自分に集中させ、独裁権を握る一種の「国家元首」にはなったものの、存命中自らを「皇帝」と名乗った事は一度もありませんでした。つまり「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス」というのは、全て歴史上の後付けでそう呼ばれているものなのです。このあたりは、このローマ帝国という巨大国家のユニークで難解な部分です。(苦笑)

このアウグストゥスに始まる帝政ローマにおいて、彼の興した王朝は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれています。これはアウグストゥスの一族ユリウス家と、その妻リウィアの家系であるクラウディウス家を合わせたものです。

ネロは、そのアウグストゥスから数えて5代目のローマ皇帝にあたるわけですが、その血筋は純粋なアウグストゥスの直系というわけではありませんでした。なぜなら初代皇帝アウグストゥスは後継者の男子に恵まれず、その後に続いた皇帝たちも養子や甥などの傍系であり、ネロ自身もアウグストゥスの血を引いてはいたものの、それは女系であったからです。

では、ネロが皇帝に即位するに至った経緯とはどんなものだったのでしょうか? 事の起こりはネロの実母アグリッピナが先代の4代皇帝クラウディウスの皇妃になった事から始まります。


ccb436691f58b908a746b609aadfb7e6.jpg

上がローマ帝国4代皇帝クラウディウスの像です。(紀元前10~紀元後54)彼は初代皇帝アウグストゥスの皇妃リウィアの孫にあたりますが、生来病弱でユリウス・クラウディウス家一門の中でも疎まれ、長く日陰の道を歩み、耐え忍んで来ました。そんな彼が皇帝に即位出来たのも「毒にも薬にもならない目立たぬ凡人」の彼ならば、飾り物の傀儡(かいらい)としてうってつけだと皇帝の親衛隊に擁立されたからです。紀元41年、この時すでに彼は50歳になっていました。

しかし、「お飾りに過ぎない」と周囲に全く期待されていなかった彼は、皇帝となるや意外な有能さを発揮します。破綻寸前だった帝国の国家財政を立て直し、それまでローマ人あるいはローマ市民権を持つ者だけに限定していた元老院議員の門戸を、ローマ帝国が支配していた属州や異民族、果ては奴隷に至るまで大きく広げ、有能な者はその身分や出身を問わず積極的に登用していく態勢を整えたのです。さらに帝都ローマへの飲料水の供給のため、自らの名を冠した巨大な水道橋を建設、同時に食糧の安定供給のためにローマの外港としてオスティアの港湾を大規模に整備、外征にも熱心で、現在のイギリスであるブリタニアに兵を進めてこれを領土とするなどの功績を残します。


クラウディウス帝は病弱であったため、ユリウス・クラウディウス家に限らずローマ支配階級の名門の男子の義務であった「軍務」に付く事は出来ませんでした。しかし、持て余す時間を読書と学問に費やした事が、彼を知識豊富な政治家に育て上げたのでしょう。それゆえ、彼は「文人皇帝クラウディウス」と呼ばれています。

そんなクラウディウス帝でしたが、家庭生活には恵まれませんでした。これまでに3度結婚に失敗し、長男には先立たれ、ローマ皇帝という頂点の地位にありながら、肉親愛に恵まれぬ孤独な私生活だったのです。

そのクラウディウスに近づいたのが、ネロの母親であるアグリッピナ(15~59)です。彼女もユリウス・クラウディウス家の一族ですが、大変権力欲の強い野心家で、最初の夫との間に息子ネロを産み、その夫が死ぬと裕福な次の夫と再婚、数年後にその夫も亡くなると遺産を手に入れ、その金を賄賂としてクラウディウス帝の重用する側近たちにばらまき、彼女が皇帝に近づけるよう画策したのです。

こうしてうまくクラウディウスに近づいたアグリッピナは傷心の皇帝に甘い言葉で優しく接し、女性関係で失敗の連続であったクラウディウスはたちまちその色香に迷わされ、彼女はまんまとローマ皇帝妃の座に着くのです。紀元49年の事でした。

皇妃となったアグリッピナの次の狙いはもちろん息子ネロを次の皇帝にする事です。そのために彼女は夫クラウディウス帝にネロを養子にする事を勧め、後継者の息子がいなかったクラウディウス帝はそれを認めてしまいます。そこまですれば、もう彼女の願いは叶ったも同じです。そして彼女はその総仕上げとして、恐ろしい計画を実行します。それはもはや用済みとなった皇帝クラウディウスの暗殺です。

もともとアグリッピナはクラウディウスへの愛情で結婚したのではなく、自らの権力と野心の成就のためでした。後は息子ネロを次の皇帝にすれば、皇帝の実母である皇太后としてローマ帝国の実権を握る事が出来るのです。そのためには夫クラウディウスにあの世に行ってもらわなくてはなりません。彼女は宴の席の料理に「毒キノコ」を混ぜ、クラウディウス帝を毒殺してしまいます。

こうしてついにネロがローマ帝国5代皇帝として即位するのです。18歳の若き皇帝の誕生です。全ては母アグリッピナの思惑通りでした。若いネロの即位はローマ市民に歓呼で迎えられ、誰もが帝国の明るい未来を思い描いていました。この時、一体誰がその後の「地獄」を想像出来たでしょうか。

ネロの治世は最初の2年ほどは、長いローマ帝国の歴史の中でもまれに見る善政でした。しかし、それはネロの個人的な采配によるものではありません。まだ20歳前後の何も知らない若者にそんな政治力があろうはずがなく、それらはネロの家庭教師を務めた哲学者セネカ(?~65)という立派な政治的後見人の存在があってこそのものでした。

また、この頃からネロと母アグリッピナとの関係がギクシャクし始めます。アグリッピナは事ある毎にネロに干渉し、政治はもちろん私生活の面まで息子を支配しようとしたのです。そんな母親に対し、次第にネロは母を疎ましく思う様になり、どんどんそれはエスカレートしていきます。もはやネロにとって、母アグリッピナは目の上のこぶの邪魔者でしかありませんでした。やがてネロは皇帝直属の親衛隊を差し向け、母アグリッピナの抹殺を命じるのです。(思えばネロは野心と謀略にまみれた母の姿を見て育ったのです。その息子なのですから、その血を受け継いでいるのは当然ですね。皮肉にもアグリッピナは自らが産んだ息子によって生涯を閉じる事になってしまいました。因果応報とはまさにこの事です。)

最大の障害であった母を抹殺したネロを諌める人物は、もういませんでした。ネロは最初の皇妃オクタヴィアを3年後の62年に殺してしまいます。さらに、政治ブレーンであったセネカまでも65年に粛清してしまうのです。

ネロにとって、自分に歯向かう者はもちろん意見する者すら「邪魔者」でしかありませんでした。そしてそれらを次々に捕えて処刑、暗殺を繰り返し、自らは快楽と怠惰に溺れる手の付けられない「暴君」へと変貌して行ったのです。金に糸目をつけない娯楽競技にうつつを抜かし、女色はもちろん男色にもふけり(なんと気に入った美少年を「去勢」させ、女装させて周囲にはべらせたそうです。)果ては数千の観衆の前で皇帝自ら歌や芝居に興じるなど、その振る舞いは目も覆うばかりでした。そんな皇帝にあるまじき姿に失望し、元老院では密かに反ネログループが政権転覆の動きを加速させていく様になります。

そんな矢先に起きたのが「ローマ大火」事件です。


painting.jpg

上がローマの大火を描いたものです。

64年7月、ローマ市内の一画に起こった火の手が強風に煽られ、ローマ市街の3分の2を焼き尽くす大火災となったのです。さすがにこの時はネロも皇帝として自ら陣頭指揮を取り、火災の鎮火と被災者を収容する仮設住居や食料の手配にあたりました。しかし、この時にどこからかとんでもない「噂」が流されます。

「皇帝は宮殿でローマの焼け落ちる姿を眺めながら竪琴を片手に歌を歌っていた。」

市民の間に広まったこの噂をもみ消すため、ネロは思い切った手段に打って出ます。それは、なんとこの火災を当時帝国内外に広まっていたキリスト教徒が引き起こしたものとして、キリスト教徒を片っ端から捕えて公開処刑するというものです。もちろんこれは全くの濡れ衣であり、しかも、そんな事をしても、一度立てられた悪い噂はそう簡単に消えるものではありません。

後にローマ帝国はキリスト教国家となり、ローマを中心として全ヨーロッパがキリスト教に染まっていくわけですが、まだこの頃の帝国は多神教であり、キリスト教は多くの宗教の一つに過ぎませんでした。そのキリスト教徒を多数処刑した事により、後にネロは悪逆非道な暴君として、欧米社会で根強くその名を記憶される事になったのです。

さて、それまで遊び呆けていたネロには大きな仕事が待ち受けていました。それはもちろん焼け野原となった帝都ローマの再建です。ここでネロは強い指導力を発揮します。実は今日では意外なのですが、それまでのローマは木造家屋が密集するお世辞にも綺麗な街並みではありませんでした。それがゆえに今回の火事で大きな被害が出たのです。

そこでネロは、火災に強い都市造りのために大規模な都市計画に着手します。狭かったローマ市内の道幅を広げて建物の高さを制限し、各家は固有の壁で囲み、共同住宅には中庭と消火用器具の設置、住居は一定の部分を耐火性のある石で造る事などを義務付けました。火災に対応出来るよう水道も整備され、ローマの街並みはそれまでの木造から頑丈な石造りの家々が立ち並ぶ壮麗なものに生まれ変わったのです。それはまさに帝国の都にふさわしいものでした。

それと並行して、ネロはかねてから考えていたあるプロジェクトを実行に移します。それは今まで誰も造った事の無い巨大な宮殿を都ローマの中心に建設し、自らの名を歴史に永遠に残す事です。その宮殿の名は「ドムス・アウレア」 ローマ帝国の公用語であったラテン語で「黄金宮殿」と呼ばれるものです。


DA80.jpg

DA012.jpg

DA021.jpg

DA022.jpg

DA051.jpg

上がその「ドムス・アウレア」の復元想像図と内部の様子をデジタルで再現したものです。高価な大理石をふんだんに使い、宮殿内の壁や天井は隙間無く見事なモザイク画やフレスコ画で覆われ、無数の彫刻が至る所に置かれていました。また、広大な庭園には皇帝の舟遊びのための大きな泉も配置されていました。(みなさんもローマ人になったつもりで想像して見てください。笑)

ネロがこの宮殿を黄金宮殿と名付けたのは、実際に宮殿を黄金で覆い尽くそうとしたからではありません。決して錆びずに輝く黄金は永遠の象徴。ネロは宮殿が自らの名とともに永遠に残る事を願ったのです。

しかし、この皇帝の誇大妄想は、ローマ市民の大不興を買ってしまいます。完成した宮殿のあまりの巨大さと壮麗さに、またもこんな噂が市民の間に広がります。

「皇帝はこの宮殿を造るためにわざとあの火事を起こしたのだ。」

ローマ市民の間のネロの人気は、この頃から坂道を転げ落ちる様に無くなっていきます。その隙を突いて、ローマを遠く離れたガリア(後のフランス)の地で、ヒスパニア総督であったガルバ(紀元前3~紀元69)が反乱を起こします。ガルバは自ら「皇帝」を名乗り、数万の大軍でローマに迫ってきたのです。ネロの手元には皇帝直属のおよそ1万の兵力からなる親衛隊がありましたが、長年の放蕩三昧の結果、すでに彼はその親衛隊からも見放されていました。元老院はこの機に乗じてネロを皇帝の座から引きずり落とすため、ネロを「国家の敵」とし、ローマに入城したガルバを新皇帝として迎え入れました。

孤立無援のネロは愛人の一人パオラに与えた別荘に逃げ込みます。しかし、元老院と新帝ガルバの差し向けた追っ手の軍勢に包囲され、ついに自害してその乱れた生涯を閉じました。時に紀元68年6月、わずか30歳でした。

ネロの死後、彼が造った夢の宮殿ドムス・アウレアは、その後の混乱と度重なる火災によって、そのほとんどが消滅してしまいました。


fresca_de_tavan.jpg

上はローマ市内の地下に残るドムス・アウレアの遺構の一部です。

かつてここに、自らの名を永遠に残そうと狂った夢に取り付かれたある皇帝が、巨大な宮殿を造り上げました。しかし、その皇帝の名は歴史に「暴君」として永遠に刻まれ、彼の望みは醜くゆがんだ形で叶えられる事になりました。

今に残るのは、朽ち果てた天井に残るかつての見事なモザイク画の残骸と「暴君ネロ」にまつわる数々の狂ったエピソードだけです。

次回に続きます。
スポンサーサイト
フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR