巨大な帝国の皇帝が夢見た小さな帝国 ・ヴィラ・アドリアーナ

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、前回に引き続き古代ローマ時代から、ローマ皇帝の一人であるハドリアヌスの築いた「ヴィラ・アドリアーナ」をご紹介したいと思います。

ところで、みなさんはローマ帝国という国家がどれほどの間存続したかご存知でしょうか? 前回もお話した様に、このローマ帝国という巨大国家も最初から大帝国であったわけではありません。実は意外なのですが、ローマ帝国はその建国の時期がはっきりしていないのです。有名な伝説では、最初の王ロムルスが紀元前753年に即位し、そのロムルスの名にちなみ、「ローマ」という国名になった(らしい)といわれていますが、これはあくまで伝説上の話であり、そもそもロムルスという人物が実在したかどうかすら分かっていないのです。

ともあれ、およそ紀元前8世紀の中ごろ、現在のローマの地に人口数千の小さな王制都市国家として成立したものが、やがて紀元前509年に王制を廃止、王の諮問機関であった元老院の有力者たちの合議によって国策を決する共和制に移行、500年近く拡大発展を続けて地中海全域を支配する巨大な領域国家へと成長し、その後、紀元前27年に初代皇帝アウグストゥスが即位して帝政に移行、そしてあのゲルマン民族の大移動に代表される異民族の帝国領内への侵入により、紀元395年に帝国が東西に分裂して二つに分かれ、一つの国家としては終わりを迎えるまでが古代ローマの歴史上の流れのプロセスです。

つまり、ローマが帝国であったのは、厳密には帝政を敷いた紀元前27年から紀元395年の東西分裂までのおよそ422年間という事になります。その帝政ローマ時代において、帝国の頂点に君臨していた皇帝の人数はおよそ80名にのぼり、今回のお話の主役であるハドリアヌスは、14代目の皇帝に当たります。


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上がローマ帝国第14代皇帝ハドリアヌスです。(76~138)前回お話した5代皇帝ネロと同じく、残されている彼の彫像にデジタル彩色を施したものです。(注)もちろん自分が作成したのではありません。無芸無能の自分にそんな高度なスキルはありません。(汗)海外の拾いものの画像です。(笑)

といっても、このハドリアヌスという人物についてはよほどの歴史好きな方(とりわけローマ帝国について詳しい方など)でない限り、知っている人はそうはいないと思います。そこで、彼の経歴とローマ皇帝に即位した経緯、そして彼が生きた時代背景を簡単にご説明しておきたいと思います。

ハドリアヌスの正式な名は、前回お話した5代皇帝ネロと同じく非常に長いもので、プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌスといいます。(苦笑)帝政ローマにおいては、一代限りの皇帝を除くとその400年以上の存続期間に7つの王朝が交代しましたが、彼はその中の第3王朝ネルウァ・アントニヌス朝3代皇帝です。

この王朝は7人の皇帝が君臨し、そのうち、初代である12代皇帝ネルウァ(35~98)から16代皇帝マルクス・アウレリウス(121~180)まで5代続けて非常に有能な皇帝たちが続いたため、歴史上彼らが統治した時代は「五賢帝時代」と呼ばれ、ローマ帝国がその繁栄と強大さの絶頂期を迎えた時代といわれています。ハドリアヌス帝は、その五賢帝の中の一人でした。

では、彼はどのようにして皇帝の座に登り詰めたのでしょうか? 話は彼の先代の皇帝の時代から始まります。彼の前の皇帝は13代皇帝トラヤヌスといい、ローマ帝国の領土を歴史上最大に押し広げた名君でした。


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上がハドリアヌスの前の13代ローマ皇帝トラヤヌスです。(53~117)先に述べた様に、彼は非常に有能な皇帝であり、政治家として、軍人として、また文化人としても優れた人物で、人柄も公平かつ公明正大であったそうです。それゆえ、その後の歴代皇帝はもちろんローマ帝国滅亡後の中世から今日に至る長きに亘り、ヨーロッパの王候君主たちがその模範とするとともに、多くの歴史家の間でもその業績は高く評価されています。彼の治世において、ローマ帝国はその歴史上最大の版図を築いたのです。

しかし、そんな英邁なトラヤヌス帝でしたが、残念な事に子宝に恵まれませんでした。彼はもちろん結婚して皇妃もいたのですが、その皇妃との間には子が出来なかったのです。といっても、皇妃との仲が悪かったわけではなく、むしろ愛妻家で、先に述べた様に彼の人柄から、他の女性に手を出すのを良しとしなかったのでしょう。

ハドリアヌスはそのトラヤヌスの従兄弟の子にあたり、血筋は遠いですが、すでに若くしてその有能さを周囲から認められていました。そこで、トラヤヌス帝は同じネルウァ・アントニヌス家の一族の中からハドリアヌスを自らの後継者と考える様になります。

ハドリアヌスは将来の後継者として、20代に入るとまずは青年将校として各地のローマ軍団で軍務に付き、25歳の時にトラヤヌス帝の秘書となります。その後、トラヤヌス帝が生涯最も情熱を傾けた数々の外征戦争(101~106年のダキア戦争、114年のパルティア戦争など、ダキアとパルティアとは現在のルーマニアとイランの事です。)では軍団司令官(今でいう師団長クラスでしょうか。)として多くの実戦経験を積み、皇帝を補佐して司令本部で優れた手腕を発揮、皇帝を大いに満足させます。

これらの戦争で、ローマ帝国軍はダキアを征服、パルティア軍を撃滅してメソポタミアまでをもローマの領土にするなど大勝利を収めます。しかしその矢先の117年、皇帝が急病で倒れてしまいました。トラヤヌス帝は、ハドリアヌスをシリア総督兼パルティア遠征軍総司令官に任命して前線を離れ、ローマへの帰途に着きますが、病状は悪化、死期を悟った彼はハドリアヌスを正式に養子とし、次期皇帝に指名したのです。

そのたった数日後、トラヤヌス帝は崩御し、ハドリアヌスは先帝の後を継ぎ、シリアで14代皇帝に即位します。西暦117年8月の事でした。

「新皇帝ハドリアヌス万歳!」

新帝ハドリアヌスは、配下のローマ帝国東部方面軍将兵の歓呼を受け、それに答えます。この時点において、彼は歴史上最大規模にまで拡大した「巨大帝国」の皇帝となったのです。しかし、ハドリアヌスは皇帝となった最初の「仕事」として誰もが驚くべき事を決定します。それはなんと先帝トラヤヌスの下で大軍を繰り出し、あれほど苦労してパルティアから手に入れ、ローマ帝国の属州としたメソポタミア、アルメニアの二州を「放棄」するというものです。


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上がハドリアヌスが皇帝となった直後の西暦117年におけるローマ帝国の支配領域です。各属州(つまり、現代のわが国で言えば都道府県ですね。)の境界線が良く分かります。この時点において、ローマ帝国はその歴史上最大規模に拡大していました。ハドリアヌスが放棄する事に決めたメソポタミアとアルメニアは、上の図の最も右側になります。

それにしても、なぜ彼は即位早々に、せっかく手に入れた広大な新領土を放棄するという大胆な決定を下したのでしょうか? 普通に考えれば理解に苦しむ所です。実は、これにはある切実な問題が大きく影響していました。その切実な問題とは、増大する軍事費すなわち「お金」の事です。

実は、この時ローマ帝国は、国家予算のおよそ半分を軍事費に投じていたのです。特に先帝トラヤヌスの時に、先のメソポタミアとアルメニア、それにダキア(現在のルーマニア)に大軍をもって侵攻、これら一連の征服戦争によって膨らんだ巨額の軍事費が、帝国の国家財政を大きく圧迫していました。

新しく手に入れた領土には、その維持と防衛のために軍を駐留させなければなりません。その経費と、手に入れた領土から得られる利益を比較すると、完全な「赤字」になってしまうのです。

そこで彼は、これらの新領土を全て放棄し、帝国の国境線を以前の状態にまで戻そうとしたのです。都合の良い事に、これらの地域にはちょうど大きな川が流れていました。パルティアとの間のメソポタミア付近にはユーフラテス川、ダキアにはドナウ川です。川という自然の地形を利用して、これを帝国の国境線に確定するつもりでした。

余談になりますが、ローマ帝国軍というのはその歴史上、通算するとおよそ50の軍団があったそうです。ただし、それら全てが常時編成であったのではなく、戦いに敗れて全滅したり、臨時編成で解散されたりした部隊もあったので増減があります。しかし、それらを差し引いても、40個軍団はあったとされています。ローマ軍は全てローマ市民権を持つ者だけで構成され、一つの軍団の定員は平時でおよそ5千から7千程度(現代の陸軍の編成ならば「旅団」規模ですね。)だったそうですが、大きな戦争になれば大規模に増員が行われ、1万5千程度(1個師団ほど)にまで増強される事もありました。

帝国の外側には、東のパルティア王国以外にも、北には強力なゲルマン民族が帝国の富を狙っており、それらの敵から帝国を守るためには、常備兵力として最低でも40個軍団、兵力にして25万程度は必要でした。そしてハドリアヌス帝の時代、ローマ軍の総兵力は35万を超えていました。


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上はハドリアヌスの時代の金貨と銀貨です。それまで95%以上の高い純度を誇っていたこれらのローマ貨幣は、膨らむ軍事費の対応のためにこの頃から純度が下げられ、彼の時代には80%台になっていました。

一口に「軍事費」と言うと、私たちはすぐに兵器などにかかる費用だと思ってしまいますが、軍事費というのはそれだけではありません。兵士たちに支払う給料すなわち「人件費」も軍事費なのです。そのためハドリアヌスは、新しく得た領土を切り捨て、その駐留軍を削減して膨らむ軍事費を抑制したかったのです。

振り返れば、ローマ帝国はそれまで拡大の一途を突き進んで来ました。そしてその結果、帝国の国境線は総延長1万5千キロにまで達し、その長い国境線を守るために多くの守備隊を置かねばならず、その維持費と経費などの軍事費が帝国の国家財政の大きな負担になっていました。そこで、その打開のため、ハドリアヌスは歴代皇帝で初めて帝国の縮小を試みた皇帝だったのです。

これらによって、計算上はおよそ8万から10万の兵力が削減出来るはずでした。しかし、このハドリアヌスの「軍縮計画」に異を唱える集団が彼の前に立ちはだかります。それはローマ帝国の「国会」に相当する元老院です。彼ら元老院議員は帝国の有力者600名から成り、その大半が自ら各軍団の将軍として戦地に赴き、帝国の拡大に貢献してきた人々でした。

彼ら議員たちは、灼熱の砂漠地帯で得られるものが特に無いメソポタミアとアルメニアの放棄には賛同したものの、ダキアの放棄には断固反対しました。なぜならダキアには金銀を産する大鉱山があったからです。やむなく、ハドリアヌスはダキア放棄を断念せざるを得ませんでした。

その後、ハドリアヌスは4年ほど都ローマで国政に専念しますが、そうしている内に彼の中に、ある思いが沸々とわき上がります。

「ここにいるだけでは帝国の全容が把握出来ぬ。一度わが帝国の全てを見てみたい。」

そして彼は、これも歴代皇帝で初めての大視察旅行に出発するのです。まず、彼が向かったのは帝国の最北端であるブリタニア(今のイギリス)です。ここはハドリアヌスの時代からさかのぼる事70年ほど前、4代皇帝ティベリウスが遠征軍を差し向けて征服したものですが、ブリタニア全土を完全に征服したわけではありませんでした。ローマ帝国が支配していたのはブリタニアの南部と中部すなわち後のイングランドまでで、後のスコットランドとなる北部にはケルト人(ローマ人は彼らを「カレドニア人」と呼んでいたそうです。)がローマの支配に頑強に抵抗していたからです。

ここを視察したハドリアヌスは、無理をしてカレドニアを征服しても、最辺境のこの地から得られるものはほとんど無く、かえって余計な軍事費がかかるだけだと判断し、ブリタニア方面軍に対してケルト人との国境線上に、ブリタニア本島を東西に分ける長さ120キロに及ぶ長大な城壁の建設を命じました。これが「ハドリアヌスの長城」です。


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上がハドリアヌスの長城の位置と現在の姿です。城壁の石材は、後の時代にその多くが建築資材として持ち去られてしまったために今では低くなっていますが、建造当時は高さ4~5メートル、厚さも2メートル以上あり、城壁の外側、つまり敵であるケルト人のいる北側には、深さ3メートル以上の空堀が掘られていました。(といっても、最初からこの様な石造りの堅牢な城壁として建造されたのではありません。ハドリアヌスが命じた時には高さ3メートルほどに土を盛り、その上に木の丸太で柵を設けた急ごしらえの「土塁」で、その後に10年以上の時間をかけて石造りの城壁に増強されたそうです。)

1・5キロ(1マイル)ごとに、兵士たちが駐留する詰め所と監視塔(マイル・キャッスル)が設けられ、8~10名の守備兵が小隊長の指揮の下で国境の警備に当たっていました。さらに6キロ間隔で要塞も建設され、500~600名ほど(一個大隊程度でしょうか。)の部隊が配備されていたそうです。(そこから割り出すと、この地域のローマ軍の国境守備兵力はおよそ1万余りというところですね。)

ハドリアヌスがこの地にこの様な長大な城壁を築かせたのには理由があります。ローマ帝国の国境線の総延長は、先に述べた様におよそ1万5千キロという途方もないものですが、その大半は海と川、砂漠や深い森などを自然の壁とする事でカバー出来ました。しかし、ここだけはそうした天然の要害がないのです。そこでこうした人工的な構造物がどうしても必要だったのです。

それから、ハドリアヌスの帝国各地を巡る大巡察旅行が始まります。それは、ギリシャ、エジプト、シリア、ヒスパニア、ガリアと、地中海全域に広がる帝国を網羅する、それまでの皇帝はもちろん彼の後の皇帝ですら誰も行わなかった長い旅でした。しかし、ここで疑問に思うのが、その間帝国の政治はどうしていたのか? という点ですが、そこで再び登場するのが元老院です。

もともと元老院はローマの国政を運営するための機関です。旅先のハドリアヌス帝の指示に従ってそれを行っていました。つまり皇帝は、ただ元老院の議案に修正を加えるか、許可や却下のサインをするだけで良かったのです。ハドリアヌス帝の巡察旅行は足かけ13年に及び、彼が都ローマに戻ってきたのは58歳の時でした。

ハドリアヌスはローマに戻ると、まるで人が変わった様に「人嫌い」になったといわれています。特に、100万の人口にあふれる大都会ローマを嫌い、都を離れて郊外のティボリの森に広大な宮殿を建設して移り住みます。それが今回お話しする宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」です。


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上がヴィラ・アドリアーナの全景の模型です。この宮殿は広さがなんと120ヘクタールもある広大なもので、1999年にユネスコの世界遺産に登録されています。

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上の一連の画像はヴィラ・アドリアーナの現在の姿です。ここには広大な庭園はもちろん劇場、図書館、大浴場、運動場、謁見の間、迎賓館、展望台など、およそ考えられるあらゆる全てのものが整えられていました。ハドリアヌスの死後、他の皇帝の何人かが離宮の一つとしてまれに活用していた様ですが、ローマ帝国滅亡後に放棄され、「石切り場」として石材が持ち去られて破壊されてしまいました。上の写真に残る彫刻などは、池の底に沈んで幸運にも破壊を免れた物のレプリカを、おそらくその位置に置かれていたと思われる場所に立てたものです。(本物はもちろん博物館に展示されています。)特に、その中で注目すべきなのは、画像最後の2枚の通称「海の劇場」と呼ばれる一画です。

ここは、ハドリアヌス帝が普段の居住スペースとして造らせたもので、執務室、寝室、浴室、書斎などの部屋が中央の丸いスペースに区分けされ、その周りを池が囲んでいるというおそらく古今東西歴史上ここだけではないかという非常にユニークなものです。これを見るだけで、このハドリアヌスという皇帝がとても繊細かつ複雑な性格であったのがうかがえます。

ハドリアヌス帝が極度の人嫌いになった原因といわれる一つのエピソードがあります。実はハドリアヌスは無類の男色家でした。多くの美少年、美青年を「愛人」として周囲にはべらせ、「夜伽」の相手をさせていました。その中で、最も皇帝が愛したお気に入りの美青年が「アンティノウス」という若者です。


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上がそのアンティノウスの像です。

しかし、このアンティノウスが、ハドリアヌスがエジプト滞在中にナイル川で謎の死を迎えてしまったのです。まだ20歳に満たない若さでした。ハドリアヌスはその死を深く悲しみ、ローマに戻ってからもヴィラ・アドリアーナに引きこもってしまうのです。

ハドリアヌスはその13年に及ぶ長い巡察によって、自らが頂点に君臨する巨大帝国ローマの現実をまざまざと垣間見て来ました。繁栄により贅沢と快楽に溺れる人々、その上で確実に進んでいた国家財政の破綻の兆候、最強を誇ってきたローマ軍の内部分裂と弱体化、一筋縄ではいかない老獪な元老院の腐敗、そう、一見すると繁栄の絶頂期を迎えていたローマ帝国は、すでに衰退の兆しを見せ始めていたのです。そして彼には、その先に待ち構える「滅亡」への足音が確かに聞こえていました。

「永遠の帝国ローマ。そんなものはすべて幻だ。このままではわが帝国は取り返しの付かない事になる。帝国の国庫はすでに市民諸君を養える余力など無い。市民諸君は今すぐ生活を改め、身の丈にあった暮らしをすべきだ。」

皇帝は行く先々でこの様に演説し、人々を戒めようとしました。しかし、一度贅沢で優雅な生活に慣れてしまった人々は、誰もその言葉に耳を傾ける者はいませんでした。

「皇帝は我々市民から豊かな暮らしを取り上げようとしている。」

こうした世論が帝国内にあふれ、ハドリアヌスは孤立してしまうのです。

「これがローマの現実の姿だ。この帝国は広すぎて、とても私一人では治めきれぬ。」

皇帝は吐き捨てる様にこう言い放ちました。そして彼は、自分が巡察で見た帝国各地の思い出の風景を箱庭の様に集め、その集大成として造ったこの宮殿「ヴィラ・アドリアーナ」に閉じこもってしまいます。そう、この宮殿は皇帝が理想とする帝国のあるべき姿を表現したものだったのです。それはまさに「小さな帝国」でした。

晩年のハドリアヌス帝はこの宮殿で誰も寄せ付けず、忍び寄る滅びの坂道を転がり落ちようとしている帝国の行く末を按じ、愛するアンティノウスの思い出に浸りながらひっそりと暮らし、西暦138年に62歳で崩御しました。

現在、ローマの街には至る所に歴代の皇帝たちを称える多くのモニュメントが残っています。凱旋門、記念柱、神殿の類いは数知れず、しかし、その中で、ハドリアヌスの業績を称えるものは何一つ残されていません。ローマ帝国の行く末を誰よりも按じ、改革を訴えた皇帝に対するそれが、ローマ市民の答えでした。

ハドリアヌスの死後、ローマ帝国はさらに2代続けて有能な皇帝が統治したため、その後も40年余り繁栄を謳歌し続けます。そうして時を重ねるうちに、帝国の国家財政は悪化の一途をたどり、破綻寸前の危機に陥っていきました。しかし、それでも、贅沢に慣れてしまったローマの人々は、遊興三昧の生活を手放そうとはしなかったのです。

やがて3世紀に入ると、それまで帝国の外側に封じ込められていた異民族が、国境線を破って帝国領に侵入を繰り返す様になります。しかし、その国境にはかつての栄光ある最強のローマ軍団の姿はもうありませんでした。こうしてローマ帝国はハドリアヌスが恐れた通り、滅亡への道を転がり落ちていくのです。


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上はハドリアヌスの長城の前で微笑む少年の姿です。彼の遠い祖先も、かつてこの地を守っていたローマ軍の兵士だったのかも知れませんね。(笑)

次回に続きます。
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