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豊臣家と徳川家の財力・兵力の比較(前編)

みなさんこんにちは。

今日は誰もが知ってる戦国の覇者である豊臣秀吉(1537~1598)と、徳川家康(1543~1616)について、彼らが一体どれほどの財力と兵力を持っていたか、考えてみたいと思います。

秀吉と家康。この二人の事を知らない日本人は、まともな社会人なら恐らくいないでしょう。


この二人の人生と覇業については、古くから数々の小説、テレビドラマや映画などで語り継がれて大抵の事は知られており、今さらここで語るまでも無いと思うのでこの場では省きますが、今回はあまり知られていない両家の収入源や石高などの経済的な面、つまり「お金」の面を、分かっている範囲の数字で比較してみました。

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秀吉はじめ、信長や家康など戦国大名のお金にまつわる事柄について詳しくお知りになりたい方は、上の小和田哲男さんの本が良書です。ページ数は128ページで薄いですが、特に秀吉の金儲けのエピソードが最も面白い部分です。この小和田さんは戦国史がご専門で、NHKの歴史番組などに良く出演されているので、歴史好きの方ならばご存知の方も多いと思いますが、彼の著作はお人柄が出ているのかどれもとても読みやすいので、みなさんの書棚の一冊にお薦めいたします。

さて、まず秀吉の方から話を始めますが、彼が天下を統一した後、関白職を甥の秀次に譲って太閤となった最盛期の石高がおよそ222万石で、これは大坂周辺の直轄領と全国に持つ所領(太閤蔵入地)から成っていました。この時代、1万石クラスの大名でおよそ300前後の兵を養えたそうですので、それから割り出した彼の保有兵力は6万5千余という所でしょうか。

但し、この数字は秀吉個人だけのもの,つまり彼の直属の兵力であり、加藤清正や石田三成等の家臣、後に述べる実弟の秀長、甥の秀次、宇喜多秀家ら養子などは含んでいないので、それらを入れれば、この時期の秀吉の最大動員兵力は豊臣家だけで総勢20万に近かったのではないでしょうか。

そして秀吉の最大の富の源は何と言っても、佐渡、石見、生野など、全国の金山、銀山から上納される莫大な金銀があります。

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上の画像は秀吉が造らせた天正大判で、大きさは直径17センチ、重さは165グラムもあり、これを毎年全国から3万枚以上、銀は70万両以上を納めさせ、大坂城と晩年移り住んだ伏見城の二つに分散して蓄えていた様です。大判1枚で約10両らしいので、これだけで毎年100万両を越える収入があったものと思われます。(ちなみにこの天正大判は、2004年にオーストリアで鋳造されたウィーン1000オンスハーモニー金貨が出るまで、長らくわが国が誇る世界最大の金貨でした。)

さらに本拠地である大坂に、堺や近江その他畿内の商人を移住させ、彼らに大いに商売を奨励し、その収益を儲けの割合に応じて税として徴収していました。当時の大坂は、秀吉のこうした政策により、人口30万の大都市としてまさに「黄金時代」を迎えました。

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それ以外に、南蛮貿易なども手広く行っていた様ですが、これは上記の商人たちへの課税と同じものと考えます。

秀吉は、主な収入源をこの様に三段構えで持つ事で、自らが築いた豊臣家永遠の繁栄の礎としたかったのでしょう


しかし、金銀は貯めるばかりで使わなければ何の役にも立ちません。そのため彼は、生来の派手好きな性格も相まって大いに金を使っています。

大坂城や聚楽第などの絢爛豪華な巨大建築(黄金の茶室なんてありましたね。)大坂の町の大拡張や河川の治水(大公共事業)京の朝廷の公家達への献上金(裏金や賄賂)果ては従えた配下の大名たちを大坂城の大広間に集め、目の前で金5千枚、銀2万枚以上をばら撒き(一日で35万両ほど使ったそうです。)彼らがあたふたと拾い群がる姿を見て大笑いしていたとか。(太閤金配り。富と権力の誇示)

この様に収入も多かったが、使う時は惜し気もなく湯水の様に使ってしまうので、秀吉が天下を取る上で最も貢献した人物で、見えない苦労をさせられた人がいます。彼の実の弟である大和大納言、豊臣秀長です。

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上が秀吉の実弟である豊臣秀長の肖像です。(1540~1591)

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この豊臣秀長について詳しくお知りになりたい方は、上の堺屋太一さんの本が良書です。天下人秀吉に関する著作は数え切れないほどあるものの、その秀吉の天下取りを陰で支えた弟の秀長については、近年までその存在すらほとんど知られていなかったため、堺屋氏が全国を旅して独自に取材し、文献や記録を集めて書き表した入魂の作品です。ページ数は上・下巻ともほぼ同じ340ページほどですが、堺屋先生は単に歴史の事象を書き連ねていくのではなく、現代の私たちが日常接する企業や組織、経済などを例に取り、当時の豊臣時代の人々のものの考え方を、現代に生きる私たちが分かりやすく、共感を覚える形で書かれている点に大変な感銘を受けますね。

この人は、身内が少なかった秀吉の最も信頼する弟(異父兄弟の説もあります。)であり、その信頼の証として兄秀吉から大和、紀伊、和泉3カ国合わせて114万石もの大領を与えられた大大名なのですが、その居城である大和郡山城は、下の画像を見て分かる様に、兄秀吉の絢爛豪華な大坂城とはまるで正反対の飾り気の無い瓦葺きの板張りで、とても質素なものです。

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秀長は、兄秀吉の天下統一の野望達成のために目立たぬ補佐役に徹し、夜討ち朝駆けで東西奔走した影の人物ですが、その秀長の最も重要な仕事が、兄秀吉の戦費調達でした。

戦には金がかかります。兵糧、鉄砲、弾薬など、豊臣軍の補給の大半は秀長が取り仕切っていました。

その秀長の影の苦労があって秀吉の天下統一は達成されたのですが、もはや金について心配する必要が無くなったのにもかかわらず、それでも彼は、いざという時に備えて金銀を蓄えていました。秀長の場合は秀吉と違い、紀伊の豊かな山林の木材売買による収入を除けば、後はほとんど領地からの年貢収入だけだったと思われるので、普段から質素倹約に努め、家臣たちから影で「ケチ」だと言われながらも心血を注いで蓄財に励みました。

しかしそれ以外の点では、その温厚で実直な人柄と、類い稀な調整力で、古くからの寺社や公家の利権が集中し、最も統治が難しいと言われたこの地を、一度も争乱無く見事に治めました。それゆえ今でも彼は、この地域の人々から「大納言さん」と呼ばれ、慕われているそうです。

こうした見えない苦労と、何よりも兄秀吉への深い兄弟愛が豊臣家を支えたのです。その秀長は、秀吉の天下統一が成った後の1591年に、それを見届けたかの様に51歳で世を去りますが、残された彼の金蔵には大判で金5万6千枚(56万両)、銀は2間四方の部屋(約8畳ほどでしょうか。)一杯になるほどの量が備蓄されていたそうです。

秀長には男の実子がいなかったので、養子にした甥の秀保(関白秀次の末弟)が後を継いで相続しますが、その秀保も3年後に17歳の若さで謎の死を遂げ、大和豊臣家は2代で断絶してしまいました。結局それらの金銀は秀吉の朝鮮出兵の軍資金として使われた様です。

しかし、秀長の死は豊臣政権にとって大打撃でした。豊臣家の悲運は、彼の死から始まると言って良いでしょう。天下で唯一秀吉を諌める事が出来た人物がいなくなり、また内政面でも、秀吉はこれまで秀長に安心して任せていた細かい事柄まで、全て自分で行わなければならなくなったからです。

実は秀吉という人は、織田信長の家臣であった頃の有名な「一夜城」や、「高松城水攻め」、「中国大返し」など、誰も考え付かないような奇抜で独創的なアイデアを思い付き、そのために必要な人を説得して、自分の味方にしたり、協力させたりするいわゆる「人たらし」は得意でしたが、実際にそれらを行うために必要な細かい仕事や手配は全く苦手で、前述した様にほとんど秀長に任せていたのです。(秀吉も何もしなかった訳ではありませんが、彼の場合、かなり大雑把で丼勘定だった様です。)実の兄弟で、なおかつとても仲が良かったゆえに、全幅の信頼を置いていたからでしょう。

しかし生来苦手なものは、そう容易く変えられません。

そこで選りすぐりの有能な家臣たちに内政の細部を任せる様になります。彼らは事務処理能力に長けた言わばエリート官僚であり、中でも行政面を担当していた石田三成(1560~1600)が頭角を現します。

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三成は主君秀吉の期待に応え、秀長亡き後の豊臣家で優れた行政手腕を発揮し、その功績を認められて近江佐和山19万4千石の大名にまで登ります。(秀吉は三成の働きに満足し、「九州に33万石の領地を与えよう。」とまで言っていますが、三成は「分不相応」と辞退しています。この理由は自分が中央を離れれば、苦労して築いた今の地位を、他の者に取って代わられるかも知れないと恐れたのかもしれません。また老い先短い秀吉亡き後、幼い秀頼を頂いて自らが豊臣家の執政として天下に君臨する野心があったとも考えられます。)

しかしそんな三成にも、人望が無いという致命的な欠点がありました。頭は良いのですが、とにかく杓子定規すぎて融通が利かず、秀吉への忠義を貫くあまり、些細な事(普通なら目をつぶる様な他人のミスなど。)まで全て、秀吉に報告していたからです。

彼には秀長の様な天性の人間調整力も無ければ、他人の立場やメンツを思いやるという対人関係に不可欠な温情というか、世渡りの精神にも欠けていたのです。

そのため大名たちはもちろん、とりわけ加藤清正、福島正則ら秀吉子飼いの猛将たちにひどく嫌われ、やがて豊臣家臣団の中で、清正ら武将派と、三成ら奉行派が対立し、それが秀吉の死後に関が原の戦いで表面化して、敗れた三成は破滅する事になるのです。

さて、秀吉について話を続けますが、彼はその死に際して最終的に息子の秀頼にどれだけの遺産を残したのでしょうか?

ある資料によると、生前秀吉が大坂城の秀頼に与えた遺産額は大判9万枚(90万両)、銀16万枚(160万両)だったそうです。ここからは自分の勝手な推測ですが、単純に合計250万両余りではなかったかと思われます。毎年100万両以上の収入があった割には、意外と少ない様に思いますが、これは恐らく2度に亘る朝鮮出兵(一般に朝鮮出兵と言われますが、朝鮮は通り道に過ぎず、秀吉の目標はあくまで明の征服でした。) による多額の出費が原因ではなかったかと思われます。(大量の軍船建造、一説には2千隻以上、兵糧、鉄砲、弾薬その他、ちなみにこの朝鮮出兵によって秀吉が動員した兵力は、最初の文禄の役で侵攻軍15万8千余、名護屋城駐留の予備戦力2万8千余の合計18万7千で、2度目の慶長の役では侵攻軍14万2千余であったそうです。また慶長の役の兵力が若干少ないのは、文禄の役における明・朝鮮連合軍の反撃で海上補給路を寸断された結果、およそ5万余の餓死者を出したためです。)

それ以外に、秀吉が晩年を過ごした伏見城にも100万両以上の金銀が蓄えられていた様ですが、これは秀吉の死後、五大老筆頭として実権を握った徳川家康が、「秀頼様が立派にご成人されるまで、この家康がお預かりする。」とか何とか言って、ごっそり持ち去ってしまったそうです。もちろん返すつもりなどありません。

また秀吉が亡くなる前に、息子秀頼と淀殿の行く末を案じて、支配していた銀山の一つである多田銀山に、総額4億5千万両もの金銀を隠すよう命じたとの伝説があり、今も探しているトレジャーハンターの方が何人もいる様ですが、いくら秀吉が莫大な金銀を持っていたとしても、この数字はあまりに桁が違い、誇張されすぎと思います。(秀吉が信長の死後天下取りに動き出した1582年から、亡くなる1598年までは、わずか16年ほどしかなく、この年数では各鉱山の産出量から見て物理的に不可能でしょう。)

しかし秀吉が亡くなる直前に、当時鉱山町として賑わっていた多田銀山の住民を強制的に移住させて閉山させた上、死罪人を使って「何かの箱」を大量に坑道に運び込ませ、用が済んだその者たちを口封じに処刑して坑道内を封印したとか、関が原の戦いや大坂の陣で、石田三成や真田幸村がここから軍資金を掘り出した云々という目撃証言の記録なども伝わっている様です。

豊臣秀吉の埋蔵金を掘る

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豊臣の埋蔵金探しについて詳しくお知りになりたい方は、上の本が良書です。埋蔵金伝説を信じ、その半生をかけて実際に多田銀山で発掘し続けた方の記録です。中古本ですが、みなさんもトレジャーハンターになった気分で埋蔵金の謎に挑んでみてはいかがでしょうか(笑)

これは自分の勝手な推測ですが、そもそも秀吉が、秀頼らの身を案じる心情はもっともと思いますが、それならばわざわざ隠すのも、探し出して運ぶのも困難で、手間のかかる山奥の坑道に隠すより、全ての金銀を豊臣の本拠地である大坂城内の御金蔵に、厳重に保管した方が安全で良い筈です。(現に伏見城の方の金銀は、家康によって持ち去られています。分散したのは秀吉の失敗でしたね。)一体いつ頃からこの様な伝説が語られる様になったのか謎ですね。あくまで伝説と考えた方が良いでしょう。(実際当地からは全く見つかっていません。)


この多田銀山は「銀山」と呼ばれていますが、実際に産出するのは銀よりも銅の方がはるかに多く、わが国初の流通貨幣である奈良時代の皇朝十二銭などは、ここの銅から作られた様です。事実、ここから豊臣家に上納された銀は、記録では480枚(76キロ)ほどしかなく、数万枚も上納した他の鉱山に比べてはるかに少ない量でした。

そのため江戸時代になっても、幕府はここを徳川将軍家直轄の「天領」にはしなかったそうです。

前編はここまでとして、後編は家康についてお話します。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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