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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 3

みなさんこんにちは。

498年ランスで即位したクローヴィスは、その後ガリア南部を支配していた西ゴート王国と対決するためさらに南進を開始しますが、その前に彼は隣国ブルグンドの王位争いに付け込み、500年にブルグンドに侵攻します。

ここで疑問に思うのは、そのブルグンドが自分を改宗させた王妃クロティルドの故郷であるという点です。普通に考えれば、妻の実家である同盟国を攻撃するなど有り得ませんし、何より王妃クロティルドが夫の軍勢に故郷を蹂躙される事に大反対するでしょう。しかしこの背景には宗教問題と王位継承に絡む、深い事情がありました。

この時代、キリスト教はローマ教会を本拠地とするカトリックの他にいくつかの宗派に分かれており、クローヴィス率いるフランク王国は前回お話した様に、王であるクローヴィス以下全てのフランク族が改宗してカトリック教国となっていました。しかし西ゴート王国、東ゴート王国、ブルグンド王国などの同じゲルマン民族の国々や、スラブ系で民族は違いますが北アフリカのヴァンダル王国は全て「アリウス派」と呼ばれる別の宗派のキリスト教を信仰していました。

王妃クロティルドはそのアリウス派キリスト教の国であるブルグンド王家出身なのですが、彼女はその中にあって珍しいカトリック信者でした。しかし彼女の父王と母の王妃は王位をめぐる争いで兄弟に暗殺され、王位はクロティルドの叔父にあたるアリウス派のグンデバルドに移り、彼女自身の身が危ない状態だったのです。クロティルドが北の強力なフランク族の王クローヴィスに嫁いだのも、最初は叔父グンデバルドへの復讐が目的でした。出来る事なら自分が親の敵を討ちたい。しかし女性である彼女には王位継承権はありませんでした。

古来ヨーロッパでは、女性が王や皇帝になる事は出来ませんでした。古代ギリシアはもちろん、ローマ帝国においても女性の皇帝(女帝)は一人もいません。(ローマ皇帝位は初代皇帝アウグストゥスに始まる帝政初期を除いて王朝による世襲制ではありませんでしたが。)さらにこれはゲルマン民族でも同じで、後にクローヴィスが定める法典にも、王位は男子のみに限っています。

クローヴィスが興したフランク王国は、後のフランス、ドイツ、イタリアの源となる国家ですが、メロヴィング朝滅亡後のこれらの国の歴代王朝でも、その制度は受け継がれました。それゆえ歴史上「フランス女王」「ドイツ女王」「イタリア女王」というものは存在しません。例外はイギリス、スペイン、ロシアなどですが、これらの国々では男子後継者が絶え、古い過去の因習を打破しようとする男勝りの稀有な王女たちの行動の結果、「女王」や「女帝」が誕生したものです。

そのため歴史上の数多くの王妃たちは、嫁いだ王との間に生まれた息子を王位に付け、その王母として王に匹敵する権力を得るとともに、自らの血を引く者のみによる王朝の存続を図る様になります。クロティルドもそんな王妃の一人でした。夫の力を借り、親の敵である叔父を倒して空いたブルグンド王位に自分の息子を付ければ彼女の子孫による王家が続きます。それどころか彼女の息子たちには、いずれフランク王国の王位も待っています。夫クローヴィス亡き後、その息子たちが王位を継げば、全フランクをも彼女の血を引く者たちによって支配出来るのです。

クローヴィスの方でも、ブルグンドを支配したい理由がありました。彼は終始仮想敵国を西ゴート王国と定めており、ガリア南部からこれを追い出して全ガリアをフランク領にする事を望んでいましたが、その際に挟み撃ちに遭わない様、その前に背後のブルグンド王国を叩いておく必要があったのです。

クロティルドは極力住民に危害を加えない事を条件に夫のブルグンド侵攻を支持、クローヴィスも王妃の条件に同意し(住民が抵抗すれば別ですが。)ブルグンド攻撃を開始します。両軍はディジョンで戦いを交え、結果はフランク軍が勝利し、グンデバルドは逃亡してしまいます。クローヴィスはブルグンド王国に対し、対西ゴート作戦のため、今後ブルグンド軍も「同盟国」として参加する事を要求してこれを受諾させます。

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上は現在のディジョンの旧市街です。人口は15万3千ほどで、さほど大きな街ではありませんが、中世の街並みが良く残っています。二枚目の写真は良く見ると、長い年月を経て建物が歪んでしまっているのが分かります。またこの街は「マスタード」でも有名です。

クローヴィスがブルグンド王国を支配下に置いた頃、ガリア南部は西ゴート王国の領土でした。その西ゴート王国の王はアラリック2世(?~507)といい、現在のトゥールーズに都を置いていましたが、アラリック2世にとって、これ以上のフランク王国の南下は何とも我慢のならないものでした。こうして507年、両軍はガリア南部ヴイエで激突します。(ヴイエの戦い)激戦の末、戦いはクローヴィス率いるフランク軍が勝利し、敗れたアラリック2世は捕らえられ処刑されてしまいます。

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上はアラリック2世の金貨です。

記録によると、この時クローヴィスは自らの手でアラリック2世を処刑したとの事です。その理由は敵がこれまでの様な小領主ではなく大国の王であり、名も無い兵に処刑させるよりも、同じ王である自分が処刑する事が相手に対する礼儀であり、情けである。というものでした。そしてその遺体を西ゴート軍に丁重に送り返したそうです。

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王を討たれた西ゴート軍は、王の遺体を荼毘に付すとガリア南部を撤退、ヒスパニア(現スペイン)本国まで退却し、上に載せたアラリック2世の息子ゲサリック(?~511)を新たな王に即位させ、ピレネー山脈を防衛線として巻き返しを図ります。このピレネー防衛線が、ほぼ現在のフランス・スペイン国境として今に至るそうです。

次回に続きます。
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