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文明の十字路に築かれた十字架の宮殿 ・ コンスタンティノープル

みなさんこんにちは。

今回お話する宮殿は、ヨーロッパとアジアの間のちょうど中間地点に位置し、千年の繁栄に輝いたビザンツ帝国の都コンスタンティノープルの大宮殿をご紹介したいと思います。

歴史好きな方であればもはや説明は不要ではありますが、このコンスタンティノープルとは、現在はトルコのイスタンブールとしてその名を知られ、イスラムの覇者オスマン帝国の都が置かれた街ですが、それはこのオスマン帝国が勃興した15世紀以降の事。それ以前は、そのオスマン帝国によって滅ぼされたビザンツ帝国の都でした。

このビザンツ帝国は西暦395年に成立し、1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまでのおよそ1058年間に亘って地中海世界に君臨し続けた国家ですが、この帝国にはもう一つの名があります。それは「東ローマ帝国」そう、あの古代ローマ帝国の東半分がそのまま独立したものなのです。

しかし、なぜローマ帝国の東半分なのでしょうか? 西は? そしてなぜ東西に分かれているのでしょうか? 今回はそうした単純な疑問から話を始めて行きたいと思います。

そもそもこの街は、ローマ時代以前にはギリシャ語で「ビュザンティオン」(ローマ帝国の公用語であったラテン語では「ビザンティウム」)と呼ばれていました。その起源は古く、紀元前660年代に古代ギリシャの都市国家の一つであったメガラがこの地に植民都市として築き、その時のメガラの王であった「ビュザンタス」にちなんで名付けられたのがその由来といわれています。やがて街の名そのものは後述する様に「コンスタンティノープル」(これは英語読みで、先のラテン語では「コンスタンティノポリス」)となり、その古名であるビュザンティオンが帝国の名「ビザンツ」となります。(人名だったのですね。)

この街がヨーロッパとアジアの境に位置し、東西交易の中心地であった事はすでに述べましたが、とはいえ最初から大都市であったわけではなく、ローマ時代には人口2~3万程度のごくありふれた地方都市に過ぎませんでした。

そんなこの街を、歴史の表舞台に登場させたある人物がいます。 その名はコンスタンティヌス1世。 ローマ帝国の皇帝の一人です。


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上がそのコンスタンティヌス1世の銅像です。(272~337)彼についてはローマ皇帝として初めてキリスト教を帝国の国教として公認した人物であるという事は、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。ちなみに上の銅像は、彼が「ローマ皇帝」として配下のローマ軍団から歓呼を受けた言わば「旗揚げの地」である事を記念し、1998年にイギリスのヨーク大聖堂の横に建てられたものです。

抜き身の剣を地に衝いて玉座に座る姿が凛々しいですね。これぞ「ローマ皇帝」という威厳と力強さに満ち溢れています。しかし、これはあくまで現代の彫刻家がイメージしたもの。実は彼の彫刻には古代から伝わるもう一つの有名なものがあります。それが下に載せたもので、歴史好きな方ならば眼にした方もいると思います。


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上はローマのカピトリーノ美術館に展示されているコンスタンティヌス1世の像です。やたら目が大きいですね。(笑)これはおそらく皇帝本人が目を強調する様に命じて作らせたからだと思われます。しかしこの像、大きいのは目だけではありません。実はこの像そのものがとてつもなく大きいのです。それがこれです。

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ばーん! 下にいる女性の方と比べて見てください。こんな大きな自分の像を作らせたからには、この皇帝陛下は夢の大きなかなりキャラクターの濃い人物だったのでしょう。(笑)

さて、話を戻しますが、このコンスタンティヌスが生きた時代、ローマ帝国は末期に差し掛かっていました。この頃、帝国は50年続いた内乱の時代が収束し、テトラルキアと呼ばれる四分割体制で運営されていました。これはまず帝国を東西に分け、さらにその東西で「正帝」と「副帝」を置き、その4人の皇帝によってそれぞれの担当地域を分割統治するというとてもユニークなシステムです。

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上がそのテトラルキア体制下における西暦300年前後のローマ帝国の地図です。コンスタンティヌスはローマ軍の将軍コンスタンティウス・クロルスの家に生まれ、その父が上のテトラルキアにおける西ローマの正帝に就任した事が、彼が歴史にその名を残すきっかけになりました。

コンスタンティヌスの父クロルス正帝の担当は、上の地図では今のイギリスとフランスに当たる地域でしたが、やがてその父が306年に亡くなると、彼の配下のローマ軍団は後継者として息子であるコンスタンティヌスを擁立、その支持を受けて、彼は先に述べたブリタニアのヨークで4人の皇帝の一人となるのです。24歳の若き皇帝の誕生です。

このテトラルキアというのは、先に述べた50年に及ぶ内乱によって、ローマ軍の将軍たちが勝手に皇帝を自称して相争う「軍人皇帝」の時代が長く続いた事や、広大な帝国を一人の皇帝が統治するのは無理だという考えから、内乱を終わらせた優れた皇帝であったディオクレティアヌス帝(244~311)が導入したものでしたが、それが機能出来たのは彼が亡くなるまでの20年程度の間でした。


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上がそのディオクレティアヌス帝です。(244~311)彼は一兵士から身を興してローマ皇帝に登り詰めたという「秀吉」の様な人物で(笑)コンスタンティヌスからすれば、尊敬すべき大先輩の皇帝です。実際、後に皇帝となった彼はディオクレティアヌスの政策や統治を多くの部分で踏襲しています。

もともとこの体制は、ディオクレティアヌス帝という強大な皇帝がいたからこそ維持出来たに過ぎず、その彼が311年に崩御すると、他の皇帝たちはたちまち熾烈な権力争いを始めます。(当然ですね。言わば彼らはディオクレティアヌス帝によって「首根っこ」を掴まれておとなしくしていただけなのですから。笑)

コンスタンティヌスも、その4人の皇帝たちの一人であり、彼らは全ローマ帝国の唯一の皇帝の座を巡って時には同盟し、騙し合い、知略の限りを尽くして生き残りのために必死で戦うのです。そして4人の皇帝たちの13年に及ぶ「トーナメント」で勝利したのがコンスタンティヌスでした。時に西暦324年、コンスタンティヌス42歳の時でした。

しかし、全ローマ帝国の唯一の皇帝となったとはいえ、彼にはまだ倒さなくてはならない多くの敵がいました。それは帝国の外側にいるゲルマン民族を始めとする異民族です。コンスタンティヌスは、帝国の内乱に乗じて盛んに国境への侵入を繰り返すこれら異民族との戦いに悩まされ、その結果、ある一つの考えに帰結します。

「今までの様に都をローマに置いていたのでは、いずれ蛮族どもに蹂躙されてしまうだろう。そもそもわが帝国の都がローマでなくてはいけないといつ、誰が決めたというのだ? たまたま帝国発祥の地がローマであったというだけではないか。私が目指すのはこれまでとは違う全く新しい帝国なのだ。その新しい帝国を作るためには、忌まわしい過去の全ての古いものを捨て去らなければならぬ。」

そして彼は、歴代皇帝はおろか、あのユリウス・カエサルですら考えもしなかった驚くべき事を実行に移すのです。

「これよりわが帝国は都をビザンティウムに移す。そして古きものをかなぐり捨て、再び帝国にかつての光を甦らせるのだ。」

こうして西暦330年、皇帝コンスタンティヌスはローマ史上初めての「遷都」を行いました。彼は新たな都の名を「ノウァ・ローマ」と名付け、宮廷はもちろん政治、行政、軍事など全ての組織をビザンティウムに移し、それにともない大勢の人々が皇帝に従って移動したのです。

コンスタンティヌスにはさらにもう一つの大きな計画がありました。それはローマ帝国をキリスト教の帝国に作り変えるという事です。実は、ローマ帝国というのはそれまで「多神教」の帝国でした。人種も文化も宗教も全く違う多くの人々を一つに束ねるには、それぞれの民族が持つそうした多様性を認めて尊重する事が、帝国の円滑な統治を行う上で欠かせなかったからです。

こうした多くの「神々」は、異形の姿をした抽象的なものばかりでしたが、人々はとにかく「何でも良いから」拝み、祈る対象としてそうしたものを信仰していたのです。しかし、帝国の誕生から300年を越え、ほぼ同じ頃にイエス・キリストなる人物によって成立したキリスト教は、この頃にはすでに帝国の隅々にまで広がっていました。博愛をその基本理念とし、キリスト自身を「唯一の神」として具現化したキリスト教は、人々に分かりやすく、受け入れられやすかったからです。

さらに、キリストの教えが「聖書」としてまとめられ、人々に人間としてあるべき「モラル」が示されている事も、キリスト教の大きな力でした。伝説によれば、コンスタンティヌスは他の皇帝たちとの最初の戦いに望もうとしていた312年に、軍勢を率いて野営していた地で、空の彼方に大きな「十字架」が現れ、そしてこんな「神の声」を聞きました。

「汝、これにて勝て。」

彼はそれを神のお告げと信じ、自らキリスト教徒となって率いる軍勢に「十字架」の紋章を描いた軍旗を持たせて戦い、勝利したといわれています。もちろんこれは「フィクション」であり、実際には彼は神など信じてはいませんでした。なぜならこの地上において、神とは皇帝である自分自身であるべきだからです。

しかし、彼には人々に自分が支配者である事を示す大きな「権威」が必要でした。そこで彼は、皇帝である自分が神によって選ばれた特別な存在であり、神から地上を支配する権限を与えられた皇帝こそが「神の代理人」なのだという概念を考え出します。上の伝説は、そうしてコンスタンティヌスが広めさせた打算的な創作でした。そして、聖書に書かれたキリストの教えを帝国の統治に利用しようと考えたのです


無題

上は神に新たな都を捧げるコンスタンティヌス1世のモザイク画です。

さて、皇帝の遷都令によって新たな帝都となったビザンティウムでは、帝国の中心としてふさわしい街にすべく一大建設工事が急ピッチで進められていました。人口の急増に伴い市街地は大きく拡張され、建設ラッシュによって多くの人、物、金が集まり、街は大変な活気に満ち溢れます。そして各地から集まってきた人々が、みな一様に驚嘆したのが皇帝の新宮殿の巨大さと壮麗さです。


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上の一連の画像はローマ帝国の新たな都となったビザンティウムの姿です。皇帝の宮殿は数多くの建物が複雑に入り組んだ迷路の様な複合構造となっています。ひときわ目を引くのが、中央の「闘技場」です。ここではローマ人が馬に引かせる戦車競技に熱狂しました。良く見ると、都には一般の港とは別に宮殿専用の港が設けられていますね。今にもガレー船が入港しようとしています。宮殿に納める「帝室御用達」の物資を積んでいるのでしょう。人口は遷都した直後においては10万に満たないものでしたが、やがてビザンツ帝国の最盛期となる10世紀には40万を越え、エジプトのアレクサンドリアとならぶ国際的な大都市へと発展します。

コンスタンティヌス1世は、都を「ノウァ・ローマ」と名付けましたが、その名で呼ばれる事はほとんど無く、当時からすでに人々にこう呼ばれていました。「コンスタンティノポリス」(コンスタンティヌスの街)と。それは彼の功績を称えた人々の彼に対する「大賛辞」だったのでしょう。そしてコンスタンティノポリスの大宮殿は、文明の十字路に築かれたキリストの十字架の宮殿として、それから千年の繁栄に輝き続けるのです。

西暦337年、ローマ帝国を全く新しい形に大きく作り変えた稀代の皇帝コンスタンティヌス1世は、東の宿敵ペルシア討伐の軍勢を率いて遠征中に病に倒れ、崩御します。享年65歳でした。彼の死後、帝国は3人の皇子たちによって分割統治されますが、彼らはすぐに帝位を巡って兄弟で15年に及ぶ骨肉相争う内戦に突入します。その争いは、最終的には353年に次男であるコンスタンティウス2世(317~361)の勝利によって幕を閉じますが、8年後の361年には彼自身が45歳の若さで子孫を残さずに病没したため、コンスタンティヌス王朝は事実上二代わずか37年余りで絶えてしまいます。

その後のローマ帝国は再び混迷の時代を迎えます。時の有力者が次々に帝位に就きますが、長くは続かないのです。その理由は何といっても帝国を取り囲む状況が「内憂外患」の一言に尽きるからでした。外側からは異民族の侵入が相次ぎ、内側では先に述べた様に皇帝の代替わりごとにその後継争いが常態化していきます。コンスタンティヌス1世がそうであった様に、彼ら皇帝候補の有力者たちは、まず東西に分かれて正帝、副帝などに就任し、その立場を足がかりにしていったため、次第に帝国は一つではなく、東と西に分かれて考えられていく様になります。

そして西暦395年、時のローマ皇帝テオドシウス1世(347~395)は、その死に際して二人の皇子にこう申し渡します。

「これより帝国を東と西に分ける。東は兄が、西は弟が継ぐが良い。決して間違えてはならぬ。二つの帝国は全く別のものとして、そなたらがそれぞれの皇帝として統治するのだ。」

こうしてローマ帝国ははっきりと東西に分裂するのです。そしてこれ以後、二つのローマ帝国は二度と一つになる事はありませんでした。このテオドシウス帝による帝国分割は大きな効果をもたらします。それまで帝位争奪の内戦で争い続けた東西をはっきりと二つの帝国に分ける事で、東西の帝国同士で戦争になる事は無くなったからです。しかし、それは東の帝国に長い繁栄を、西の帝国に動乱と滅亡への道を歩ませるという全く対極的な効果をもたらしました。


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上が東西の帝国の境界です。

西ローマ帝国は、ゴート族、フランク族、ヴァンダル族などの異民族の襲来によって、分裂からおよそ80年後の西暦476年、ついに滅亡してしまいます。一方東ローマ帝国は、これらの異民族の侵入経路から大きく離れていたため、東地中海において長くその命脈を保ち続け、いつしか帝国の名も「ビザンツ帝国」という名が定着し、ローマの名は人々の記憶から忘れ去られていったのです。

時代はローマという大帝国の一極支配から、各民族がそれぞれに王国を打ち建てていく乱立の時代に移りつつありました。その中で、それまでのシステムを変える事が出来なかったローマ帝国は、生き残るために西という半身を切り捨て、東においてキリスト教国家「ビザンツ帝国」という新たな帝国に生まれ変わったといえるでしょう。結果として、その規模は小さくなったとはいえ、ビザンツ帝国は古代ローマの昔に勝る大きな繁栄を長く謳歌し続けるのです。


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上は現在トルコのイスタンブール考古学博物館の中庭に展示されているかつてのコンスタンティノープルの宮殿の柱の一部です。細部に見事な細かい彫刻が隙間無く施されています。このたった一本の柱一つにも、どれだけの手間と時間をかけて造られたのか想像して見てください。

コンスタンティノープルの大宮殿は、造営から千年後の15世紀にこの地を征服したイスラムの覇者、オスマン帝国によって取り壊され、跡形も無く撤去されてしまいました。今、その面影を知る事が出来るのは、イスラムの街となって久しいこの街で進められている発掘調査で掘り出されるこうしたわずかな遺物だけです。

次回に続きます。
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