日本最強の女帝が築いた幻の宮殿 ・ 藤原宮

みなさんこんにちは。

今回のお話は、古代日本の最初の本格的な都として建設されたにも係わらず、完成からたった16年で遷都され、歴史から消えた幻の都「藤原京」とその宮殿についてご紹介したいと思います。

ところでみなさんは、「都」と聞いて思い浮かべる地といえばどこでしょうか? これは愚問だったかも知れませんが、日本人ならやはり「京都」と答える方がほとんどだと思います。かつて学生時代に「鳴くよウグイス平安京」と語呂合わせで憶えた様に、西暦794年に桓武天皇によって築かれ、1868年の明治維新まで実に1074年という長い歴史を刻んだ京都が日本の都として私たち日本人の心に深く刻まれているのは、ごく自然な思考の流れでしょう。

また、京都すなわち平安京が都として定着する以前のわが国では、実に呆れるほど頻繁に都が移されていた事も、歴史好きな方であれば良く知られていると思います。しかし、その中で今回お話する藤原京とその宮殿は、それまでころころと場所が変わっていた都と宮殿が、初めて恒久的なものとなるよう計画された大規模なものであり、またそれを築いたのが、ある一人の高貴な女性であったという事実はあまり知られていません。では、その藤原京とはどんな都だったのでしょうか? そしていつ、どの様な経緯でそれは築かれたのでしょうか? まずはそこからお話したいと思います。

時は西暦672年7月、まだ倭国と呼ばれていたわが国では、ある二人の高貴な人物が国の主導権をめぐり、運命の戦いに臨もうとしていました。その二人の高貴な人物とは、あの「大化の改新」の首謀者である中大兄皇子こと天智天皇(626~672)の皇太子大友皇子(おおとものみこ)そしてもう一人は同じく天智天皇の弟宮にして、大友皇子の叔父にあたる大海人皇子(おおあまのみこ)です。

どうして叔父と甥が戦う事になってしまったのでしょうか? 実はその原因は全て先帝の天智天皇から始まっていました。天智帝は弟宮の大海人皇子を最も信頼する補佐役として政治を執り行われ、自らの後継者すなわち皇太弟(こうたいてい)とまで位置づけておられたのですが、次第にその考え方の違いから意見が合わなくなっていかれました。そのうちに第一皇子の大友皇子がすくすくと成長して立派な青年となり、帝はわが子可愛さから実の子である大友皇子を次の天皇となる皇太子にされるのです。


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上が天智天皇の皇太子 大友皇子にあらせられます。(648~672) このご肖像は後の時代に描かれたものですが、ほぼ当時の装束に近いのではないかと思います。

その後、天智天皇が崩御され、大海人皇子は大友皇子と争う意志の無い事を示す意思表示として出家し、ご一族とわずかな従者たちとともに吉野の山奥に籠られるのですが、叔父宮が皇位を狙っているとの疑心暗鬼にかかられた大友皇子は、先帝天智帝が飛鳥から移された琵琶湖のほとりの大津の都から、大海人皇子追討の軍勢を吉野に差し向けてしまうのです。

事ここに至り、対決は避けられないとご決心された大海人皇子も、地方の豪族たちを味方に付けて挙兵します。これが記録に残る日本最古の大規模な内戦である壬申の乱(じんしんのらん)です。(「壬申」とは干支の事で、この年が「みずのえさる」であったためです。)

戦いは当初、およそ3万の兵を擁する大友皇子の近江朝廷軍が絶対優勢であると思われていました。しかし、天智天皇を良く補佐していたこれまでの実績から、地方の豪族たちの多くが大海人皇子に味方し、同じく3万に膨れ上がった彼らは近江朝廷軍を各地で撃破、大津の都に攻め上ります。敗北を悟られた大友皇子は、大津の御所の一室で首を吊って自害あそばされ、乱は終息するのです。(大友皇子は「敗者」として強く記憶され、長い間歴史の中で顧みられる事はなかったお方ですが、明治になって、正式な皇統の系譜を作る際に、時の明治天皇は大友皇子を在位期間は短いとはいえ天皇としてお認めになられ、歴史古書の引用から第39代「弘文天皇」のお名が追号されました。)

一方、勝利した大海人皇子はその後「天武天皇」として即位され、兄天智天皇が行った政策を抜本的に見直す大改革を実行に移されます。


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上が第40代天武天皇にあらせられます。(631?~686)このご肖像も、はるか後の時代(室町以降?)に想像で描かれたもので、それが証拠にご装束が「束帯姿」で描かれており、飛鳥時代当時のものではありません。お顔立ちもさながら「武将」の様にいかめしく描かれていますが、これは実際に自ら軍勢を率いて権力を得られた歴代天皇の中でも数少ない武断の帝であられる事からこうイメージされたのでしょう。しかし、天武帝が強力なリーダーシップを発揮されたとても意志の強いお方であられたのは事実であり、自分はイメージとしてはピッタリではないかと思います。(笑)

天武天皇は即位されると早速様々な改革を実行に移されます。特に、兄天智天皇以前の帝たちがかつて悩まされた豪族たちの専横を見て来られた経緯から、彼らの力を削ぐために大臣職を一切置かず、自ら政治の全てを執り行われ、朝廷の要職もほとんど皇族のみで占め、天皇個人に一切の権限を集中させました。本来ならこんなやり方は豪族たちが黙っていないはずですが、天武天皇には豪族たちを心理的に従わせる天性の強力なカリスマ性がお有りになった様です。

天武天皇の行われた政策は枚挙に暇がないのでここでは省かせて頂きますが(汗)その在位中にほぼ、その後のわが国の基本的なあり方の原型をお創りあそばされました。さらに、ここでどうしてもご紹介しなくてはならない最も重要な事を二つお話しておかなければなりません。一つ目は、それまで倭国、扶桑(ふそう)、大和などと統一されていなかったわが国の国名を「日本」とお決めになられたという点です。その「意味」については説明するまでもないですね。(笑)

また、二つ目は、史上初めて「天皇」をお名乗りあそばした点です。この意味は、古代中国において、天上を統べる万物の創造主を「天帝」と称し、その別名からお選びになられたのが有力な説です。わが国の根幹を成すこれらの一連の諸事をお決めになられた天武天皇は、ある意味で、わが日本の事実上の「建国の父」とお呼びしても差し支えない偉大な帝であられると思います。

しかし、洋の東西を問わず、歴史を見れば偉大な人物には必ずそれを支える「女性」の存在があります。この天武天皇にもその偉業を達成するために大きな役割を果たした女性がいました。それが今回のお話の主役であり、天武帝の皇后であられた後の持統天皇です。


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上が天武天皇と後の持統天皇ご夫妻の肖像です。とても仲睦まじいご夫婦であられた様です。

彼女は正式には鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)とお呼びし、先の天智天皇の第二皇女に当たられますが、驚くべきはその年齢差で、夫君の天武帝とは13歳の差がありました。657年に父帝の命により、当時は大海人皇子であった26歳の叔父に嫁がれたのですが、それが後の彼女の運命を大きく変える事になったのです。(天智天皇は弟宮の大海人皇子になんと彼女を含む実の皇女4人を妃として与えています。それだけ弟宮を最も信頼しておられたのでしょう。)

讃良皇后は、壬申の乱の折にもご夫君と常に行動を供にされ、天武帝即位後は帝が唯一心を許せる最高の相談役として片時も離れる事無く帝を支え続けておられました。天武天皇はその在位中、讃良皇后を「共同統治者」とし、ご夫婦二人三脚でわが国を統治されたのです。

しかし、このわが国の歴史上唯一ともいえるこの高貴なご夫婦による共同統治も、やがて終わりを迎えます。686年、天武天皇が崩御されたのです。次の帝にはどなたが即位されるのか? 周囲は当然先帝の皇子のうちの誰かを予想していました。というのも、天武天皇には後継者となる皇子が10人もおられたからです。が、その予想は意外な形で大きく外れました。なぜなら、皇位に着かれたのはなんと讃良皇后その人だったからです。時は690年、ここに日本史上最強の女帝、持統天皇の誕生です。

それにしても、なぜ讃良皇后は他の皇子たちを差し置いて自ら即位されたのでしょうか? 実はこれには事情がありました。先に述べた様に、天武天皇には10人もの皇子方がおられたのですが、そのうち、讃良皇后のお産みになった実の子は第二皇子の草壁皇子(662~689)のみで、それ以外は他の皇后方や側室との間に生まれた方々でした。そこで、讃良皇后は当然わが子草壁皇子を帝に据えるおつもりでしたが、その皇子がまだ27歳の若さで薨去されてしまったのです。

讃良皇后は壬申の乱以後、夫君の天武天皇と14年に亘って共同統治しておられました。そのご意志を受け継ぐのは自分を置いて他にはいないとの強い思いが、自らが皇位を継いだ大きな理由ではないかとの説が有力です。

ともあれ、即位された持統天皇は、亡き天武帝の政策路線を忠実に実行に移されます。その中で、彼女が最も力を注いだのが、今回ご紹介する新たな都「藤原京」とその宮殿の建設でした。


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上の一連の画像は藤原京の復元模型と上空から見た図です。「大和三山」と呼ばれる三つの小さな山の周囲に、東西5.2キロ、南北4.8キロの範囲で都が築かれていました。中心には天皇のおわす宮殿が置かれ、その大きさは後の平城京や平安京を凌ぐとても巨大なものであったそうです。しかし、人口は後の都に比べればはるかに少なく、およそ3万人程度であったと推測されています。これはおそらく、この都そのものに住む事が出来るのが豪族や有力者、官僚などの身分の高い人々だけで、一般の庶民がほとんどいなかったせいと思われます。

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上が当時の藤原宮と都の様子をCGで再現した画像です。

この藤原京とその宮殿は、持統天皇即位と同時に建設が開始され、4年後の694年に完成、持統帝は直ちに都を飛鳥からこの地に遷都されます。それにしても、なぜ持統天皇はこの様な巨大な都を建設したのでしょうか?都も宮殿も、すでに先に述べた飛鳥の地に立派なものがあるはずです。

それには大きな事情がありました。実は、それまでのわが国では歴代の帝が即位される度に、宮殿をあちこちに移していたのです。帝が宮を移される度に、豪族たちも従う人々もその宮の周囲に移動せざるを得ず、政治を行う上で非常に不安定かつ非効率でした。さらに飛鳥の地は土地が狭く、平地はもう建物で一杯でこれ以上都を置くのは限界がありました。そこで、持統天皇はその弊害を無くすため、唐の都長安に倣い、永続的な不動の都と宮殿を建設したのです。

もちろん、その建設には莫大な費用と膨大な労働力が必要であり、豪族たちや官僚などの保守派グループの抵抗もありました。しかし、新たな都の建設は、亡き先帝天武天皇が夢に描いていたものであり、妻である持統天皇は夫君の夢をなんとしても実現するために断固強行されました。

「どれほどの月日と金がかかろうと構わぬ。これはわが国が文明国家である事を周辺国に知らしめるために絶対に必要な事なのです。もし、反対する者がいるならば、その者らは帰って戦の支度をするが良い。」

持統天皇は新都建設反対の豪族らの一部に対し、「脅し」のために兵を差し向け、建設に消極的な官僚なども次々に挿げ替えて反対派を一掃し、これにより震え上がった彼らはすっかり黙り込んでしまいます。思えば彼女は、あの大化の改新を成し遂げた中大兄皇子こと天智天皇の娘であらせられ、父帝の反対派への容赦ない弾圧と、それにともなう戦と混乱を幼い頃より垣間見て来られたお方です。さらに壬申の乱においても、夫君天武天皇の勝利に政治面で多大な助言と貢献をされ、つまり簡単に言えば「戦」に慣れた強い女性でした。


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少し冷たいイメージの持統天皇。拾いもののイラストです。(笑)

そのため、自らの政策実行のために多少の犠牲や脅しなどもいとわない大変意志の強いご性格になられたのです。持統天皇はその後も、強大な権力でわが国を統治され、亡き草壁皇子の長男で自らの孫に当たる文武天皇(683~707)が即位されて上皇となられてからも、崩御されるまで実権を握り続けられました。まさに彼女こそ、日本最強の女帝とお呼びしても差し支えないでしょう。これは、歴史上ほとんど権力を持たなかった日本の女性において非常に稀有な事であり、同時に彼女が日本の歴史における事実上最後の女性権力者ではないでしょうか。(あくまで個人的意見です。不敬な意志は微塵もありません。)

ところで、ここで全く話が変わりますが(汗)この時代の人々は、一体どんな生活をしていたのでしょうか? ここでそうした事にも少し触れて見たいと思います。


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上は飛鳥時代から奈良時代にかけての当時の人々の服装の再現です。なかなか色とりどりですね。これらはみなさんもご存知のあの極彩色で有名な高松塚古墳の壁画から再現されたものです。現在これらは奈良のご当地イベントなどでレンタルされており、実際に着用して当時の気分に浸る事ができます。歴史好きな方は試してみてはいかがでしょうか。(笑)

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そして上がこの時代の人々が食べていた食事のメニューの再現です。上から順に貴族、中級官僚、一般庶民です。貴族の食事はさすがにメニューも多いですね。しかし、全体的にまだ彩(いろどり)というものがなく、とても質素なものです。この時代はまだお箸は使われておらず、写真にある様に木のさじですくって食べていたようです。(でも、これではご飯は良いとして魚などは食べづらいですね。おそらく手づかみだったのでしょう。)また、ご飯の横に置かれている白いものは「塩」で、味付けの調味料はまだそれくらいしかなく、それに白米は貴族以上の身分の高い人々のみで、庶民は精米していない玄米でした。

上の食事を見て共通しているものは「肉」がないという点です。これは仏教の影響により天武天皇の時代に肉食が禁じられ、明治まで1300年以上続いた事から、これがその後のわが国民の平均身長の低さを招いてしまいました。これは天武帝の数少ない「失政」かもしれませんね。(笑)

さて、こうして日本最初の本格的な都として建設された藤原京ですが、新たな疑問が沸き起こります。冒頭で述べた様に、この都も宮殿も、完成からわずか16年で放棄されているのです。なぜなのでしょうか?

その答えは以外に単純なもので、一言で言ってしまえば「場所の選択を誤った。」のが原因でした。実はこの都のある一帯は土地が低く、雨が降ると周囲の山々から流れ下った雨水が溜まってしまうのです。


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上の画像をご覧ください。これは現在の藤原宮跡(大極殿)の写真ですが、見ての通り一面ひどい水溜りになっています。現在でもこれですから、雨が降るたびに天皇のおわす宮殿がこんな状態になってしまっては何より畏れ多い事ですし、それに建物が腐って長くはもたないのは容易に想像出来ると思います。(当時は測量技術などありませんから、都の建設は「イチかバチか」だったのでしょうね。驚)つまりこの都は巨大な「失敗都市」だったのです。

これを機に藤原京は一気にその存在価値をなくし、奈良の地に新たな都「平城京」が作られるのです。しかし、藤原京と藤原宮は、平城京、そしてその後の平安京のモデルとなり、その時に得たノウハウが、後の都の造営に大きく役立ったのは言うまでもないでしょう。その意味では、藤原京は記念すべきプロトタイプだったと思います。

ここで、今回のテーマの主役である持統天皇のその後についてをエピローグとしてお話しておきます。持統天皇は703年、58歳で崩御され、ご遺言により、愛する夫君天武天皇とともに同じご陵墓に埋葬されます。通常歴代の帝はお一人で一つの陵墓に埋葬され、合葬される事は無いのですが、女帝の強いご希望であられたそうです。この様にご夫婦で埋葬された例は、歴代天皇では天武・持統両帝だけです。いかにお二人が仲睦まじいご夫婦であられたか良く分かりますね。

しかし、残念ながらそれからおよそ570年後の1275年、鎌倉時代の中期にご陵墓は卑しい盗賊に盗掘されてしまい(怒)両天皇の副葬品は奪い去られ、石室内は散々に荒らされてしまいました。その時に石室内部の様子が記録として残されています。


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上が天武・持統天皇ご陵墓石室内の復元です。天武天皇のご遺体は朱塗りの棺に納められていましたが、持統天皇は女帝のご希望により「火葬」され、ご遺骨は銀の壷に収められていました。みなさんもご存知の事と思われますが、天皇陵は学術的考古学調査や発掘は一切禁止されているため、内部の様子をうかがい知る事は出来ません。(当然です。)しかし、この記録はそんな天皇陵の内部の様子を記した貴重なものです。(これはあまり語りたくないのですが、先の盗掘により、天武天皇のご遺骨は棺から引きずり出されて石室内に散乱し、持統天皇のご遺骨もばらまかれて銀の骨壷だけが奪い取られてしまったそうです。(涙)しかし、盗掘に遭うまで500年以上埋葬当時のままだったのですね。

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かつてこの奈良県橿原の地に、日本で最後の女性権力者となった最強の女帝が、理想の国づくりを夢見てここに都と宮殿を建設されました。しかし、その夢は女帝の死とともに儚く消え去り、当時の面影を知るすべはありません。今この地は、秋になると上の様に美しいコスモスが咲き乱れ、訪れる多くの人々の目を楽しませています。それは、自分には遠い昔のある一人の高貴な女性の思いが、美しい可憐なピンクの花々にその姿を変え、今日の私たちにそれを伝えようとしている気がしてなりません。

次回に続きます
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