アンダルシアに輝いたグラナダの光 ・ アルハンブラ

みなさんこんにちは。

今回から宮殿の本場ヨーロッパに戻り、スペイン南部アンダルシアに700年以上に亘って君臨したイスラム王朝グラナダ王国の夢の跡、魅惑の王城「アルハンブラ宮殿」についてお話したいと思います。

このアルハンブラ宮殿については、テレビの紀行番組などでスペインを紹介する際に必ず登場し、またユネスコの世界遺産として、歴史好きな方であれば誰でも名前だけは一般知識としてご存知の事と思いますが、ではこの宮殿の成り立ちはそもそもどの様なものだったのでしょうか? なぜキリスト教国のスペインにイスラムの巨大な宮殿が存在しているのでしょうか? まずはそこから今回のお話を始めたいと思います。

アルハンブラ物語〈上〉 (岩波文庫)

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このアルハンブラ宮殿については上の本が良書です。19世紀前半のアメリカの作家ワシントン・アーヴィングの最高傑作で、上下2巻に分かれ、上巻はページ数360ページ余り、外交官として赴任した作者が見聞きした当時のスペイン各地の様子がアルハンブラと絡めて語られていきます。下巻はページ数440ページ余りで、こちらはアルハンブラにまつわる様々な伝説が、さながらアラビアンナイトの昔話の様に挿話されているものです。自分はこの作品を読む時、アランフェス協奏曲を聴きながらスペインの情景を想像して楽しんでいます。(笑)

アルハンブラ宮殿の歴史は8世紀半ば、つまり今から1300年ほど前にまでさかのぼります。当時現在スペインとポルトガルがあるこのイベリア半島一帯は、5世紀初めにこの地に侵入したゲルマン民族の一派が築いた西ゴート王国(415~711)の支配下にあり、およそ300年に亘って独自のキリスト教国家として存続していましたが、8世紀に入ると地中海を挟んだ北アフリカから大きな脅威が迫ります。ウマイヤ朝イスラム帝国の侵攻です。


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上がイスラム帝国の拡大図です。このイスラム教は、開祖である預言者ムハンマド(570?~632 この「預言者」というのは、未来を予測する「予言」とは全く違うもので、「神から与えられた言葉を人々に伝える神に選ばれた者」という意味です。そういう事にしておけば人々に自分の話を聞かせるのに都合が良いですからね。笑)が613年頃からメッカで説きだしたもので、「アッラー」を唯一絶対の神とし、そのアッラーの神がムハンマドを通して人々に伝えた言葉を「コーラン」と呼ばれる経典にまとめ、これを元に体系化された一神教の宗教であるのは良く知られていると思います。ちなみに「イスラム」というのは、アラビア語で「神に帰依する」という意味だそうで、ムハンマドの死後100年余りの間にあっという間に中東から北アフリカ全域(上の図参照)に広がり、今日の国際的な諸問題の根源とも言えるでしょう。

先のウマイヤ朝というのは、開祖ムハンマドと先祖を同じくするウマイヤ家が興した最初のイスラム王朝(661~750)であり、自らをムハンマドの正統な後継者と自認し、現在のシリアのダマスカスを都としてかつてのローマ帝国をしのぐ広大な地域を支配下に置いた大帝国でした。(実際には、先祖が同じといっても、このウマイヤ家は生前のムハンマドと大変仲が悪かったそうで、簡単に言えばムハンマドが築いたイスラム教というオリジナルの「巨大な遺産」を、ウマイヤ家がうまく乗っ取ったといえるかもしれませんね。笑)

ウマイヤ朝イスラム帝国は、第6代王ワリード1世(674~715)の時代に最盛期を迎え、勢いに乗るワリード1世は711年、地中海を越えてイベリア半島に遠征軍を差し向け、すでに衰えていた先の西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島をイスラム領としてしまいます。しかしその後、ウマイヤ朝そのものも内部での権力争いが続き、イスラム世界の信望を失っていきます。やがて750年、今度はムハンマドの叔父の子孫であるアッバース家によって打倒され、王朝創始から14代わずか90年に満たずに滅亡してしまいました。

では、そのウマイヤ朝が滅んだ事によって、イスラム勢力はイベリア半島を放棄したのでしょうか? 実は一度滅んだはずのウマイヤ朝ですが、したたかに生き延びていたのです。750年にイスラム第一王朝のウマイヤ家が、第二王朝のアッバース家に滅ぼされたのは先に述べましたが、ウマイヤ王家の王族の一人がアッバース朝の目をかいくぐって必死の逃亡に成功、海を越えた遠いイベリア半島のこの地にウマイヤ朝を再興したのです。時に756年の事でした。


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上がウマイヤ朝を再興した王族の一人、アブドゥル・アラフマン1世です。(731~788)王家の一員として何不自由ない生活から一転アッバース朝に追われる身となった彼は、わずかに残った忠実な家臣らとともに命からがら脱出し、逃げる際に慌てて持ち出した手持ちの宝石を少しづつ換金して食いつなぎながら(笑)5年以上北アフリカの僻地を転々とし、他のウマイヤ王家の一族がアッバース朝によって徹底的に根絶やしにされていた所を、幸運にもなんとか海を越えてイベリア半島にたどり着き、生き延びる事が出来ました。やがて彼は、そこで「後ウマイヤ朝」を興して初代の王になるのですが、若い頃に経験したそうした様々な苦労が、彼を堅実な王に育て上げました。

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上がアブドゥル・アラフマン1世によって再興したアッバース朝時代の後ウマイヤ朝イスラム王国の位置です。(緑の部分)悪い言い方かもしれませんが、再興したといってもその実態は事実上のいわゆる「亡命政権」と言って良いでしょう。その北にあるオレンジ色の「アストゥリアス王国」とは、最初にウマイヤ朝に滅ぼされた西ゴート王国の残党が打ち建てた王国で、これもいわゆる亡命政権です。それにしても、その西ゴート王国を滅ぼしたウマイヤ朝も、同じ目に遭って亡命政権を打ち立てる事になるとは、歴史とは本当に皮肉なものですね。(驚)

さて、苦労人(笑)の王アブドゥル・アラフマン1世によってイベリア半島に築かれた後ウマイヤ朝イスラム王国ですが、その後どうなったのでしょうか? 実はこの王国、最初の大帝国時代よりもはるかに長く続き、大変繁栄したのです。初代アブドゥル王は内陸のコルドバを王国の首都に定め、その彼から11代目の王まで250年余りの間、大きな内紛や権力争いもなく、王たちはそれぞれ平均20~30年の長期在位を維持し、歴代の王の下で独自のイスラム文化を発展させ、王朝はとても安定していました。

その理由は地理的要因が大きく影響していました。王国が海を隔てた遠いイベリア半島にあったため、さすがのアッバース朝も手が届かず、周囲に大きな外敵がいなかったからです。唯一の脅威は地続きで国境を接していた北のカロリング朝フランク王国でしたが、これも3千メートル級の高い山々が連なるピレネー山脈が天然の壁として立ち塞がっていたため、大きな心配は要りませんでした。

しかし、12代目の王から混乱が始まります。第12代国王ヒシャーム2世(965~1013)はわずか11歳で即位し、当然年齢的に政治は出来ない事から、国政は先代の王から仕える経験豊かな宰相が後見人となって行っていました。しかしその宰相が1002年に亡くなると、国政を任せきりにしていたヒシャーム2世にその力量はなく、それを良い事に王国内の有力者たちが無能な王を廃位し、ウマイヤ家の他の王族から自分たちに有利な者を選んで勝手に国王として擁立、同時に何人もの王が立つという異常事態に陥ってしまったからです。

この内紛により国内各地で反乱が相次ぎ、王国は急速に衰退していきます。さらに悪い事に、かつてウマイヤ朝が滅ぼし、北のピレネー山脈に追いやっていた西ゴート王国の残党が築いたキリスト教勢力の小王国がこの混乱に乗じて独立、領土奪還の動きを開始します。国土回復運動有名な「レコンキスタ」の始まりです。こうした内憂外患により、17代275年続いた後ウマイヤ朝イスラム王国は1031年ついに滅亡してしまいます。

この後ウマイヤ朝末期の混乱期にグラナダの街を見下ろす高台の上に築かれたのが、今回お話するアルハンブラ宮殿です。といっても、最初から宮殿として築かれたのではなく、元は反乱軍に対してグラナダ防衛の軍事拠点としてウマイヤ軍が築いた「アルカサーバ」(アラビア語で「城塞」の意味です。そのままですね。笑 つまり、元はたくさんあるアルカサーバのうちの一つに過ぎないわけです。)と呼ばれる城塞がその始まりでした。

後ウマイヤ朝イスラム王国滅亡後、権力の空白地帯となったイベリア半島には、「タイファ」と呼ばれる旧王国の有力諸侯がそれぞれの地に自立し、半島は小国割拠の時代に入ります。


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上が後ウマイヤ朝滅亡直後の11世紀半ばのイベリア半島の勢力図です。この時、グラナダも上の様にその一国となりましたが、まだこの時点では指導者の政権交代が激しく、王国と呼べるほどに至っていません。

やがてこれらのイスラム・タイファ諸国に北から脅威が迫ります。先に述べた国土奪還に燃えるキリスト教諸国の南下です。特にその中で勢力拡大が著しかったのがカスティーリャ王国とアラゴン王国でした。両国とも後ウマイヤ朝滅亡後の同じ1035年に建国し、カスティーリャはイベリア半島中央部へ、そしてアラゴンは隣国カタルーニャと連合王国となって地中海方面へ勢力を伸ばします。

この事態に、独力で対抗する力のないイスラム・タイファ諸国は、当時北アフリカに勃興していたムワッヒド朝(1130~1269)さらにそれを滅ぼして成立したマリーン朝(1196~1465)などの大国に服属し、その後ろ盾を得てこれに対抗しようとしますが、キリスト教国とりわけカスティーリャ王国の攻勢に次々に拠点を攻略され、イスラム諸国の勢力範囲は年を追うごとに南へ南へと押し戻されて行きました。


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上がレコンキスタにおけるキリスト教勢力の支配領域の変遷です。

そんな最中の1230年、ようやくグラナダに永続的な王朝が樹立されます。ナスル朝グラナダ王国の出現です。この王朝は、元はこの付近を根城にしていたイスラム軍団の長であったムハンマド・イブン・ユースフ(?~1273)という人物が打ち建て、初代国王ムハンマド1世として即位して成立したもので、残念ながら彼の肖像画は残っていないのですが、この王様、小国とはいえさすがに一国の王に登り詰めるだけあって、なかなかしたたかな人物であった様です。

なぜなら彼の在位期間は実に41年におよび、その長い在位中に先に述べたイスラム勢力の総本家であるアッバース朝、そしてその対立派が北アフリカに興したムワッヒド朝、マリーン朝、ハフス朝などに自ら服属する事でキリスト教勢力をけん制しつつ、かと思えばそれらイスラム勢力とは一歩距離を置き、その目を欺きながら時にはなんと敵であるキリスト教勢力とも裏取引をしてはばからない高度な外交戦略で独立を維持していったからです。

ムハンマド1世はグラナダの街に都を置き、彼の死後王位を継いだその子ムハンマド2世も父王のやり方を継承、彼ら親子二代合わせて70年に及ぶ治世の間に、グラナダ王国はその基礎を整え、すっかり強固な体制を構築していました。そして彼らの手により、グラナダの丘にそびえる先のアルカサーバは大拡張工事が施され、城は味も素っ気もないそれまでの単なる城塞から、巨大な宮殿へと生まれ変わる事になるのです。ここにイスラム建築の最高傑作「アルハンブラ宮殿」の誕生です。

しかし、王国の初期の段階では、宮殿はまだ現在見られる様な華麗なものではなく、あくまでその規模を大きく拡大させた程度のものでした。その後、歴代のナスル家の王たちによって逐次増改築が繰り返され、とりわけ第7代国王ユースフ1世(在位1333~1354)と、その子で第8代国王ムハンマド5世(在位1354~1391)の時代に、宮殿はほぼ現在見られる壮麗な建築様式で飾られました。


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上の画像はアルハンブラ宮殿の全景です。ちなみに宮殿の名前「アルハンブラ」ですが、これはアラビア語で「赤い城塞」を意味する「アル・カルア・アル・ハムラー」(私たち日本人には舌を噛みそうですが、笑)がスペイン語に転じたもので。宮殿の建築資材である独特の赤みを帯びた石材が、特に夕方になると夕日に照らされて真っ赤に見える事から付けられたものです。この宮殿は非常に多くの建物が不規則に建ち並ぶ複合構造なので、上空からの衛星写真やイラストなどと照らし合わせ、それぞれの建物の位置や配置を確認して見てください。

先に述べた二人の王のうち、8代国王ムハンマド5世の治世、グラナダ王国は最盛期を迎えます。というと、疑問に思われるかも知れません。レコンキスタはどうした? グラナダはキリスト教勢力に押されていたのではないかと。もちろんその間も、レコンキスタの戦いは続いていました。しかし、偶然にもある三つの条件が、この時のグラナダに有利に働き、王国に繁栄期をもたらす時間的猶予を与える事になったのです。

その三つの条件とは、まず第一に当時全ヨーロッパを襲った恐怖の伝染病、すなわち「ペスト」(黒死病)の大流行です。このペストの大流行により、キリスト教国のカスティーリャとアラゴンの両国とも多くの死者が出たため、国土奪還どころではない惨状になってしまいました。

第二は、そのカスティーリャ王国とアラゴン王国の不和です。この二カ国は隣り合う隣国同士なのですが、イベリア半島における支配権をめぐって事ある毎に対立していました。しかし、力関係ではカスティーリャ王国の方が強く、やむなくアラゴン王国はカスティーリャとの直接の戦争は極力避け、出来るだけその足を引っ張りつつ、東の地中海方面に勢力を拡大させていく様になります。


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上がそのカスティーリャとアラゴンの位置と支配領域です。カスティーリャはアラゴンの3倍近い大きさですね。後にこの二カ国は一つの王国として統合されるのですが、決して仲が良かったというわけではないのです。

第三の理由は、カスティーリャ王国の内紛です。詳細はテーマからそれるので省きますが(汗)要約すると、1360年代、先王と正妻である王妃との間に生まれた兄王と、その先王が愛人に産ませ、臣下の貴族に養子に出した弟が王位をめぐって争い、当時百年戦争の最中にあったイギリスとフランスがそれに介入、イギリスは兄王を、フランスは弟を支援し、最終的にはフランスの支援する弟側が勝利して新王朝(トラスタマラ王朝といいます。)を開きます。この内紛にはもちろん先のアラゴン王国も暗躍しており、内紛が収まっても、カスティーリャ王国は疲弊した国内の建て直しにかなりの年数を要し、14世紀が終わるまでレコンキスタを中断せざるを得ませんでした。

こうしたいわば外的な要因のおかげで、グラナダ王国は独立を維持し、その間に王国の中心アルハンブラ宮殿ではそれまで蓄積され、磨き上げられてきた光り輝く華麗なイスラム文化に包まれていったのです。


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上の一連の画像はアルハンブラ宮殿の内部の様子です。これは自分の個人的な感想ですが、この宮殿の魅力は外から見た建物群はもとより、その内部のイスラム装飾の美にあると思います。写真のイスラム独特のアラベスク装飾に注目して下さい。

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上の画像群はアルハンブラ宮殿の庭園の様子です。砂漠の民が興したイスラム王朝においては、水と緑は黄金よりも貴重なものであり、それらで宮殿を埋め尽くす事は王だけに許された何よりも贅沢な事でした。ちなみにこの宮殿の入場料金は日本円で大人一人2千円もあればおつりが来るので(12歳以下の子供たちは保護者同伴なら無料)それほど高くはないのですが、世界遺産ならびにそのネームバリューから世界中から観光客が絶えないため、当然ながら完全予約制で人数に制限があります。また見学するのも、昼の部と夜の部で料金や時間、見学出来るコースも違うので、旅行される際は事前に良く調べておいたほうが良いと思います。それにしても、とにかくこの宮殿は写真を載せていたら切りがありません。(笑)

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上はアルハンブラ宮殿内に併設されているホテルとレストランです。実はこの宮殿、あまり知られていませんが、宮殿内の修道院を改装してホテルとなっており、宿泊する事が出来ます。これはスペイン国営の「パラドール」と呼ばれるもので、客室は40ほど、料金は日本円で1泊5~7万円ほどです。しかし、元が修道院なので建築上の制約から一つ一つの客室はそれほど広くはない様です。

しかし、これだけの宮殿を建設するには当然莫大なお金が必要です。王国とはいえ国家の規模としては小国に過ぎないグラナダは、一体どこからその金を得ていたのでしょうか? そこにも、グラナダ王国が繁栄したもう一つの理由があります。上の地図をご覧になればお分かりの様に、グラナダは地中海の西の出入り口であるジブラルタル海峡を押さえています。そのため彼らは必然的に海上貿易に大きな影響力を持っていました。当時地中海とりわけ西地中海の制海権を握っていたのは、海洋都市国家ジェノヴァであり、貿易で生きるジェノヴァにとってグラナダと友好関係を保つのは国の運命を左右する重大事でした。

友好関係を保つとは、要するに「お金」の事です。ジェノヴァはグラナダに多額の資金援助をする見返りに、ジェノヴァ商船のジブラルタル海峡通過や関税免除などの優遇措置を受けていたのです。つまり、アルハンブラ宮殿建設の資金を出していたのは、ジェノヴァであったといっても過言ではないでしょう。

この様に、繁栄を謳歌していたグラナダでしたが、所詮それは歴史の束の間の夢に過ぎませんでした。なぜなら15世紀に入り、先の内戦で疲弊した国内の混乱を収めたカスティーリャ王国が、再びレコンキスタを再開したからです。すでにこの時、イベリア半島に残るイスラム勢力はグラナダだけになっていました。気が付いた時、グラナダはイベリア半島におけるイスラム最後の牙城になっていたのです。

しかし、ナスル朝後期の王たちは、50年近く続いた繁栄の時代にすっかり慣れてしまい、初期の王たちが苦心した外交、防衛戦略を怠る様になってしまっていました。さらに悪い事に、それまで対立していたカスティーリャとアラゴンの二カ国が、関係を改善して急速に接近し始めます。その象徴が、カスティーリャ女王イサベル1世と、アラゴン王フェルナンド2世の結婚です。


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上がカスティーリャ女王イサベル1世(1451~1504)とアラゴン王フェルナンド2世(1452~1516)です。彼らは1469年に結婚し、5人の子に恵まれ、夫婦力を合わせてグラナダ王国を滅ぼし、およそ800年続いたレコンキスタを終わらせて後のスペイン王国を築き上げました。しかし、この時点ではスペイン王国とは呼ばれず、あくまで「カスティーリャ・アラゴン連合王国」というものでした。これを「同君連合」といい、この二人の王は結婚によってお互いの国の王でもあるという形を取っていました。つまり、王と王妃ではなく、どちらも王様なのです。

これにより、両国を相争わせてそれ以上の南下を防ぐというそれまでの伝統的なグラナダ防衛戦略が通用しなくなります。それに先立つ1462年、カスティーリャはグラナダの資金源を絶つために先のジブラルタル海峡に侵攻し、これを奪い取ります。このジブラルタル海峡の喪失は、グラナダに深刻なダメージを与えました。なぜならここを押さえていた事で、グラナダ王国は西地中海の海上貿易をコントロール出来たからです。そのジブラルタルが、グラナダからカスティーリャのものになった事で、それまでグラナダに多額の資金援助をしていたジェノヴァがあっさりとグラナダを見限り、グラナダへの貿易と投資から一切手を引いてしまいます。

もはやグラナダ王国の命運は時間の問題でした。そして1491年の冬、フェルナンド2世率いるカスティーリャ軍はグラナダに侵攻、およそ1万の兵力でグラナダ最後の砦アルハンブラ宮殿を包囲してしまいます。この時のグラナダ王は第23代ムハンマド11世(1460?~1527)で、彼ははからずも自らに課せられた最後のつらい仕事に臨む決意を固めていました。それはもう勝ち目のない無益な戦いをやめ、降伏してグラナダ全土をカスティーリャに引き渡す事です。彼はその証として、グラナダの象徴アルハンブラ宮殿の門の鍵を携えてイサベル、フェルナンド両王と会見します。


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上がその会見の様子を描いた絵です。ここに、およそ800年の長きに亘ったレコンキスタは終わりを迎えるのです。アルハンブラ開城に際し、最後の王ムハンマド11世は一旦は協定によりカスティーリャ領内に与えられた所領に赴きますが、やがて北アフリカに居を移して二度とグラナダに戻る事なく生涯を終えます。落ち延びていくムハンマド11世の姿が哀れです。その視線の先には、かつての自らの居城、あのアルハンブラ宮殿の姿があった事でしょう。こうして23代260年続いたナスル朝グラナダ王国は滅亡したのです。

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上は夕日を浴びて浮かび上がるアルハンブラ宮殿です。国が滅んで500年経った今も、アルハンブラは燃え盛る炎の様な強烈なイスラムの美を今日の人々に伝えるために、グラナダの丘の上にそびえています。

次回に続きます。
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