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ヴァイキングが創ったローマ帝国!? ・ クレムリン(前編)

みなさんこんにちは。

今回ご紹介する宮殿は、世界最大の国土面積と強大な軍事力で、今なおアメリカのライバルとして世界に認識される「超大国」ロシアから、首都モスクワにその威容を誇るクレムリンについてお話したいと思います。

このクレムリンは、後で詳しく述べていく様に、元はロシア帝国の宮殿の一つだったものですが、昭和世代の多くの日本人にとっては、なんといってもその後に成立した旧ソビエト連邦の中枢としての不気味で暗いイメージ、あの「赤の広場」でのソ連軍の壮大な軍事パレードを思い浮かべる方が圧倒的に多いのではないかと思います。

自分は東西冷戦と米ソの軍拡競争がそのピークに達していた1980年代前半に小学生でしたが、あれから30年以上の時が過ぎ、しがない中年男(笑)になった今でも、当時テレビのニュースで盛んに流されていたあの頃の映像は今でも強烈に印象に残っています。

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上は旧ソビエト連邦時代のクレムリンと、その前に広がる「赤の広場」での軍事パレードの様子です。暗く寒々しいどんよりとした曇り空に翻るソ連国旗の赤旗の下、ソ連の生みの親レーニンの巨大な絵の前で、雪のちらつく中を恐ろしい数のミサイルや戦車が通り過ぎる姿。これが自分の進歩のない幼稚な頭(笑)で思い描く「悪の帝国」と恐れられた旧ソ連のイメージです。

もちろん冒頭で述べた様に、このクレムリンは社会主義国家ソビエト連邦が建造したものではありません。その歴史は大変古く、今をさかのぼる事900年前に始まります。それは今日のロシアが国家として歴史に登場した時期とほぼ重なり、つまりこのクレムリンは、ロシアとともに生まれ、ともに歩み、ロシアの歴史を見続けてきたまさに「ロシアそのもの」といっても良いでしょう。

それでは、そんなクレムリンの誕生から今回のお話を始めていきたいと思います。

ところでみなさんは、ロシアという国がいつ頃、どんな経緯で誕生したかご存知でしょうか? 話が大きく脱線する自分の悪い癖(汗)で恐縮なのですが、このクレムリンについてお話を進めていくにあたり、それはロシア建国にどうしても触れずには置けないため、ここで簡単にご説明して置きましょう。

今日私たちがロシアと呼ぶ国家は、当然の事ながら最初からこんな広大な領土を持つ国であったわけではありません。その創成は今からおよそ1200年ほど前の9世紀から始まります。その当時、ウラル山脈の西側から現在のウクライナ、フィンランドにかけての地域には、スラヴ人が多くの部族に分かれて暮らしていました。もちろん彼らに「国」という概念はまだありません。そんなヨーロッパでも再辺境のこの地に、そのスラヴ人たちが「ヴァリャーグ」と呼ぶ民族が北方から船で川をさかのぼり、この地にやってきます。

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上がその「ヴァリャーグ」と、スラヴ人たちの交流を描いた絵です。「ヴァリャーグ」とは、つまりみなさんも良くご存じのあの「ヴァイキング」の事で、スカンジナヴィアを発祥として北方海域を荒らしまわった強大な海洋武装民族の事ですね。一般にヴァイキングというと、「海賊」というイメージが強く、実際西ヨーロッパでは略奪の限りを尽くして有名ですが、ヴァイキングたちによるそうした略奪は初期の頃の話で、当初は野蛮な荒くれ者の集団であった彼らも、キリスト教に接して文明的な生活を知ると、次第に交易によって富を得る様に進化していきます。上の絵でも、毛皮や貴重な香辛料などの交易品をスラヴ人たちとやり取りしています。一方スラヴ人たちの方は、強力な武力を持つヴァリャーグに「駐留」してもらい、自分たちのテリトリーを他の部族から守ってもらうわけです。

こうして交流を重ねるうちに、スラヴ人たちもヴァリャーグを支配者として受け入れ、彼らは次第に同化していきます。やがて、そのヴァリャーグの中で、ノルマン系ヴァイキングの一派ルーシ族の族長であったリューリクという人物が、862年ごろにロシア北方ラドガ湖の近くに位置するノブゴロドという街を根拠地として「ノブゴロド公国」という都市国家を建国しました。


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上がそのリューリク(830?~879?)と伝わる人物の絵です。金髪で青い目の屈強な男たちから成る強力な軍団を従えた威厳に満ちた王様ですね。といってもこの人物、実は250年以上も後の1100年代に書かれた年代記に登場するのみで、実在したかどうかはっきりとした確証がない伝説の人物です。(わが国でいえば皇祖にあらせられる神武天皇に相当するでしょう。そう考えれば、伝説とはいえこのリューリクこそ、ロシア建国の父と言えるかも知れません。そして後のロシア帝国に至るまでの過程において成立する後継国家の諸国はいずれも彼の子孫をその君主とし、それゆえ彼に始まる王朝は、ロシア第1王朝リューリク朝と呼ばれています。)

その年代記によれば、リューリクの死後その一族は南下してウクライナ北部にまで勢力を拡大させ、882年にキエフを都とする「キエフ大公国」を成立させます。


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上がそのキエフ大公国の範囲です。しかし、その名は歴史上「後付け」で付けられたものであり、実際には当時の周辺の国々からは「ルーシ」と呼ばれていました。それは建国の父リューリクの率いる「ルーシ族」に由来し、それが転じて「ロシア」となったのは容易に想像が出来るでしょう。

ともあれ、そのルーシに初めて事実上の統一国家として成立したキエフ大公国こそ、後のロシアのと母体となる最初の国家であり、そのキエフ時代の12世紀半ばに、現在のモスクワの地に築かれた城塞こそ、クレムリンの始まりです。その名の由来は、正にそのまま「城」や「砦」を表すロシア語の「クレムリ」から来ており、クレムリンは英語読みです。(ついでにロシアの首都モスクワの名の由来ですが、こちらは諸説あって定かではありません。ただし、古い文献には「水たまり」とか「川」の意味があるそうなので、やはり単純にそこから来ているものと思われます。)

といっても、そのクレムリンも最初から今日見られる様な堅固な石造りで築かれたわけではありません。初めは土塁に木の柵をめぐらした簡素なものに過ぎず、規模もはるかに小さなものでした。なぜなら後のロシアの首都となるモスクワは、この頃はまだこのクレムリを中心に人口も数千に満たないような、他にもたくさんある小さな街の一つに過ぎなかったからです。

このキエフ大公国は、9世紀後半に建国すると徐々に勢力を拡大させ、黒海を目指して南下していきます。しかし、その先には南の大国ビザンツ帝国があり、10世紀に入ると両国は幾度も戦火を交えますが、キエフ遠征軍は海軍力に勝るビザンツ軍にその都度撃退され、結局上の図以上に領域を拡大する事は出来ませんでした。

しかし、ビザンツ帝国との間柄は決して戦争ばかりしていたわけではなく、ビザンツを通しての交易によって入ってくる東方からの莫大な富と優れた文化、とりわけビザンツに倣ってキリスト教を国教として取り入れた事が、それまで「野蛮で遅れた辺境の民」であったこの地のルーシ人を「文明人」として大きく進歩させ、歴史上この時期に、後のロシアのアイデンティティーが形作られたと言えるでしょう。

そんなキエフ大公国でしたが、はるか東の草原から疾風のごとく押し寄せて来た強大な敵によって、1240年に滅亡してしまいます。みなさんもご存知のモンゴル帝国の侵攻です。7万5千から成るモンゴル軍はロシアの平原になだれ込み、全土を蹂躙し、徹底的な破壊と殺戮を行いました。この戦乱でモスクワのクレムリンも焼かれてしまい、一時放棄されてしまいます。

モンゴル帝国によるロシア支配は、その後200年以上続き、この時代をロシアの歴史では「タタールのくびき」と自虐的に呼び、屈辱の時代として記憶されています。(「タタール」とはヨーロッパから見たモンゴルや中央アジアの総称で、「くびき」とは畑を耕す際に牛などの家畜の首に付ける木製の太い首輪の事ですね。)

このモンゴル支配下の時代、ロシアでは滅びたキエフ大公国に代わる新たな国家が出現していました。1263年に成立したモスクワ大公国です。この国はキエフ大公国滅亡後、モンゴル支配下において分かれたいくつかの公国の一つでしたが、文字通りモスクワを都として次第に力をつけ、第9代大公イヴァン3世の時代についにモンゴルからの独立を達成します。

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上は1480年、臣従と貢納を迫るモンゴルの王からの手紙を破り捨て、使者の首根っこをつかんで追い返すイヴァン3世です。(1440~1505)彼の治世、ロシアは事実上モンゴル支配を脱し、彼は240年続いた「タタールのくびき」を終わらせた偉大な君主として、ロシアでは「イヴァン大帝」と呼ばれています。

彼の業績はそれだけではありません。彼の在位中、本テーマ(だいぶ内容が脱線してしまって恐縮ですが。汗)の主役であるクレムリンがほぼ現在の姿に形作られたのです。すでにその前に、クレムリンは石造りの城塞に再建されていましたが、イヴァン3世はルネサンス全盛期のイタリアからはるばる建築家を招き、クレムリンをそれまでの単なる城塞から、大公が住むにふさわしい優雅な宮殿として全面改築しました。

イヴァン3世は勢いに乗り、モンゴル支配下に乱立していた他の諸国を統一、昔日のキエフ大公国に匹敵する領域を支配します。さらに彼はこの時、ロシアをそれまでの辺境の一公国から、後の帝国へと発展させる布石を打つのです。それはちょうど彼の在位中の1453年、かの古代ローマ帝国の正当な継承国家である東ローマ帝国すなわちビザンツ帝国がイスラムの覇者オスマン帝国によって滅ぼされた事により、ビザンツ帝国最後の皇帝家パレオロガス家から皇妃を迎え、自らを「ツァーリ」(皇帝)と称したのです。

そして彼の孫で11代モスクワ大公イヴァン4世(1530~1584)は、国名をロシア・ツァーリ国と改め、その初代ツァーリとして正式に即位するのです。これにより、ロシアはかの古代ローマ帝国の系譜をビザンツから引き継ぎ、「第三のローマ帝国」と自称する様になるのですが、このイヴァン4世という王様、別名を「イヴァン雷帝」(らいてい)と呼ばれるほど気性の激しい人物で(つまり、怒ると「雷」みたいに恐ろしいという事です。)ツァーリのみに絶対忠誠を誓う者で構成された親衛隊を創設し、彼に反対する者を徹底的に弾圧、その上密告によって互いを監視させる制度を設け、少しでもツァーリに反対する言動をすればただちに逮捕、投獄するシステムを構築します。いわゆる「恐怖政治」の始まりです。

これは後のロシアの権力者によって連綿と受け継がれ、その結果、その後にロシアがたどった歴史の動きと相まって、今日に至るまでロシアという国のイメージを暗く冷たいものにしてしまう原因となりました。

イヴァン雷帝のヒステリーは年を追うごとに激しさを増していきます。特に、最初の皇妃で最も愛し、唯一彼を諫めることができた妻アナスタシアが亡くなってからは、もうその蛮行を止められる者は誰もいませんでした。アナスタシアの死後、彼はなんと7回も再婚しますがいずれも失敗、生来のヒステリー症から、ついには後継者で同名のイヴァン皇太子の妃エレナが懐妊して腹に負担がかかるからとロシア正教の儀式用の衣装を身に付けなかった事に激怒し、彼女の腹を何度も蹴り、慌てて止めようとした皇太子の頭を杖で殴打、その傷がもとでイヴァン皇太子は数日後に亡くなってしまうのです。(もうメチャクチャですね。呆)

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上がその事件を描いた絵です。イヴァン雷帝が我に返った時はすでに遅く、皇太子は致命傷を負って27歳の若さで亡くなってしまいました。ほどなく雷帝に腹を蹴られた妃のエレナも流産の後亡くなります。雷帝はこの事を生涯悔やみ続け、ある意味で「地獄の苦しみ」を味わいながら1584年に64歳で崩御します。(記録では、自分が殺してしまったイヴァン皇子の名を呼びながら、月明かりに照らされたクレムリンの回廊をさまよう雷帝の姿が何度も目撃されているそうです。)

イヴァン雷帝にはもう一人の皇子フョードルがいましたが、知的障害で子は成せず、その上病弱で1598年に41歳の若さで亡くなると、後継者の絶えたリューリク王朝はついに断絶してしまいます。かつてヴァイキングの王リューリクが築き、そのリューリク家によって700年以上に亘り勢力を広げ、ついにはローマ帝国の後継者を自認するまでに至った王家は、その最後の当主が自らの子を殺めて幕を引く事になったのです。それは語るにはあまりにも馬鹿らしく、あっけない末路でした。そしてその舞台となってそれを見続けたのもクレムリンだったのです。

後編に続きます。
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