民主主義の影にさまようソビエトの亡霊 ・ クレムリン(後編)

みなさんこんにちは。

前回に引き続き、今回もロシアの歴史を黙って見続けてきた「沈黙の証言者」ともいうべきクレムリンについてお話ししたいと思います。

血に飢えた恐怖のツァーリ、イヴァン雷帝の死後、その跡を継いだ息子のフョードル1世が1598年に世継ぎを残さず亡くなると、およそ736年続いたロシア第一王朝リューリク朝はここに断絶してしまいます。そして、その後のロシアは激しい混乱の時代を迎える事になりました。ロシアにおいて「大動乱時代」と呼ばれる混迷の時代です。

この大動乱時代は先の、リューリク朝最後のツァーリであったフョードル1世の死から1613年までおよそ15年もの間続き、その間にロシアは国内においては短命皇帝の乱立、その混乱に付け込んで侵攻した隣国ポーランドとスウェーデンとの戦争、三度の大飢饉など、まさに目も当てられない危機的状態に陥ってしまいます。

そんなロシア国家の危機に立ち向かったのは、名もない一般のロシア人たちでした。彼らは国民義勇軍を組織し(その指導者はクジマ・ミーニンといい、その職業は軍人でも何でもない、なんと「肉屋」だったそうです。笑 ミーニン「将軍」はその功績により、後に述べるロマノフ王朝において貴族に取り立てられ、今もロシアの英雄として語り継がれています。)10万の大軍に膨れ上がったロシア軍は侵攻してきたポーランド軍やスウェーデン軍を撃退、見事ロシアから追い払ったのです。

1613年2月、外敵を追い払ってやっと混乱を収束させたロシアでは、貴族、教会、市民の代表から成る全国会議を開催、新たなツァーリの選出が行われます。それによって新ツァーリに推戴されたのは、前王朝リューリク朝の外戚であった大貴族ミハイル・ロマノフでした。ここに、あのロマノフ王朝が成立したのです。

Michail Romanov

上がロシア第二王朝ロマノフ朝の創始者ミハイル・ロマノフです。(1596~1645)上の画像は晩年のものですが、彼がツァーリに即位したのはまだ17歳の若さでした。彼の一族ロマノフ家がツァーリに推戴されたのは、前王朝のイヴァン雷帝の最初の妃であったアナスタシアがロマノフ家から「輿入れ」し、雷帝の寵愛を最も受けた事が大きく影響していました。

この新王朝ロマノフ家の統治の下で、ロシアは再び大国への道を登り始めます。特に、ロマノフ王朝5代目のツァーリ、ピョートルの時代に、ロシアは大きく激変します。1721年、ピョートルはそれまで全ロシアの君主としての意味合いしか持たなかった「ツァーリ」に代えて、「インペラトール」すなわち「皇帝」を称し、自ら皇帝ピョートル1世として即位、同時に国名もロシア帝国と改めたのです。


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上がそのピョートル1世です。(1672~1725)彼については、その強力な指導力によってロシアの近代化と改革を推し進め、それまではるか東の遅れた辺境国にすぎなかったロシアをヨーロッパの強国に押し上げた偉大な皇帝として、ロシア皇帝として唯一「大帝」として崇められています。実際の彼はなんと身長2メートル13センチもある大変な大男で(おそらく記録に残る世界史上最も背の高い君主ではないでしょうか? しかし、そんな大男なのに寝る時は小さなベッドでうずくまって寝ていたそうです。笑)それほど長命だったわけではないのですが(53歳で崩御)その在位中の数々の風変りなエピソードで歴史好きな方には良く知られていますね。

さて、この頃クレムリンはどうなっていたのでしょうか? 実はこのピョートル大帝の時代から、ロシアの首都はモスクワから大帝が新たに建設したサンクトペテルブルクに遷されてしまいます。そう、あまり知られていませんが、帝政時代のロシアの首都は一貫してサンクトペテルブルクであり、モスクワがロシアの首都に返り咲くのは、1917年のロシア革命によってロマノフ王朝が倒され、帝政が滅んでから後の事なのです。

しかし、その間もロシア最大の都市であるモスクワの地位は揺らぐ事は無く、当然クレムリンもロマノフ家の重要な宮殿として歴代皇帝の下で増改築が進められていきました。


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上がクレムリンの全景と、そのクレムリンの象徴ともいうべき大クレムリン宮殿です。この大クレムリン宮殿は、1849年に当時最新の技術と最高級の資材をふんだんに使って建造されたロシア建築の最高傑作で、ロマノフ家がその財力にものを言わせ、威信をかけて作り上げた宮殿です。一見すると外観は三階建てですが、実際の内部構造は二階建てで、一階部分にロマノフ皇帝家一家の日常の私室が並び、二階部分に外国使節の謁見や勲章授与式などの国家行事を行う大ホールが並んでいます。

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上は先に述べた大ホールの一つ「アレクセーエフの間」です。ロマノフ皇帝家の紋章である「双頭の鷲」(オーストリアのハプスブルク家も双頭の鷲を紋章にしていますが、そもそもヨーロッパにおいて双頭の鷲は古代ローマ皇帝を意味するもので、ハプスブルク家はかつてのドイツ神聖ローマ皇帝、そしてロマノフ家は東ローマすなわちビザンツ皇帝の後継者を自認していた事から、両皇帝家ともローマ皇帝の紋章を家紋にしていました。)背後に皇帝の黄金の玉座が置かれています。

わが国の皇居でいえば、正殿中央の「松の間」に相当するものでしょう。しかし、第二次大戦後に再建され、一切の装飾を省いたミニマリズムの極致ともいうべき日本建築の代表であるわが国の皇居とは対照的に、当時のヨーロッパ宮殿建築の粋を集めた絢爛豪華な姿には圧倒的な魅力がありますね。(とにかく宮殿内部は、どこもかしこもこんな風に目もくらむような「キンキラキン」です。笑)


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上は宮殿内部の部屋の一つ「ミカエルの間」です。ロシア正教の聖人の名を冠したものですが、「宗教は大衆の麻薬」といって否定したソビエト時代を潜り抜け、良く残っていましたね。(驚)

帝政時代、ロマノフ王朝はロシア帝国の拡大とともに、海外植民地経営で巨万の富を得ていたイギリス王家と並ぶ世界屈指の財力を誇る王家となります。その象徴がクレムリンに代表されるこうした絢爛豪華な宮殿群ですが、一般のロシア国民の暮らしは貧しく、民衆は常に飢えに苦しんでいました。そうした中で、これら王侯貴族などの一部特権階級による富の独占を無くし、人民に等しく公平に国の富を分配するべきだという思想が生まれます。いわゆる「共産主義」「社会主義」思想です。

これらの思想は、ロシア国内では最初は少数派でしたが、次第に勢力を伸ばしていきます。そしてそのロシア共産主義のリーダーともいうべき人物が、みなさんもご存知のウラジミール・レーニン(1870~1924)です。


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上は第一次世界大戦中の1917年10月に発生した「10月革命」でロシア民衆に演説するレーニンです。一般に「レーニン」の名で知られていますが、実際の彼の本名はウラジミール・ウリヤノフといい、レーニンとはかつて若いころの彼が一連の共産主義活動で逮捕され、流刑に処されたのがレナ川沿いの収容所であった事にちなみ、「レナ川の人」という意味で本人が名乗ったニックネームだそうです。

また、歴史上「ロシア革命」は全て彼が起こしたものであると誤解されがちですが、実際には彼は、ドイツがロシアを大戦から離脱させるための「道具」(失敬。 笑)として、スイスに亡命していた彼を送り込んだのが事実です。そう、ロシア革命とは第一次大戦が長い膠着状態に陥り、一向に戦局が動かない事に焦ったドイツが、ロシアと対峙している兵力をイギリス・フランス軍との西部戦線に振り向けるためにロシアの民衆を煽って引き起こさせたものなのです。そのリーダーとして革命を指導したのがドイツの後ろ盾を得ていたレーニンでした。

同じ君主制のドイツ帝国にとって、本来なら共産主義者を利用するなどとても危険なはずですが、戦争に勝つためにはもうドイツもなりふりなど構っていられなかったのでしょう。

「先の事はイギリスとフランスを叩き潰して戦争に勝ってからだ。その後に返す刀でロシアを片づければ良い。その前にどうせ革命など長続きはすまい。」

とタカをくくっていたのです。ドイツの計略は途中まではうまくいきました。ソビエト政権を作ったレーニンとドイツはかねてからの密約通り休戦協定を結び、ソビエトは大戦から離脱、これによりドイツはロシア方面(東部戦線)の兵力の大半をイギリス・フランス連合軍との西部戦線に振り向け、一気に戦争に「ケリ」を着けるべく一大反攻作戦を開始するのですが、弾薬の補給が追い付かずに作戦はとん挫、そうこうしているうちにアメリカが参戦して再び後退を余儀なくされ、結局作戦は失敗してしまいます。

その後、ドイツ軍は二度と態勢を立て直せずに総崩れとなり、さらに敗戦が決定的となった事を知ったドイツの民衆の間でも、隣国ロシアでの革命に触発されて革命が勃発、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が退位亡命してホーエンツォレルン王朝が倒れ、1918年にドイツ帝国も滅亡する事になるのです(つまりドイツは自らがロシアに仕掛けた革命が自国に跳ね返り、滅びる事になったのです。因果応報とはいえ歴史とはつくづく恐ろしいものですね。)

ともあれロシア革命は成功したわけですが、これに伴いクレムリンの支配者も入れ替わる事になります。新たに権力を握ったレーニンはソビエトの首都をそれまでのサンクトペテルブルクからモスクワに戻し、クレムリンに新政府を置きます。そして、それまでの支配者であった皇帝ニコライ2世は革命の勃発により退位、皇帝一家はおよそ1年ほど監禁された後、レーニンの命令によって銃殺されてしまうのです。彼の死により300年続いたロマノフ王朝は滅亡し、ロシアに世界初の社会主義国家が誕生する事になります。このあたりは、歴史好きな方であればよく知られていると思います。


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上はロマノフ王朝14代皇帝ニコライ2世(1868~1918)とその家族です。皇帝一家は退位後レーニン率いるボリシェヴィキ(これはロシア語で「多数派」という意味だそうです。実は後のソ連共産党は最初からからあったものではなく、革命直後は社会民主労働党という長い党名の政党でした。その中で徐々にレーニン一派が最大勢力を占め、それがそのままソ連共産党を指すものになったのです。)によって一年ほど逮捕監禁されていました。その理由は彼らロマノフ家がドイツ皇帝ホーエンツォレルン家と親戚であり、ドイツの支援で今があるレーニンにとってはそう簡単に処理できなかったからです。

しかし、1918年に入ってドイツの敗戦が確実になり、またロシア国内で反革命の旧帝政派(白軍)が、囚われの皇帝一家奪還のため各地で反乱を起こすと、レーニンは恐ろしい決断をする事になります。

「彼ら白軍がもし皇帝を奉じて再び帝政を復活させる事になれば、苦労して革命を起こした意味がない。300年の長き年月ロシア人民の血にまみれてきた皇帝一家は地上から抹殺すべきだ。ただちに処刑せよ。」

こうしてその命令は実行され、皇帝一家は密かに銃殺されてしまうのです。この時から、その後のロシアの行く末、暗く冷酷なソビエト時代が始まったともいえるでしょう。あのソビエト連邦という異常な国家政体の体質は、このレーニンによって作り出されたものなのです。そのレーニンも、権力の頂点にいる事が出来たのは革命後の6年余りの短いものでした。長年の革命活動による弾圧に耐えて生きて来た彼はすっかり健康を害しており、1924年に53歳で亡くなってしまいます。

それから、クレムリンの支配者は目まぐるしく変わります。レーニンの後を継ぎ、彼よりももっと冷酷で暗く、極悪非道な独裁者スターリンによる30年に亘る暗黒の時代、第二次世界大戦と戦後の米ソ冷戦下において、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコなどの歴代のソ連共産党指導部の熾烈な権力闘争を経て、ゴルバチョフの出現による改革の失敗、そしてソビエト連邦の崩壊。このあたりの流れは、昭和世代の歴史好きな方であれば良くご存じの事と思います。


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上は旧ソ連時代、クレムリンのレーニン廟の上から市民に手を振るソ連指導部の面々です。老人ばかりですね。にこやかな表情の裏で、彼らお爺さん連中(失敬 笑)は熾烈な権力闘争を繰り広げていたのです。米ソ冷戦時代、アメリカをはじめ西側諸国では、情報閉鎖社会の旧ソ連の内部構造の分析に、中央のブレジネフを挟み、その横に並ぶ幹部らの立ち位置によって、ソ連共産党における序列を推測していました。これを「クレムリノロジー」といいます。

それから・・・。ソ連崩壊から20年余の月日が流れ、現在クレムリンの(というよりロシアの)支配者は今日みなさんもご存知のウラジミール・プーチン大統領(1952~)です。エリツィンの後を継ぎ、2000年にロシア連邦2代大統領に就任して以来、ほぼ一貫してロシアの頂点に君臨し続けています。


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上はクレムリンの大統領府において、衛兵の敬礼を受けつつ公式会見の場にさっそうと歩むプーチン大統領です。就任当初からその若さと開明さ、そして強力なリーダーシップを期待され、彼の在任中ロシア経済は大きく成長、国民の年収はなんと8倍にまで伸びたそうです。それゆえ現在もロシア国民に強く支持されています。

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テーブルにご馳走を並べてくつろぐプーチン大統領。自分でティーポットからお湯を注いています。彼は良く私生活のこうした飾り気のない一面を積極的に公開して内外のマスメディアに好感を持って報じられています。実際、個人としての彼は以前にもご紹介したように大変な親日家であり、柔道の黒帯の有段者でもあります。(自分も一個人としての彼は好きです。あくまで個人としてですが。笑)しかし、国家の指導者、政治家としての彼は、自分への反対者に対して容赦なく攻撃する実に冷徹な面が近年顕著に見られる様になってきています。

それはあたかも、旧ソ連指導部の亡霊が今なお彼を介してクレムリンをさまよい歩き、民主主義になったはずの今日のロシアでまたも同じ事を繰り返しているように見えてなりません。なぜならプーチン氏は、あの旧ソ連の秘密情報部KGB出身であり、かつて若い頃は謀略と特殊任務に従事したれっきとしたエージェントであったからです。

そのプーチン大統領も就任からすでに17年に達し、ソ連時代のかのブレジネフ書記長の在任期間を超えて戦後ロシアにおける最長の指導者になる事は確実です。今後の彼とロシアの動向については、わが日本も北方領土の関係から目が離せません。


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最後に、今回のお話を締めくくるにあたり、クレムリンのもう一つの「顔」をご紹介しておきましょう。クレムリンと言えば、上の様に高く足を上げて一糸乱れずに歩いて交代する衛兵の姿がソ連時代から有名ですね。一切表情を変えず、数人で時間が来たら交代する彼らの姿は、現在モスクワを訪れる世界中の観光客にも大人気で、彼らの「マネ」をして歩く子供たちの姿がなんとも微笑ましいです。(わが国でも、皇居において天皇陛下を護衛する皇宮護衛官の交代が同様にありますが、失礼ながらなんとも味も素っ気もないつまらないものです。これは自分の日本国民としての個人的な提案ですが、将来憲法改正によって自衛隊が国軍となった暁には、天皇陛下直衛の近衛部隊を国軍から選抜し、諸外国のような衛兵交代式を皇居前広場で国民の前に披露する事を希望します。外国の観光客にも喜ばれるでしょう。)

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「カツカツ」と規則正しく音を立てて歩くクレムリンの衛兵たち。良くもこんなに高く足が上がるものです。スマートでスタイルの良いロシアの若い衛兵さんたちが無表情で首を傾けて敬礼する姿は観光客にも大人気です。もしかすると、今のクレムリンの本当の主役は、大統領ではなく、彼ら若い衛兵たちかもしれませんね。(笑)

終わり。
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