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クローヴィス1世とメロヴィング王朝 4

みなさんこんにちは。

507年のヴイエの戦いでアラリック2世率いる西ゴート軍を破ったクローヴィスのフランク軍は、その後西ゴート王国の首都トゥールーズを落とし、さらにヒスパニア(現スペイン)のピレネー山脈付近まで西ゴート軍を追いやり、ガリア(現フランス)のほとんどを手中に収めました。

その気になればヒスパニアに侵攻する事も出来ましたが、クローヴィスはそれ以上の深追いはせず、山脈を天然の国境線として各地に守備隊を置くと、兵をまとめてガリアに帰還します。その理由は不明ですが、恐らく後方にいるテオドリックの東ゴート王国を警戒しての事と思われます。

第2回でお話した様に、クローヴィスは493年に妹をテオドリックと政略結婚させて「同盟」を結んでいますが、そのテオドリックは自分の娘をクローヴィスがヴイエの戦いで破って処刑した西ゴート王アラリック2世に嫁がせ、こちらとも「同盟」していました。

しかしクローヴィスが嫁がせた妹と、テオドリックの間には後継者の王子が生まれず、テオドリックが西ゴートのアラリック2世に嫁がせた娘には、未来の後継者たる待望の王子が生まれていました。それに出身部族も、東西に分かれているとはいえ同じ「ゴート族」であり、つまりクローヴィスのフランク族とのつながりは、妹を通しての非常に脆弱なものでしかなかったのです。

いつ同盟を破棄されてテオドリックに攻め込まれるか分かりません。そうなればアラリック2世の復讐と失地回復に燃える西ゴート軍との挟み撃ちに遭って、せっかく苦労して広げた領土を失いかねません。そのため彼は、テオドリックの東ゴート王国には攻め込む意志の無い事を示すため、様々な工作でかなり気を使っていた様です。しかし幸いテオドリックは、クローヴィスのフランク王国よりも、東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)との諸問題に追われていたので、彼の懸念は杞憂に終わりました。

508年クローヴィスは、自らが築いたフランク王国の首都をパリに定め、戦いに明け暮れていた毎日から一転、新たな国づくりに向けて国政に専念し始めます。(彼が都に定めた「パリ」の語源は、かつてこの辺り一帯に居住していたケルト系の「パリシー族」の名にちなんだと言われています。)彼はローマ法とゲルマンの慣習を融合させた「サリカ法典」を編纂し、セーヌ川にキリストに捧げる修道院を築くなど精力的に動いていましたが、一方でこの頃から健康に不調をきたし、病気がちになりました。

健康の不調はいつも勝利の自信に満ちていたクローヴィスの心身を蝕み、死への恐怖に怯えて過ごす様になります。そしてそれは晩年の彼の心に他人への猜疑心を増長させてしまいました。彼は自分の命も先が長くないと悟ると、自分亡き後の息子たちへの速やかな権力移譲を図るため、他のフランク有力家門を次々と奸計にかけてそのほとんどを抹殺し、メロヴィング家の王朝世襲を強固なものにしました。(これによりメロヴィング家は以後240年もの間、フランク王国の王家として君臨し続ける事が出来ました。)

西暦511年11月、一代で西ヨーロッパに広がる大王国を築いたクローヴィス1世は息を引き取りました。45年の決して長くない一生でした。彼の遺体はパリ郊外にあるサン=ドニ大聖堂に埋葬されましたが。その墓は今だに発見されていないそうです。

Basilique_Saint_-Denis.jpg

上がそのサン=ドニ大聖堂。現在の建物は13世紀のもので、クローヴィス以後のメロヴィング家の王たちを始め、それ以後の歴代フランス国王のほとんどがここに埋葬されています。

彼の死後、フランク王国はフランク族特有の習慣に従って4人の息子たちに分割されます。しかしこの分割相続が仇となり、4人の息子たちは兄弟間で骨肉相争う領土争いを展開、最終的にクローヴィスの末子であるクロタール1世(497~561)が全フランク王国を手中にしますが、それ以後のメロヴィング王家は、好色で短命なこれといって才も覇気もない王が続き、やがて王国の実権は家臣であった「宮宰」(きゅうさい)のカロリング家に握られて行く事になります。

ClovisDomain_japref.jpg

445px-ClotaireIer_Jean_de_Tillet-Recueil_des_rois_de_France.jpg

上が分割後のメロヴィング朝フランク王国、下がクロタール1世です。

今回取り上げたクローヴィス1世については、日本ではあまり知られておらず、本家ヨーロッパの歴史家の間でも、「フランス最初の国王」でありながら「疑り深く、狡猾で残忍な王」という評価の様です。それは否定しません。しかし歴史上の君主、権力者など、みんなそうなのではないでしょうか?「聖人君子」などという言葉がありますが、もしその様に争いを好まぬ温厚で人の良い人物であれば、周囲の者たちの餌食になって攻め込まれ、滅び去るだけだったでしょう。そうならぬためには自らが強くなり、獲物に噛み付く狼の様に恐れられる存在となるしかなかったのだと思います。

彼の話はこれで終わりますが、古代から中世へと移行していく激動の時代を生き抜き、その後のヨーロッパの「王国」のあり方の方向を示した先駆者として記憶されるべきと思います。

次回からはフランク王国第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。
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