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生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(前編)

みなさんこんにちは。

当ブログを読んでいただいているみなさんは、「大国と言えばどこの国?」と質問されたとして、真っ先にどこの国を連想するでしょうか? これは全く愚問だったかもしれませんが(笑)おそらくほとんどの方がアメリカかロシア、この二つの超大国をすぐに思い浮かべる事でしょう。

もちろん世界には、この米ロ両国以外にもいくつかの大国が存在します。ロシアに次いで世界で2番目に国土面積の広いカナダ、大陸そのものがまるごと一つの国家であるオーストラリア、そして世界最大の人口を持つ中国などです。

これらの国々は、地図あるいは地球儀で一目でわかる広大な領土を持つオーソドックスな大国なわけですが、世界にはそれらの大国とは正反対のまるで粒の様に小さな国もいくつか存在しています。自分は子供時代から地図帳を開いて眺めながら、この小さな国々がどうして今もあるのか、幾多の戦争や動乱の吹き荒れる人類の歴史の中で、なぜ周辺の大国に併合されずに今も独立国家として存立しているのか不思議でなりませんでした。

そこで今回から、歴史好きな方でも詳しく知る方はそう多くないこれらの小国にスポットを当て、その成り立ちや経緯、歩んできた歴史などをご紹介していきたいと気まぐれに思い立ち(汗)「生き残った小国たち」という新しいテーマを立ち上げました。相変わらずの幼稚でまとまりのない駄文と遅筆で恐縮ですが、ご興味を持たれた方は暇つぶしにふらりと立ち寄ってみてください。(笑)

初回にご紹介する小国は、ヨーロッパ大陸のほぼ中央、スイスとオーストリアに挟まれた「リヒテンシュタイン公国」です。まずはこの国の現在の基本的なデータをお話しておきましょう。

リヒテンシュタイン公国は、先に述べた様にスイスとオーストリアに挟まれた面積わずか160平方キロ(日本でいえば、瀬戸内海の小豆島とほぼ同じくらいだそうです。)人口は3万5千程度で、世界で6番目に小さな国です。公用語はドイツ語で、その国家体制は国名と同じリヒテンシュタイン家を世襲の元首とする立憲君主制であり、現在の君主はハンス・アダム2世が1989年から在位しています。


060.png

rihitensyutain-2.gif

Flag of Liechtenstein

liechtenstein1.jpg

上がリヒテンシュタイン公国の位置と国旗、そして現在の国家元首である第15代リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世殿下(1945~)です。この国はとにかく小さいので、位置は地図に虫眼鏡を当ててみた方が良いかもしれませんね。(笑)

この国の歴史と成り立ちを知る上で欠かす事の出来ないのが、元首であるこのリヒテンシュタイン家の存在です。正に国名にある通り、この国はリヒテンシュタイン家が建国し、後述する様にリヒテンシュタイン家が公国の全てを動かしているといっても過言ではないからです。

それでは早速この国の歴史についてお話を始めていきたいと思いますが、それにはまず公国の主リヒテンシュタイン家の発祥にさかのぼらなければなりません。なぜならリヒテンシュタイン家の歴史は公国の成立よりもはるかに古いからです。

始まりは12世紀にさかのぼります。1130年ごろ、ボヘミアのドイツ貴族であったシュヴァルツェンベルク家が、現在のオーストリアのウィーン郊外に城を築き、これをリヒテンシュタイン城と名付けました。その名はドイツ語で「光の城」を意味し、これが後のリヒテンシュタインの名の由来になります。


src_13704026.jpg

上がそのリヒテンシュタイン城です。現在は公園の一角になっています。写真に写る人の姿と比較すると、それほど巨大なお城ではないようですね。このお城は築城以来幾度となく修復と増改築を繰り返し、現在ももちろんリヒテンシュタイン家の所有ですが、市民にも一般公開されています。

やがて、現在のドイツ南部バイエルンのドナウヴェルト一帯の地方貴族であったヒューゴ・フォン・ペトロネル(生没年不明)という人物が、シュヴァルツェンベルク家の娘と結婚し、城にちなんで自らの家名をリヒテンシュタインとしました。そう、彼こそがリヒテンシュタイン家の創始者です。

こうして、彼を初代とするリヒテンシュタイン家が歴史に登場するわけですが、といっても、この時点における彼とその一族は、一つの城の城主になったというだけで、とても「諸侯」と呼べるような大きな存在ではありませんでした。時は中世真っ盛りの神聖ローマ帝国時代、帝国内は数百家に上る大小の領主、貴族たちがひしめき合い、彼らはその数多くいる貴族の一つに過ぎなかったからです。

そこでリヒテンシュタイン家は「寄らば大樹の陰」とばかりに有力諸侯の臣下となり、その庇護の下で所領の安泰と勢力拡大を図る堅実な道を選びます。まず彼らが目を付けたのが、当時ボヘミアからオーストリア一帯を支配していた辺境伯バーベンベルク家でした。このバーベンベルク家は、フランス王家と祖先を同じくする名門貴族で、帝国内でも比類ない大勢力だったからです。

リヒテンシュタイン家は勃興した1130年後半から1240年代までのおよそ100年余り、このバーベンベルク家に臣下として仕え、実直な働きによって各地に所領を与えられ、富を増やしていきます。しかし、ここで思わぬ誤算が彼らを待ち受けていました。1248年、なんと主君バーベンベルク家が一族の内紛によって滅亡してしまったのです。

この情勢の急変に、リヒテンシュタイン家は頭を悩ませます。なぜなら、彼らがバーベンベルク家に仕えてから100年余りの間に与えられた所領は十数か所あり、それらの防衛のためにそれぞれの所領に城を築いてましたが、これらは地続きのものではなく、ボヘミアからオーストリア一帯の各地に散らばる「飛び地」で、その間には他の貴族諸侯がさながら「狼」のごとくこれを狙っており、権力の空白地帯となったこの地域で、リヒテンシュタイン家の兵力だけでこれらの領地のすべてを守るのは物理的に無理だったからです。


Heiliges_Römisches_Reich_um_1250

上がこの頃(1250年ごろ)のドイツ神聖ローマ帝国の地図です。この帝国は皇帝を世襲ではなく諸侯から選挙で選ぶという非常にユニークかつ複雑な国家で、ご覧の様に帝国内には数えきれないほど大小の貴族諸侯がひしめき合い、ゆえに帝国は絶えず戦乱に明け暮れ、一度も統一される事はありませんでした。

この様な情勢の中でリヒテンシュタイン家が生きていくためには、どこかの有力諸侯の臣下となるしか方法がなく、またそれが最良の道でした。そこへ、彗星のごとく新たな支配者が出現します。1273年、スイス辺境の一貴族であったルドルフ・フォン・ハプスブルクが神聖ローマ皇帝に即位、オーストリアからボヘミアに至る広大な地域を支配下に置いたのです。


Minnigerode-rudolf.jpg

上が神聖ローマ皇帝ルドルフ1世です。(1218~1291)彼はもともとは家柄も力もリヒテンシュタイン家と大差のないスイス辺境の一伯爵に過ぎませんでしたが、力のある人物を皇帝にしたくないという他の諸侯たちの思惑によって皇帝に選出されました。しかし、諸侯たちの予想は大きく外れ、非常に有能かつ人望あふれる彼は、後に「神に選ばれた一族」として世界に君臨するハプスブルク家の礎を築く偉大な人物となります。

リヒテンシュタイン家は、この新たな支配者に早速臣下の礼を取ります。一方のルドルフ1世の方も、彼らと同じ弱小貴族出身である事からその苦労を誰よりも良く知っており、その願いである所領の安堵を約束し、ハプスブルク家の臣下に迎え入れるのです。それ以後、リヒテンシュタイン家はハプスブルク皇帝家の忠実な家臣として今日に至っています。

さて、こうしてハプスブルク家の臣下となったリヒテンシュタイン家は、その下で地道に主君に忠実に仕え、新たな所領と城を増やしていきます。その数は二十数か所に上り、ハプスブルク家の家臣でも指折りの富豪として無くてはならない存在になっていきます。その間にリヒテンシュタイン一族は、主君ハプスブルク家が政略結婚によってヨーロッパ中に勢力を伸ばし、神聖ローマ皇帝位を世襲し、やがて「日の沈まない帝国」を築き上げていく歴史の大きな流れの中で、政治面においては宰相や蔵相、ローマ教会などの宗教面においては枢機卿、軍事面においては将軍などハプスブルク家を支える有能な人物を次々に輩出し、その功績で爵位も侯爵位を得るのです。

リヒテンシュタイン家は政治や軍事だけではなく、商才にも長けていました。特に彼らが重視したのが「金融」で、後にこれは後述する当家の家業になるのですが、その礎はすでにこの時期に出来ていました。こうして13世紀後半から17世紀後半までのおよそ400年の長きにわたり、リヒテンシュタイン家はハプスブルク家の忠実な家臣として物心両面で代々帝国を支え続けたのですが、17世紀の末になると、当家にそれまでなかった新たな考えが浮上していきます。それは、

「自分たちだけの国が欲しい」

というものです。そして彼らはその実現に向けて静かに動き出すのです。それにしても、なぜリヒテンシュタイン家はそのような「夢」を思い描くようになったのでしょうか? すでに当家はハプスブルク家家臣の中でも指折りの名門で、特にその富裕さでは群を抜いていたはずです。すでに両者の主従関係は400年以上続き、普通に考えればこのままハプスブルク家の臣下として生きていくのが妥当なはずです。

実は、これにはある歴史上の大きな変化が原因でした。少し時代をさかのぼって17世紀の前半、ハプスブルク家の支配する神聖ローマ帝国で大規模な戦争が勃発します。これは「ドイツ三十年戦争」と言い、当時のほぼすべてのヨーロッパ諸国を巻き込み、その名の通り1618年から1648年まで30年続いた長期戦争なのですが、この大戦争でリヒテンシュタイン家はもちろんハプスブルク家の側に立って戦い抜きます。

やがて戦争が終わると、戦争に参加した各国の間で国際条約が結ばれます。それがウェストファリア条約(ヴェストファーレン条約)です。それによると、神聖ローマ帝国内の300に上る大小の諸侯はそれぞれが主権を持つ独立国家として承認し、互いにそれを尊重しあうというものでした。

これにより、神聖ローマ帝国は名ばかりのものとなり、同時にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝としての地位も「お飾りの名誉職」となり、つまりハプスブルク家は帝国内の全諸侯を支配する事は出来なくなったのです。ハプスブルク家はドイツから本拠地のオーストリアとボヘミア、ハンガリーなどの東ヨーロッパに退き、それまで戦乱の絶えなかったドイツではようやく平和が訪れました。

思えば、リヒテンシュタイン家がハプスブルク家の臣下となったそもそもの理由は、各地に散らばる彼らの所領の保全のためでした。戦乱の絶えない弱肉強食のヨーロッパ中世においては、そうするのが生き残るための最善の策である事は前段で述べた通りです。しかし、そうした戦乱の時代が終わりを迎え、初歩的とはいえ国際秩序というものが形成されると、もはや強者の影に身を置くのは必ずしも必要ではなくなったのです。

そこで彼らは自立へと大きく舵を切る道を選択します。しかし、それには一つの制約がありました。それは

「我らが国を興すには、ハプスブルク家の支配する地域の外でなければならない」

という事です。400年以上の長い間仕えたハプスブルク家に対し、リヒテンシュタイン家は何にも代えられない大きな恩がありました。リヒテンシュタイン家がこうして存続出来たのも、ひとえにハプスブルク家の庇護の下にあったおかげです。リヒテンシュタイン家はハプスブルク家の領土内に数多くの所領を与えられていましたが、その中に独立国家を作るわけにはいかなかったのです。

そんな制約を踏まえつつ、自立のために最初に動き出したのは第3代リヒテンシュタイン候ハンス・アダム1世です。彼はハプスブルク家の領土外で、リヒテンシュタイン家が国を興すにふさわしい適地を探します。そして目を付けたのが現在のリヒテンシュタイン公国のあるシュレンベルクとファドゥーツの地でした。ちょうどその頃、この隣り合う二つの地は、それまで統治していたホーエンエムス伯爵家が散財による負債にあえいで売りに出していたからです。


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上が第3代リヒテンシュタイン候ハンス・アダム1世です。(1662~1712)彼は財政管理に優れたいわば財政通で、その手腕はハプスブルク皇帝家からも高く評価されていました。さらに彼は美術の熱心な愛好家で、彼は儲けた金を惜しみなく美術品の収集に注ぎ込み、膨大な美術コレクションを残す事になります。(現在のリヒテンシュタイン侯爵家が所蔵する美術品のコレクションは、ほとんど彼が買い集めたものだそうです。)

ハンス・アダム1世は後継男子を残さず亡くなったので、爵位と領地は一代置いて一族のアントン・フロリアンが継承します。そして彼の代になって、リヒテンシュタイン家は念願の自立を果たす事に成功するのです。


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上が第5代リヒテンシュタイン候アントン・フロリアンです。(1656~1721)彼は時のオーストリア皇帝カール6世の家庭教師を務め、皇帝に対して心理的な影響力を持っていました。(今風に言えば、かつての担任の先生ですからね。笑)彼は皇帝とのそうした特殊な関係を利用し、1719年に皇帝から先々代のハンス・アダム1世が用意していたファドゥーツとシュレンベルクの地に、一つの国を建国して良いとの許可を得る事に成功するのです。彼の在位はわずか3年の短期間でしたが、彼こそ事実上のリヒテンシュタイン公国初代君主となります。

こうして1719年1月、念願のリヒテンシュタイン公国が誕生したのです。しかし、それはリヒテンシュタイン家と生まれたばかりの公国にとって新たな試練の幕開けでもありました。その後の大きな歴史のうねりの中で、この小国はさながら大海原を進むハプスブルクという巨大な船から降ろされた小さなボートのごとく、歴史という大海の荒波に揉まれながら波乱の航海を続けていく事になります。

次回に続きます。
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