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生き残った小国たち ・ リヒテンシュタイン公国(後編)

みなさんこんにちは。

心優しい名君ヨハン2世の優れた統治と巧みな外交手腕によって、普墺戦争の小嵐と、第一次世界大戦という大嵐を乗り切ったリヒテンシュタイン公国でしたが、その大戦が終わると、公国にこれまで経験した事のない事態が発生しました。

その事態とは、第一次大戦に敗れた結果、中世以来リヒテンシュタイン家が主君として仕えてきたハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、新たに成立したオーストリア共和国政府がハプスブルク家を国外追放してしまったという事実です。

しかし、この事態はリヒテンシュタイン公国にとって新たな門出ともなるものでした。なぜなら、これまで公国(というよりもリヒテンシュタイン家)にとって政治、経済、軍事、外交、文化その他すべての分野においてオーストリアは完全な宗主国でしたが、帝政を廃して共和制となったオーストリアと君主制のリヒテンシュタインは、もはや互いに相容れない立場となり、公国はもうオーストリアに対して無条件で服属する必要が無くなったからです。

そこで、今後の公国の進むべき道について、元首ヨハン2世は考えます。

「思えばわがリヒテンシュタイン家は、600年以上もの長きに亘ってハプスブルク家に忠実に仕えてきた。つまり当家はハプスブルク家に仕えてきたのであって、オーストリアという国家にではない。しかし帝政が崩壊してそのハプスブルク家がおいたわしくも野に下られた今、もはやオーストリアに気を使う必要はあるまい」

こうして彼は、オーストリア一辺倒であったそれまでの公国の在り方を抜本的に改め、オーストリアとの決別を決意するのです。


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上は子供たちと一緒に気さくにベンチに座るヨハン2世です。(1840~1929)前回もお話ししましたが、彼は第12代リヒテンシュタイン公として18歳で即位し、巧みな政治手腕と先祖から受け継いだ莫大な財力で列国の干渉を排し、この小さな国を守り抜きました。また、70年という長い在位中に自国の領民を常に気にかけ、その心優しさから領民に「善良公」として大変慕われました。

ヨハン2世は、第一次大戦中の英仏による経済封鎖の時に食糧援助してくれた西のスイスと接近し、今後はスイスと歩調を合わせていく方向に国の舵を切ります。現実問題として、まずは何よりも「経済の安定」が最優先です。そのために早くも大戦終結の翌年の1919年に、スイスと「関税同盟」を締結します。

この関税同盟というものは、簡単に言えば同盟した国同士で輸出入にかかる関税を撤廃し、自由に物を売り買いして経済の活性化を促すものです。しかし、これを結ぶには大きなリスクがありました。実はリヒテンシュタインはすでに1852年にオーストリアと関税同盟を結んでいたからです。これをあからさまにリヒテンシュタイン側から破棄しては、いかに規模は小さくなったとはいえオーストリア側の反発を買ってしまう恐れがありました。

オーストリア国内には、リヒテンシュタイン家がハプスブルク家から与えられた多くの所領がありました。もし、オーストリア側を怒らせれば、その対抗措置としてこれらの「不動産」を差し押さえられ、没収されてしまう危険があったからです。

これも、老練なヨハン2世はうまく切り抜けました。彼はオーストリア政府にこう言ったのです。

「これまでわが国は、ハプスブルク家ならびにオーストリア・ハンガリー帝国と関税同盟を結んでおりましたが、貴国政府がハプスブルク家を追放して帝政を廃止された以上、この同盟は貴国の側から破棄されたものとなりました。まことに残念な事ではございますが、両国間に締結されていた関税同盟はこれをもって効力を失い、終了させていただきます」

こうして「建前」として、相手のオーストリアの面目を潰さないように慎重に理由付けをしつつ、やんわりと(笑)オーストリア側の都合で同盟が解消されたものとしたのです。その裏で彼はしたたかにオーストリアの議員らに多額の金をばらまき、先に述べた動きが出るのを封じ込めてもいました。

ヨハン2世のこうした努力と工作により、オーストリアからの報復措置もなく、リヒテンシュタイン公国はスイスとの関税同盟を結ぶ事が出来たのです。以後、公国はスイスと運命共同体となり、今日に至っていますが、その方向に国を導いたのも元首ヨハン2世でした。

このヨハン2世によるオーストリアからスイスへの外交方針の転換は、その後にリヒテンシュタイン公国がたどった歴史においてもその判断の賢明さと正しさが証明されています。ヨハン2世の死後、ヨーロッパを殺戮と破壊によるこの世の地獄に変えた恐怖の独裁者、アドルフ・ヒトラーが引き起こした第二次世界大戦においても、リヒテンシュタインはスイスとともに中立を貫き通し、結局ドイツ軍はこの小さな国に攻めては来なかったのです。


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上は言わずと知れたナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーです。(1889~1945)この人物に関しては、歴史好きならもはや説明は不要でしょう。ではなぜ、ヒトラーはリヒテンシュタイン公国に侵攻しなかったのでしょうか? その理由は実に単純です。つまり、簡単に言えば

「国があまりにも小さすぎた」

という事です。ヒトラーの目標は自らのドイツ第三帝国によるヨーロッパ全土の征服と、その先の更なる領土拡大であり、リヒテンシュタインの様な小さな国など彼の眼中になく、そもそもその存在すら意識していなかったのです。それに、リヒテンシュタインは先に述べた様にスイスと関税同盟を結んでいたため、これに攻め入れば中立国とはいえ国民皆兵のスイスと戦争になります。

実は意外なのですが、ヒトラーはスイスなど一部の中立国には侵攻しませんでした。もちろん最強のドイツ軍をもってすれば、これらの占領は可能でしょう。しかし、問題はその後です。なぜならその占領維持に無駄な兵力を削がれ、今だ戦っていたイギリスやソ連との戦争に回す貴重な兵力が減る事になってしまいます。彼はそうしたコスト面の無駄を意識したのでしょう。ともあれ、公国はその国土の小ささが逆に幸いして第二次大戦の惨禍を免れたと言えるかも知れません。

さて、人類史上最悪の戦争であった第二次世界大戦が、そのヒトラーの破滅によって終わると、戦争に明け暮れたヨーロッパにようやく平和が訪れました。それは同時に、これまで周囲の大国の身勝手な思惑に翻弄され続けてきたリヒテンシュタイン公国が、これらの荒波を乗り越えて生き残った瞬間でもありました。

すでに時は20世紀、気が付けばヨーロッパの国々は一部を除いてそのほとんどが共和制となっていました。そんな中にあって、リヒテンシュタインは小さくとも数少ない君主国として生き延びたのです。これはまさに元首であるリヒテンシュタイン家の勝利でした。

この時のリヒテンシュタイン公国の元首はフランツ・ヨーゼフ2世(1906~1989)という人で、彼は先のヒトラーとナチスの危険性に早々に気付き、1933年にヒトラーがドイツ首相になった時点で君主権を行使し、総選挙を無期限で停止して公国がナチズムに染まるのを未然に防いだ賢明な君主でした。

彼はこの先の公国の進むべき道を模索します。

「我々はこれからもスイスとともに歩んで行く。その方針に変わりはないが、問題はこれからわが国民をどう養って行くかだ。」

第二次大戦終結直後の1940年代後半のリヒテンシュタインの人口はおよそ一万余りでした。いかに莫大な資産を持つリヒテンシュタイン家といえども、これらの人々を全て当家が「召し抱える」というわけには行きません。かといって、公国の領域内だけでこれらの人々を養うには、その領土はあまりにも小さすぎます。そもそも人口の全てを養えるだけの農地も、牧畜以外のこれといった産業もないのです。それに、第二次大戦とその後の東西冷戦は、富裕なリヒテンシュタイン家の資産にも大きな影響を与えていました。

当家がかつてのハプスブルク家の家臣として、旧オーストリア・ハンガリー帝国の各地に多くの所領を有していたのは何度も述べた事ですが、そのうち帝国崩壊後に成立したチェコスロバキア(旧ボヘミアとモラビア)に持っていた不動産その他の資産が、ソ連の占領によるチェコスロバキアの共産化により全て没収されてしまったからです。

それは当時のリヒテンシュタイン家の全資産の三割以上に達し、つまり当家はかなりの「大損」をしてしまったのです。(資産の多くが不動産であった事が、逆に裏目に出てしまったようですね。苦笑)そこで、フランツ・ヨーゼフ2世は失った資産の損失の穴埋めと、他国に持つ不動産以外の新たな収入源の確保、そして何より公国領民の生活の安定のために、大胆な計画を実行に移します。

その大胆な計画とは、法人税を他国よりも大きく下げて外国企業を誘致し、領民を雇用してもらうというものです。彼は隣国スイスをモデルにし、スイスが同様の方法で外国から多くの銀行を呼び寄せ、一大国際金融拠点に成長した例に学び(これも、ヒトラーがスイス侵攻を断念した理由の一つです。スイスの銀行には多くのドイツ企業や資産家も多額の資金を預けてあり、もしこれに攻め入ればスイス政府は報復としてこれらを全てアメリカやイギリスの支店に移してしまい、それどころか、ドイツ打倒のために米英両国に提供してしまうでしょう。両国にしたら敵であるドイツの大金を戦費として自由に使えるのですから「ボロ儲け」です。その逆に自分の金で米英両国に反撃される事になるドイツにすればたまったものではありません。ヒトラーはその愚を避けたのです。つまりスイスはドイツの預金を「人質」にとってヒトラーを退けたと言えるでしょう。)公国にもこれを適用しようと考えたのです。

フランツ・ヨーゼフ2世のこの計画は大当たりしました。第二次大戦後の混乱と戦費調達のために、アメリカ、イギリス、フランスその他各国は多額の法人税を企業に課しており、その負担を嫌った多くの企業がリヒテンシュタインに子会社を設立、その登録手数料と法人税収で、リヒテンシュタイン家すなわち公国政府は大きく潤ったからです。


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上の写真の最も年配の人物が第14代リヒテンシュタイン公フランツ・ヨーゼフ2世です。彼の名は旧オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が名付け親となって同名を与えられたものです。(写真小さくてすいません。汗 写真には青年時代の現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世と、その後継者アロイス公子の幼少時の姿があり、侯爵家親子3代が写っていて丁度よいと思いお載せました。)

しかし、フランツ・ヨーゼフ2世が取り入れたこの政策は、本来の彼の考えとはかけ離れた姿に公国を変貌させてしまいました。なぜなら外国企業の多くが自国の課す法人税を逃れる「節税」の抜け道として、書類上だけ存在するが、登記上の住所には実体がない「ペーパーカンパニー」を設立し、その口座に利益をストックするために公国を利用する様になっていったからです。これを「タックス・ヘイブン」(租税回避)と言います。

タックス・ヘイブンそれ自体は、国際法的には何ら違法な事ではないのですが、問題はこれを悪用して世界各国の富裕層で「脱税」が横行する負の連鎖を招き、それがゆえに世界各国はタックス・ヘイブンを国の生業とするリヒテンシュタインをはじめとした小国を

「脱税の手助けをしている」

として非難し、近年国際問題となっています。ともあれ、第二次大戦後のリヒテンシュタイン公国は、中東の産油国以外では一人当たりの国民所得が世界でもトップクラスの富裕さを誇る豊かな国として今日に至っているのです。

そして21世紀の現在、中世以来続く名門リヒテンシュタイン侯爵家にも新たな若い世代が成長し、公国をどう未来に導いていくか、その動静にも静かな注目が集まっています。


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上は現リヒテンシュタイン公ハンス・アダム2世(1945~)と、その長男で次期元首のアロイス公子殿下(1968~)です。実はハンス・アダム2世は還暦に達した2004年に統治権をアロイス公子に譲り、以後、アロイス公が摂政として公国を統治しています。父から子へ、国の未来を託した君主のあるべき姿の見本ですね。

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上は2012年(平成24年)にアロイス殿下がわが国に来日した際に、わが日本の徳仁皇太子殿下をご訪問された際の写真です。皇太子殿下は英国ご留学中にリヒテンシュタイン家のご招待で二度ほど公国を訪問されており、またハンス・アダム2世は昭和天皇の大喪の礼にご参列、アロイス公も今上天皇陛下ご即位の式典に参列されるなど、わが天皇家とリヒテンシュタイン侯爵家は親密な交流を続けておられます。

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上の画像3枚はリヒテンシュタイン家の現在の居城ファドゥーツ城です。侯爵一家はここに住んで政務を取り仕切り、外国の賓客をもてなす迎賓館にもなっています。(よく見ると、3枚目の写真にはサッカーゴールが写っていますね。)

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上の一連の画像はリヒテンシュタインの首都ファドゥーツの街並みの様子です。(人口およそ5500人ほど)よく見ると、建物は伝統的な古いものよりも近代的なものが多いですね。タックス・ヘイブンによってこの国に誘致された外国企業のテナントとして建てられたもので、もちろんこれらもほとんどがリヒテンシュタイン家の所有であり、そのテナント料も当家の財源の一つです。

これまでお話しして来た様に、リヒテンシュタイン公国はタックス・ヘイブンによる法人税収その他の関連利益だけで国の財政の半数以上に達し、一般国民には所得税、相続税、贈与税といった直接税が全くない羨ましい国です。それゆえに国民の一人当たりのGDPは毎年世界でも一、二を争う豊かな国となっています。(といっても、それは人口が少ないために数字の上で突出している面が大きいです。このテーマの第一回で、この国の人口はおよそ3万5千余とご紹介しましたが、実際のリヒテンシュタイン国民はその3分の1の1万2千程度で、他はみな外国人です。)

リヒテンシュタイン公国は外交と国防を合わせて隣国スイスに委託しており、通貨もスイス・フランを使っています。(もちろんユーロも使えます。)前回お話したように、この国は1868年に軍隊を解散して以来非武装中立国となっており、治安を維持する警察が100名ほどいるだけです。政治は一応25名ほどの議員から成る議会があり、首相やいくつかの閣僚もいますが、何せ人口が少ないので、実際の国政は摂政アロイス公が取り仕切り、これらの議員は各地の代表として摂政アロイス公に意見や報告をするだけの存在です。(企業に例えれば、1万2千の従業員を擁する世襲企業の若い社長とその役員会のようなものでしょうか? 笑)

また、リヒテンシュタイン侯爵家はヨーロッパの君主の中で最も資産が多く、その財力は日本円にしておよそ5500億円以上に達すると言われています。それらは、リヒテンシュタイン家がオーストリアその他の周辺各国に持つ所領などの不動産(その総面積は公国の領土をはるかに超える規模だそうです。)以外に、歴代の侯爵が買い集めた美術品のコレクションや、当家が経営するプライベートバンクのリヒテンシュタイン銀行が保有する莫大な金融資産から成っています。

そのため、侯爵家は公国から全く歳費というものを受け取っておらず、それどころか公国そのものが侯爵家の財力に依存している稀有な国です。(わが天皇家も、戦前は世界屈指の財を誇る王家でしたが、敗戦により皇室財産は国のものとなり、皇室ご一家は毎年国から歳費を支給されています。これは自分の勝手な意見ですが、諸外国の王家と比較してあまりに質素すぎる皇室ご一家に、かつての皇室財産の一部をご返還申し上げるべきではないかと強く考える次第であります。)


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上はウイーンにあるリヒテンシュタイン美術館に展示されている侯爵家の美術品コレクションの様子です。当家が所有するコレクションは全部で3万点にも及び、公開されているのはそのうちのわずか数百点のみだそうです。(侯爵の黄金の冠を子供たちが目を丸くして眺めています。面白い対比ですね。笑)
 
みなさんも、ヨーロッパ旅行などを計画されているなら、一度この小さな国を訪ねて見てはいかがでしょうか? アルプスの山々と美しい緑に牛や羊たちが草を食むのどかで平和なこの国は、きっとみなさんに心の癒しを与えてくれるでしょう。そして運が良ければ本物の侯爵とお会いしてビールなどを片手に記念撮影なども出来るかも知れませんよ。(笑)

次回に続きます。
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