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モナコ公国 ・ ある貧乏貴族の夢と野望が生んだ街

みなさんこんにちは。

大変遅ればせながら平成30年明けましておめでとうございます。相変わらずの遅筆と救いようのない駄文で誠に恐縮ではありますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。(汗)

さて、新たに設けた「生き残った小国たち」というテーマですが、今回ご紹介するのは南フランスの地中海に面する海辺に興隆した魅惑の国、モナコ公国についてお話ししたいと思います。

ところでみなさんは、この「モナコ」という名を聞いてどんな印象をお持ちでしょうか? おそらく多くの人が、カジノやモナコ・グランプリなどのカーレースを思い浮かべるのではないかと思います。しかし、今挙げた二つの有名な点を除けば、それ以外の事についてはほとんど知られておらず、そもそもモナコが立派な独立国である事すら知らない方も多いのが実情です。

そこで、この国の成り立ちや歴史をお話しする前に、モナコの現在の基本データをご紹介しておきましょう。

モナコは冒頭で述べた様に、正式国名を「モナコ公国」といいます。その名の由来は古代ギリシャ時代にこの付近に入植したギリシャ人たちが、英雄ヘラクレスを祭る神殿を建て(言い伝えによるもので、現存していません。)海沿いにポツンと建つその姿がさながら一軒家の様に見えた事から、ギリシャ語で一軒家を意味する「モノイコス」と名付け、それが転じて「モナコ」となったものです。面積はわずか2平方キロで、あのバチカン市国に次いで世界で二番目に小さな国にして、同時に世界で最も小さな国連加盟国でもあります。公用語はフランス語で、人口はおよそ3万6千人余り(2011年調査)その国家体制はモナコ大公家を世襲の君主とする立憲君主制であり、現在の君主はアルベール2世が2005年から在位しています。


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Monaco-Map.gif

国旗


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上がモナコ公国の位置と国旗、そして街並みの全景です。特に2枚目の街の大きさを表す図に注目してください。端から端までわずか2キロ程度しかありませんね。この国がいかに小さいかご想像いただけるでしょう。そして3枚目の国旗についてですが、この国の国旗は上の様に赤地に白地の実に簡素なものです。(国旗の簡素な点では、わが日本の日章旗も引けは取りませんが 笑)

しかし、同様の図柄の国旗をインドネシアも採用しています。本来なら同じデザインの旗など心理的に避けられるはずですが、国旗というものは当然の事ながらその国の成り立ちを表すものです。例えばわが日本の日章旗なら「日の登る輝く太陽の国」を表すものですが、同様にインドネシアは赤道直下の国であるため、一目でデザインの意味が分かりますね。ではモナコの場合はというと、この国の元首であるモナコ大公グリマルディ家の軍旗に由来するものです。ただし、現実には全く同じデザインというのも国際的に何かと面倒な事態になるので、縦横の比率を別にする事で(つまり、旗の大きさが異なります。)混同を避けています。


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上が現在の国家元首である第14代モナコ大公アルベール2世殿下です。(1958~)

この国は、いくつかの点を除いて前回お話ししたリヒテンシュタイン公国とはあらゆる面で大きな違いがあります。リヒテンシュタインは内陸にあって、規模は非常に小さいながらも美しいアルプスの山々を望む緑あふれる領土がありました。しかし今回ご紹介するモナコは、領土と呼べるほどの広い土地はほとんどなく、純粋に街だけで構成された正に厳密な意味での「都市国家」であり、この様に街そのものだけで一つの独立国として存在する都市国家は、現在世界ではこのモナコと東南アジアのシンガポールだけとなっています。

しかし、モナコにはリヒテンシュタインにはないものがあります。それは「海」です。美しい地中海に面した温暖な気候と、その海からもたらされる豊かな恵みは、中世にこの国が建国するはるか以前の古代から、モナコの人々に暮らしの糧を与え続けてくれました。

それでは、この魅惑の都市国家モナコ公国の誕生と、その歩んできた歴史についてお話を始めたいと思います。

全ての始まりは今から800年以上前の12世紀にさかのぼります。当時ヨーロッパ中央部には神聖ローマ帝国があり、代々の皇帝はローマ教皇と地上における支配権をめぐって激しく争っていました。その最中、北イタリア南岸に両者の争いを巧みに利用しながら急速に成長しつつあった一つの都市国家がありました。その名を「ジェノヴァ共和国」といいます。


ジェノバj

上がそのジェノヴァの位置です。

このジェノヴァ共和国は、その名の通りジェノヴァの街で海洋貿易と通商によって富を蓄えた裕福な商人や市民たちによって1005年に成立した共和制都市国家ですが、その中で特に力を持つ者たちが「都市貴族」となって市政を動かしていました。

そのジェノヴァの都市貴族たちは、先に述べた神聖ローマ皇帝とローマ教皇の権力争いの中で当然のごとく両派に分かれ、皇帝派は「ギベリン」教皇派は「グエルフ」として激しく争い、時には皇帝派が市政を握り、また教皇派がそれを奪い返すという事を繰り返していたのです。ジェノヴァがモナコの地を得たのは1191年ですが、これも当時皇帝派がジェノヴァの実権を握っていたからで、時の神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世から「褒美」として与えられたものです。

しかし、ジェノヴァが実際にモナコを築くのは、それから37年も経った1228年からで、それも最初はジェノヴァの西部から海沿いに侵入する敵を防ぐための「城塞」としてでした。つまり、モナコという所はいつしか人が集まって出来たのではなく、軍事拠点としてスタートしたのです。それでも、城塞というからにはジェノヴァ軍の守備隊が駐留し、その駐留軍を相手に物を売る商人や、ジェノヴァ兵目当ての売春婦などが住み着くようになり、次第に城塞周辺に街が形作られていきました。

モナコの都市としての起源はそんな状態からの出発だったわけですが、およそ70年ほど経った1297年、初めて大きな転機が訪れます。ジェノヴァ本国では相変わらず皇帝派と教皇派の権力闘争が続いていましたが、それはジェノヴァ支配下の地方にも飛び火し、モナコにおいても当時城を占領していたのは皇帝派の守備隊でした。

そのモナコを自らのものにすべく、熱い視線をもって密かに狙っていたある人物がいました。その名をフランソワ・グリマルディと言います。


Raniero_I_de_Mónaco

上がそのフランソワ・グリマルディです。(?~1309?)全身鎖帷子(くさびかたびら)の甲冑姿で剣を手にした勇ましい肖像です。彼はジェノヴァの都市貴族グリマルディ家の一族でしたが、当主ではなくいわば傍流でした。そのためグリマルディ本家とは別に、自ら身を立てるしか生きる道が無かったのです。(金と土地を持っているのは本家の一族だけですからね。つまり、彼の貴族としての地位は名前だけで、実際は絵に描いたような「貧乏貴族」だったのです。傍流の分家の一族というのは、歴史上どこの国でもそんなものです。苦笑)

フランソワのグリマルディ家は教皇派の一族でした。フランソワ自身武勇に優れ、金をもらって生計を立てる「傭兵」として生きてきたのですが、ジェノヴァ本国ではすでに両派の同業の強豪たちがひしめき、とても彼が活躍出来る場はありませんでした。それに傭兵業では収入も不安定で、いつまでも年齢的に続けていけるものではありません。彼は自らの将来に焦りを募らせていました。

そこで彼は、ジェノヴァ本国ではなく地方に目を向けます。まだ誰も目を付けていない場所を探し、その地を力づくで奪い取って自らの所領にするためです。彼の望みは永続的な収入の確保と、自ら新たなグリマルディ家の当主として自立する事でした。そして目を付けたのが、皇帝派の支配するモナコだったのです。

モナコ攻略の大義名分には苦労しませんでした。相手は教皇派の彼にとって攻撃すべき皇帝派だからです。彼は傭兵仲間を集めて一部隊を編成すると、早速作戦を開始します。しかし、不落とはいかずとも、難攻が予想されるモナコの城をどう攻め落とすつもりなのでしょうか? 実は彼には秘密の作戦がありました。

その作戦とは、修道士に変装して物売りの商人らに紛れ、城内に潜入して買収した城兵に城門を開けさせ、一気に城を占領してしまおうという大胆なものです。作戦はまんまと成功しました。全く油断していた守備隊はフランソワ隊の急襲になすすべなく、あっけなくモナコの城は彼らに占領されてしまったのです。

こうして彼は、一城の主として夢を叶えたのですが、その彼の夢も長くは続きませんでした。なぜなら、この彼の大胆不敵な奇襲作戦の成功に、ジェノヴァ本国では彼を「狡猾な男」と呼んで警戒するようになってしまったからです。これに最も頭を悩ませたのはフランソワの実家であるグリマルディ家でした。勝手に行動したフランソワに対し、当時は教皇派であった共和国政府からも睨まれてしまったからです。そこでグリマルディ家では、フランソワを挿げ替えて一族の別の人物をモナコ領主にする密約を共和国政府と取り交わすのです。

そして4年後の1301年、ジェノヴァでは再び皇帝派が政権を奪取、その政府は彼を「共和国の裏切り者」として犯罪者とし、モナコ奪還の軍勢を差し向けます。

わずか100人に満たない手勢しかないフランソワは、ジェノヴァ本国の1千を超える大部隊の攻撃に城を持ちこたえられず、逃亡を余儀なくされます。しかし、すでに実家からも見放され、もはや故郷のジェノヴァに戻る事も叶わず、もう彼に行く場所はありませんでした。結局彼は南フランスで失意の内に亡くなります。一人の男の夢と野望が潰えた瞬間でした。

一方、初めての主を失ったモナコはどうなったのでしょうか? 実はその後、フランソワの実家グリマルディ家がモナコの領有権を主張し、以後グリマルディ家が世襲の領地として支配する事になるのです。

「わがグリマルディ家の一族の者が手に入れたのだから、当然この地はわが一門の領地である。」

というわけです。グリマルディ家では子に恵まれなかったフランソワの後継として、彼の従弟に当たるレーニエ・グリマルディを「レーニエ1世」として擁立していました。そしてこの彼に始まる一族が、今日のモナコ大公家の正式な直系の先祖に当たります。

しかし、ジェノヴァの政権はまたも皇帝派が実権を握っていました。教皇派のグリマルディ家は再び政権が戻るのを待つしかありません。ところが、今回は皇帝派の長期政権が続き、グリマルディ家はなんと30年もの間、モナコに手を伸ばす事は出来ませんでした。

ジェノヴァの政権が再び教皇派に戻り、グリマルディ家がモナコに戻るのは1331年になってからですが、すでにモナコ領主として当家が擁立していたレーニエ1世はこの世になく、世代は彼の子供たちの時代になっていました。このままでは争いの元になるのは必至です。そこでグリマルディ家では、モナコの相続争いを防ぐために意外な手を打ちます。

それはレーニエ1世の血を引く者たちで共同統治し、利益も当分に分け合うというものです。このシステムはとても賢明でした。利害の調整がうまく機能し、一族間での争いを未然に防いだからです。これ以後、わずかな空位期間はあるものの、グリマルディ家はモナコの世襲の領主として周囲に認知されていきます。

この間にも、ジェノヴァ共和国を囲む国際情勢は目まぐるしく変化していました。当時ジェノヴァのはるか西、イベリア半島東部にはアラゴン王国が台頭し、地中海全域に勢力を広げていました。その手はモナコにも及び、15世紀初めには一時アラゴン王国に占領されてしまっていたのです。


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上が当時のアラゴン王国の支配領域の図です。
このままではモナコはアラゴン領となってしまいます。名門とはいえジェノヴァの一都市貴族にすぎないグリマルディ家では、強大なアラゴン王国に太刀打ちなど出来ようはずもありません。しかし、グリマルディ家にはある強力な「武器」がありました。その武器とは「お金」の事です。

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上は当時地中海世界で最も流通していたフィレンツェのフィオリーノ金貨です。ジェノヴァ共和国でも金貨は発行していましたが、このフィオリーノ金貨の方が品質が良かったので(つまり、金の純度が高いという事です。)国際通貨として多くの国で支払いに使われていました。

実は、グリマルディ家は海洋貿易で財を成したジェノヴァでもトップクラスの富裕な一族でした。彼らはそれを元手に金融業でも大きな利益を得ていたのです。それに引きかえアラゴン王国は、上の図の様に見た目は広大な領域を支配してはいましたが、その維持費と、イスラム教徒からイベリア半島を奪還する祖国回復運動(レコンキスタ)のために慢性的に莫大な出費にあえいでいました。

そこでグリマルディ家は、モナコの買取をアラゴン王に持ち掛けます。喉から手が出るほどお金が欲しいアラゴン王も、これといって得る物のない辺境のモナコの地に固執せず、喜んでこれを売り渡します。こうして1419年、両者の間で契約は成立し、モナコは正式にグリマルディ家の所領となるのです。グリマルディ家が、望んでもいないのにひょんな事から関わる事になったモナコとの関係は、ここに切っても切れない間柄として完全に歴史の表舞台に登場する事になりました。そして、その最初の一石を投じたのは、一族のはみ出し者だったある一人の貧乏貴族であり、モナコの歴史は、そんな男の儚く消えた夢から始まったのです。

次回に続きます。

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