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モナコ公国 ・ カジノに国を賭けた大公殿下

みなさんこんにちは。

フランス革命とナポレオン戦争を経て、20年以上もの苦闘の末にようやくモナコの地をナポレオンから取り返したグリマルディ家でしたが、その後の彼らとモナコはどうなったのでしょうか? 今回はその辺りのお話です。

1814年、ヨーロッパの主要国の君主や代表たちは、ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの国際秩序の再構築と領土配分のため、オーストリア帝国の首都ウィーンで国際会議を開催しました。「ウィーン会議」です。

この会議そのものは、各国の利害調整がなかなかうまくいかず、なんと9か月もかかってやっと調印にこぎつけたのですが、このウィーン会議の定めでは、モナコとその沿岸部の領土はフランスから分離され、サルデーニャ王国の保護下に入る事が決められていました。

この理由は、もともとモナコの領主グリマルディ家はジェノヴァ共和国の貴族であり、そのジェノヴァ共和国は同会議でサルデーニャ王国に併合されて消滅する事も決定していたため、各国にしてみればごく妥当な決定でしたが、本来の領主であるグリマルディ家にとってはもちろん満足のいくものではありませんでした。なぜならグリマルディ家が求めるのはモナコの完全な独立であり、その独立したモナコ公国の君主として当家が頂点に立つのが本来あるべき姿であったからです。

しかし、このウィーン会議の主催者であるハプスブルク家率いるオーストリア帝国は、国防上宿敵フランスとの軍事緩衝地帯として北イタリアのサルデーニャ王国を重視していました。これは、両国間で再び戦争になっても、フランス軍がそう簡単にはオーストリアに攻め込んでこれないようサルデーニャを「盾」とし、その間に戦備を整える時間を稼ぐためです。

そのためにサルデーニャ王国には、オーストリアが脅威と感じるほどにはならない程度にもう少し領土的に大きくなってもらう必要があったのです。こうしたオーストリアの策略により、モナコは1860年までおよそ45年間サルデーニャの保護領となります。グリマルディ家は名目上モナコ大公の地位は認められたものの、ただ黙って情勢の変化が来るのを待つより他にありませんでした。


Italia 1796

上が少し前になりますが、18世紀末のイタリアの勢力分布です。この頃、今日の「イタリア」と呼ぶ国家は存在せず、上の様に小国が乱立していました。サルデーニャ王国の位置はスイスの下の青色の部分で、そのサルデーニャが併合したジェノヴァはさらにその下の赤紫色の地中海沿岸部です。

そうしてグリマルディ家が「名ばかり大公」(失敬 笑)として、さらに三代を重ねるうちに、やがてその時が巡ってきます。ウィーン体制化の1840年代以降、これまで小国が乱立していたイタリア半島において、統一国家を作る運動が沸き起こったのです。その中心となったのが、サヴォイア王家率いるサルデーニャ王国でした。

サルデーニャ王国はオーストリアの干渉を排して次々に周辺地域を併合し、勢力を拡大していきます。もはや、イタリアが統一されるのは時間の問題でした。しかし、そのドサクサに紛れ、まるでそうした大きな時代の流れに立ち向かうかの様に自らの国家を取り戻そうとしていたある一族がいました。そう、われらがグリマルディ家一門です。

この混乱の時代にグリマルディ家の当主にして、モナコ大公であったのがシャルル3世という人物です。


Prince-Charles-III.jpg

上が第10代モナコ大公シャルル3世です。(1818~1889)彼こそは、それまで大国の保護下にあって、国でありながら国でない曖昧な存在であったモナコを完全な独立国家とする事に成功した「中興の祖」ともいうべき優れた君主です。彼の治世に公国はほぼ現在の在り方に形作られました。

シャルル3世は、1815年のウィーン会議以来、長くその保護下にあったサルデーニャ王国からモナコを完全に独立させるため、虎視眈々と機会を狙っていました。やがて即位から5年後、その絶好のチャンスが訪れます。グリマルディ家が身を寄せていたサヴォイア王家率いるサルデーニャ王国が、1861年にイタリア半島のほとんどを統一し、古代ローマ帝国滅亡以来小国に分裂していたイタリア半島に、歴史上初めての「イタリア王国」が成立したからです。

この出来事の一体どこが「絶好のチャンスなんだ?」と思われるかもしれませんが、実はこの時、旧サルデーニャ王にして初代イタリア王となるヴィットリオ・エマヌエレ2世は、イタリア統一を進める上で背後の不安を取り除くためにフランスと同盟し、その支援をしてもらう見返りとして、保護下にあったモナコを含むかつてのサルデーニャの領土の一部をフランスに割譲する条約まで結んでいたからです。

つまり、サヴォイア家のエマヌエレ2世は寝ても覚めてもイタリア統一と「新イタリア王国」の建設に夢中であり、そんな時にモナコの様な一港町など眼中にないのです。今こそグリマルディ家がサヴォイア王家の支配から抜け出し、完全に自立したモナコ公国を立ち上げるチャンスでした。

当時フランスはナポレオン1世の甥であるナポレオン3世による第二帝政下にありました。シャルル3世はこのナポレオン3世と交渉し、モナコの領土の9割以上に当たる地域を400万フラン(現在の日本円でおよそ40~50億円程度になるそうです。)でフランスに売却し、その代償としてモナコの主権をグリマルディ家に取り戻す事に成功します。


Frontiere_Monaco.gif

上が、この時にフランスに割譲した地域です。しかし、もともとこの地域は勝手にモナコから独立を宣言していた地域でした。これはシャルル3世がモナコ独立に備えた財源確保のためにかなりの重税を課したのが原因で、彼の大きな失敗でした。そこで彼は、貧しい人々から搾り取るよりもフランスに売り渡してしまった方が「確実に金になる」と考えを改め、言わばこれらを切り捨てたのです。

こうして1861年、純粋にモナコの街だけで構成された今日のモナコ公国がこの時に成立しました。1793年にフランス革命軍に国を追われて以来、グリマルディ家が求めていた願いが68年の時を経てようやく実現したのです。この時のシャルル3世の喜びはいかばかりであったでしょうか。しかし、シャルル3世にはまだまだ大きな悩みがありました。なぜなら、独立を果たしたとはいえ、これからも国を維持していくには「ある物」が絶対に必要だからです。そのある物とはつまり「お金」の事です。

先に述べたフランスへの領土売却で多額のお金を得たシャルル3世でしたが、言わばそれは一時的な臨時収入に過ぎませんでした。しょせんお金など使えばすぐに無くなってしまいます。当時のモナコは漁業以外にこれといった産業のない地中海沿岸に良くあるありきたりの小さな港町に過ぎず、5千余りの人口の大半がその日暮らしの貧しい市民で、このわずかな「国民」から得られる税収ではとても国を維持していくのは困難です。大公が求めていたのは永続的かつ安定的な財源の確保でした。

「わが大公家だけなら十分な資産があるが、5千もの市民をこれからも養って国を運営していくとなると話は別だ。だがこの小さな領土では対外的に売れるものなど何もありはしない。一体これからどうすれば良いのだ?」

シャルル3世は頭を悩ませます。しかし、いくら考え抜いても、この小さな公国には新たな収入源として「他国に売れるもの」などありはしません。悩み疲れた彼は、気分転換に宮殿のテラスへ出てみました。するとそこには美しい青い海と、その海に面して立ち並ぶモナコの街並みが目に入ります。その瞬間、シャルル3世は悟りが開けたかの様にこう言いました。

「そうだ、わがモナコにはこの美しい景色がある。これこそ神がわれらに与えたもうた何にも代えがたい恵みだ。これを売り物にして、モナコをどこにも負けぬ一大リゾートに作り変えよう。」

彼は早速行動を開始します。まずは知識と情報集めです。他国の有名な観光地がどの様に運営されているのか、そのノウハウを得るために大公自ら家臣らを引き連れて各地を視察して回ったのです。そうして各地を旅しているうちに、彼はある事に気付きました。それは観光など出来る人々が、彼の様に先祖から受け継ぐ大きな資産を持つ王侯貴族や、産業革命と資本主義の発達で財を成した新興の資産家など、ごく一握りの「富裕層」だけだという事です。

落ち着いて考えれば当然の事なのですが、ここで新たな不安が再びシャルル3世を悩ませました。つまり、大金を投資してモナコの街を一大リゾートにしても、そんなわずかな一部の富裕層を招き寄せたところで、果たして国家財政を賄えるほどの収益が得られるのか? という事です。さらにシャルル3世にはもう一つの懸念がありました。

彼ら富裕層は有り余る財力で贅沢と遊興に慣れ親しみ、簡単に言えば一流のものすべてに「目も舌も肥えた人々」です。そんな彼らを満足させられるだけの「サービス」をモナコが継続して提供していけるか? という懸念です。モナコの美しい景色と豪華なホテルで美食や美女、素晴らしい音楽でもてなしても、どこの観光地でもあるそうしたありきたりのサービスでは、すぐに飽きられてしまうかもしれません。

「他の所と同じ事をしていてはダメだ。わがモナコだけの何か特別なサービスで、少ない人数でも大きな利益が得られるようにしなければ。」

そこでシャルル3世は、以前から密かに考えてはいたものの、実現するのは国家元首として道義上躊躇していたあるものを許可し、それはおろか国家でそれを経営していく事を決断しました。そのあるものとはなんと「カジノ」です。

カジノとは、言うまでもないと思いますがお金を賭けて当たりはずれを争う場所、つまり「賭博場」の事です。こうした賭博というものは、特にわが国においては歴史上「身分卑しい者のする事」として常に忌避され、現代でも競馬、競輪、競艇やパチンコなど、法律で認められたもの以外の賭博行為は禁止されていますが、こうした例は極めて稀で、世界では道義的な観念とは別に、欧米はもちろん多くの国々で特に大きな法的規制もなく盛大に行われているものです。


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上は現代のカジノの様子です。「ルーレット」はその代表的なもので、欧米の映画やドラマなどで、主人公が上の様にカラフルなチップを倍率の書かれた数字の位置においてプレイするシーンなどは良く見かけますね。写真では裕福なセレブたちが楽しんでいます。私たち庶民には縁のない場所ですが。(笑)

彼がカジノを公的に認める決断をした理由は、先にも述べた様に少ない富裕層から大きな利益を得るためです。王侯貴族や資産家など、その身分階級はさて置き、一人のお金持ちが一度のゲームで当時の一般庶民100人分の年収に匹敵する大金を賭け、外れればその賭けた金は全部カジノ側の儲けになるわけですから、まさに「ボロ儲け」です。もちろん、お金を賭けた側が大当たりする場合もありますが、そんな例は確率的に数十万分の一であり、多くは外れるに決まっているからです。

お金を賭ける側も、そんな事は百も承知です。しかし、彼らはお金儲けではなく(もともと遊んで暮らせるほど財産があるのですからね。笑)大金が当たるかもしれないが、外れて大損するかもしれない「一瞬のスリルと興奮を味わう」というなんとも大それた理由(ある意味呆れた理由ですね。 失敬)のためにこうしたギャンブルを楽しんでいるのです。

シャルル3世はモナコの海沿いの一等地に、まるで宮殿の様な国営の「グラン・カジノ」と、それを目当てに富裕層が宿泊する豪華なホテルを次々に建設していきます。では、その財源は一体どうしたのでしょうか? もちろんその点も彼は抜かりはありませんでした。それは他国の銀行の融資すなわち「借金」ではなく、かつてフランスに割譲した領土の売却で得たあの400万フランです。これはいわゆる一時的な「特別利益」であり、仮に失敗したとしても、大公家のもつ資産とは別勘定なので、グリマルディ家は全く損をしないよう抜かりなく計算していたのです。つまり、シャルル3世は領土割譲の時点からこの計画を考えていたものと思われます。

こうして1863年、莫大な先行投資で物理的なインフラを整えると、彼はこれまで親交のあった各国の王侯貴族、資産家に招待状を送り、さらに一大キャンペーンを行って「新しいモナコ」を大々的にアピールします。後は運を天に任せるのみです。それはまさに国の未来を託した「大きな賭け」でした。


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上がシャルル3世が建設した「グラン・カジノ」と、豪華絢爛な内部の様子です。1863年創業で、現在も世界中のセレブが集まる社交場ともなっています。

果たして、シャルル3世の狙いは最初から「大当たり」しました。各国から新しいもの好きの大勢の富裕な人々がモナコを訪れ、大公の思惑通り莫大な収益を得られたからです。それは投資した金額の数倍に及ぶ巨額なもので、同時にモナコの国家財政を数年補って余りある莫大なものでした。

この成果にシャルル3世は大いに満足し、同時に安心しました。なぜならこの美しい景色以外に何も売るものがなかった小さな都市国家に、大きな利益をもたらす生業(なりわい)を作り出す事が出来たからです。そして次に大公が心を砕いたのは、自らの民モナコ国民でした。なんと彼は国民への直接税を廃止したのです。さらに大公が建設したカジノやホテルに多くの市民が従業員として雇用され、貧しかったモナコ国民の暮らしは大変豊かになりました。

国民はシャルル3世を敬愛し、大公が時折宮殿を出て外出すると、その行き帰りには見送りや出迎えの市民の歓呼の声が絶えませんでした。彼は1889年に70歳で亡くなりますが、その時には「われらが大公殿下」の死を多くの市民が悼み、それまで単なる支配者としてしか市民に認識されていなかった歴代の大公とは違い、国民のために国そのものの在り方を変え、暮らしを豊かにしてくれた彼の死を心の底から悲しんだそうです。モナコ国民は亡きシャルル3世を称え、彼が作り上げた海沿いの高台のカジノとホテル群を「モンテ・カルロ」(イタリア語で「シャルルの山」という意味です。)と名付け、今ではこの名は「お金持ち」の代名詞となっています。

こうしてモナコ公国は、中世以来から続く歴史はあるが、これといって何の取り得もないさびれた都市国家から、一大観光リゾートという全く新しいタイプの特殊な都市国家に生まれ変わりました。そして、その礎を築いたのは、カジノに国を賭けた一人の大公でしたが、その彼が心に抱いていたのは常人には想像を絶する国の未来への大きな不安でした。

それから150年余りが経過し、これまでに多くの数えきれない富豪たちがモナコのカジノに集って大金を賭け、大儲けした者、逆に財産をすべて失って破産した不幸な者(というより愚かな者)が現れては消えていきました。しかし、そうした人々よりも、誰よりも大きな「賭け」をしていたのは、カジノに国そのものを賭けた他ならぬ創始者のシャルル3世その人だったのかもしれませんね。(笑)

次回に続きます。
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