カール大帝とカロリング王朝 1

みなさんこんにちは。

今回からフランク王国の第2王朝であるカロリング家の人々についてお話致します。

このカロリング家については前回お話した様に、もともとの身分はフランク王国の王家メロヴィング家に仕える家臣で、メロヴィング朝中期から台頭して来た家柄の一族でした。

メロヴィング朝フランク王国は、創始者クローヴィス1世亡き後、彼の子孫たちによって統一と分割を繰り返しながら支配されていたのですが、カロリング家はその中の一つで、ほぼ現在のドイツの西部地域であるアウストラシア分王国(一つの王国を「分けて」いるのでこの言い方をしています。)の宮宰(「きゅうさい」「宮廷宰相」とでも言いましょうか、王に代わって王国の政務その他一切を取り仕切る言わば「首相」職で、それぞれの分王国に存在していました。)を務めていました。

ClovisDomain_japref.jpg

メロヴィング朝フランク王国は、フランク族独特の伝統的慣習に従い、王位継承の度に王国を分割相続する制度であったため、次第に王権が弱体化して行き、代わってこれら宮宰が台頭していきました。

最初に彼らの名が登場するのがメロヴィング朝中期から後期なのですが、まだその頃宮宰職はカロリング家世襲のものではなく、他の有力家臣との持ち回りで行っていた様です。しかしその宮宰職を初めてカロリング家世襲のものとし、またアウストラシアだけでなく、全フランク王国全ての宮宰に就任する事に成功したのがピピン2世(640?~714)という人物です。(とても愛嬌のある名前ですが、実際にこういう名前なのです。しかしそれとは裏腹に、さぞや激しい権力闘争で政敵の有力者を倒していったのでしょうね。)

そのピピン2世の死後、宮宰職は息子のカール・マルテル(688?~741)が継いで全フランク王国の実権を握ります。(息子なのに名前が違うのは彼が正妻の子ではなく、側室の子であるからです。当然正妻の息子一族との争いがありましたが、彼は大変軍事的才能に恵まれ、これらを破って全フランク王国の宮宰となりました。)

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その後彼は、西ゴート王国を滅ぼし、当時スペインからフランス南部にまで侵攻して来たウマイヤ朝イスラム帝国の6万とも10万以上ともいわれる大軍を、わずか2~3万の軍勢で撃退し、西ヨーロッパへのイスラム勢力の侵入を食い止めた事で、その名を全ヨーロッパに知らしめ、ローマ教会からも信頼されると同時に恐れられました。

カール・マルテルが死ぬと、その息子であるピピン3世(714~768)が宮宰となります。そしてこの人物こそメロヴィング朝から王位を簒奪(「さんだつ」本来その地位に付くべきでない下位の者が、上位の者から位を奪い取る事。)してカロリング朝を開いた最初の王です。

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王位を「奪い取る」という表現をしましたが、彼は軍事クーデターの様に力ずくで行ったわけではありません。メロヴィング朝末期のこの時期、すでにメロヴィング家の権威は失墜し、王位も空白でした。ピピン3世は某修道院から、メロヴィング家の血筋に連なる人物を連れて来てキルデリク3世(?~754?)として即位させ、数年間在位させた後に、751年王国の貴族たちの決議で彼を廃位して、自らを新たな「フランク国王」として選出させたのです。
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上がそのキルデリク3世の銅貨です。

彼がこの様な回りくどいやり方で即位した背景には理由があります。力ずくで王位に付くのは簡単だが長続きしない。歴史を見れば大抵一代限りの短期政権で終わっています。彼はメロヴィング朝の様に、自らの子孫による王朝の存続を望んでいました。そのためには自分が王位に付く正当性と、それを支え、従えて行く周囲の者たちに充分納得させる準備が必要です。

彼はまずローマ教会に接近し、時の教皇ザカリアスから「力無き者と力ある者とでは、力ある者が王になるべき」との言葉を頂き、(教皇に頼んでそう言わせたのです。)ローマ教会の支持を取り付けました。(もちろん裏でローマ教会は法外な口利き料を取っていた様です。)そしてそれを王位簒奪の正当性の根拠にして、王国の貴族たちにも彼らに得がある様に充分根回しをし、数年かけて周到な準備を重ね、751年の貴族会議で、彼ら王国貴族たちから推戴されるという形式を取ってついに王位に付いたのでした。

哀れなメロヴィング家最後の王キルデリク3世はその後幽閉され、(復位させないためと思われます。)数年後に寂しく亡くなりました。こうして初代クローヴィス1世から数えて14代270年続いたメロヴィング王朝は終焉を迎え、代わって新たにカロリング朝フランク王国が誕生しました。(カロリングとは「カールの」という意味で、ピピン3世の父カール・マルテルが事実上この王家の初代とされているからです。)

念願叶って王になったピピン3世でしたが、彼にはまだローマ教会と約束した大仕事が残っていました。それは彼が王位に付く見返りに、当時ローマ教会を脅かしていた北イタリアのランゴバルド王国を討伐する事です。さらに貪欲なローマ教会は、討伐成功の暁には、イタリア中部の領土をローマ教会に寄進する約束までさせていました。

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上はピピン3世が寄進した領地の報告を受ける教皇と枢機卿たちを描いた絵です。彼は約束通りランゴバルドを討伐し、奪った領地の中からラヴェンナを中心とする地域を当時の教皇ステファヌス3世に寄進しました。(ピピンの寄進)そしてこれが、後のローマ教皇領の始まりとなります。

次回に続きます。
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