スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

カール大帝とカロリング王朝 2

みなさんこんにちは。

旧メロヴィング王朝を廃して自らの王朝を打ち建て、新たにフランク王となったピピン3世が768年に亡くなると、その領土はまたもフランク人特有の均一分割相続により、彼の2人の息子長男カールと、次男カールマンが相続します。しかし弟カールマンの方は3年後に早死にしたので、フランク王国は兄カールが単独で支配する事になりました。

このカールこそ、後のカール大帝となるカール1世です。(742~814)

fc2blog_20130429000859d33.png

上は16世紀に描かれた彼の肖像です。

彼は全フランクの王になると、父ピピン3世をはるかに凌ぐ軍事遠征を行いました。彼はまず、その遠征の矛先を北イタリアにあった隣国ランゴバルド王国に定めます。当時この地域には、同じゲルマン民族であるランゴバルド族の建てた王国があり、カトリックの総本山であるローマ教会を脅かしていました。ランゴバルド王デシデリウスは、イタリア半島征服を狙っており、いずれは戦う事になる相手であったからです。

しかし両者はそんな思惑をおくびにも出さず、当初はランゴバルド王から、自分の娘とカールとの政略結婚の申し出があり、カールもそれを受けてその王女と結婚します。これでフランク王国から攻撃される事はないと思い込んだデシデリウス王は772年ローマへと兵を進めました。

時の教皇ハドリアヌス1世(?~795)はカールに救援を要請、デシデリウスを討つ大義名分を得たカールは3万の軍を率いてアルプスを越えるとランゴバルド王国へ侵攻、首都パヴィアを落としてランゴバルド王の象徴である「鉄王冠」を奪い、たちまち全土を制圧してしまいます。本国を襲われ不意を突かれたデシデリウスは捕虜となり、ランゴバルド王国は建国からわずか100年余りで滅亡しました。

Charlemagne_and_Pope_Adrian_I.jpg

上はランゴバルド軍を破ってローマに入城するカールを迎える教皇ハドリアヌス1世です。(教皇自ら出迎えて「汝はローマを救った。」とか「主イエスは常に汝のそばに。」とかなんとかさぞや大げさにカールを褒め称えた事でしょうね。)

640px-Iron_Crown.jpg

そしてこれがランゴバルドの「鉄王冠」です。これは代々のランゴバルド王が受け継いだ物で、なんでもキリストが磔にされた時の釘(といわれる物)を叩き伸ばして円状にし、その周りを分厚い黄金の板と宝石で飾ったいわゆる「聖遺物」という物です。この王冠は後に「イタリア王」の象徴とされ、その後イタリアを支配した歴代の皇帝たちに受け継がれていきました。

ランゴバルド王国を滅ぼしてその領土を得たカールは、この王冠を盾に自らランゴバルド王を兼ね、父ピピン3世の例に倣ってイタリア中部の領土を教皇に寄進し、ローマ教皇領の守護者となりました。(教皇以下、教会幹部が歓喜する姿が目に浮かびます。喜んでそれらを認めた事でしょう。)

南の敵を討った彼は次に北上、ドイツ北部で頑強に抵抗し、フランク王国への服属を拒むザクセン族との長い戦いに入ります。(これを「ザクセン戦争」と言い、772年から804年までなんと30年以上も続き、最もカールを悩ませました。)彼は通算10回以上も北方遠征を行い、その間に他の方面にも遠征しています。

778年にカールはイベリア半島のカタルーニャに侵攻、後ウマイヤ朝の支配するイスラム勢力を駆逐すると、795年この地に「スペイン辺境領」を置きます。(これはイスラム勢力とのいわゆる「軍事的緩衝地帯」でしょう。)さらに788年には東のバイエルン族を服属させ、791年にはドナウ川流域のスラブ人も討ち従えて行きました。

711px-Empire_carolingien_768-811.jpg

上がカール1世が征服した領土です。青色が即位当時の領土、オレンジ色がその後にフランク王国に組み入れた領土、黄色が勢力範囲、赤色が寄進した教皇領です。イタリア、ザクセン、バイエルン、ボヘミア、チェコ、スロバキア、スペイン北部など、彼の時代にフランク王国はその領土が約2倍になりました。

もはや西ヨーロッパで、カールに立ち向かえる敵はほとんどいなくなりました。それほどまでに強大化したカールのフランク王国に対し、密かにこれを利用して自分たちの権威と地位をもっと高めようと画策する集団がありました。それは悪名高い謀略の巣窟であるローマ教皇庁です。

当時カトリックのローマ教皇庁は、ローマがキリストの最初の弟子ペテロ殉教の地である事を根拠に東のビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを牙城とする、「正教」とキリスト教の主導権を巡って争っていました。しかしこの時代、キリスト教の中心地は何と言ってもコンスタンティノープルであり、ローマは常にその「格下」扱いを受けて後塵に甘んじる事を余儀なくされていたのです。そこで歴代のローマ教皇は、東のコンスタンティノープル総大主教に打ち勝つ方策を常にあれこれと巡らせていました。

そんな折、西ヨーロッパでは今や東のビザンツ帝国と肩を並べる強大な勢力となったカール1世のフランク王国が興隆しつつあったのです。「この状況を何とか我らに有利に利用出来ないか?」そして時のローマ教皇レオ3世(750?~816)は実に突拍子も無い奇抜な事を考え付きます。それはすでに300年以上前に滅びた「西ローマ帝国の復活」です。

「東の正教勢力が強いのはビザンツ帝国(東ローマ帝国)という「国家」の厚い庇護の下にあるからで、わがローマが正教より弱いのはこの「国家」による庇護が無いからだ。ならばこちらもその後ろ盾となる「国家」を創れば良い。東の正教が「東ローマ帝国」であるのなら、西の我らは当然「西ローマ帝国」である。」というわけです。

そして彼が考えるその復活した「西ローマ帝国」というのがカールのフランク王国であったのです。もちろんその様な大それた構想を、古代ローマ帝国の正当な後継国家である「東ローマ」すなわちビザンツ帝国が絶対に認めるはずがありません。しかし教皇レオ3世は構わずこの計画を実行に移すため動き出しました。

次回に続きます。
スポンサーサイト

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

フリーエリア
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログ 世界史へ
にほんブログ村 ランキングに参加しております。よろしければ「ポチッ」として頂ければ嬉しいです。
プロフィール

コンテバロン

Author:コンテバロン
歴史大好きな男のささやかなブログですが、ご興味のある方が読んで頂けたら嬉しいです。

最新記事
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
リンク
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。