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カール大帝とカロリング王朝 3

みなさんこんにちは。

さて教皇レオ3世が東の正教に対抗し、全キリスト教徒の頂点としてのローマ教皇権の確立を目指して「西ローマ帝国の復活」という途方も無い作戦を計画していた800年頃、その筋書きの主役であるカール1世は何をしていたのでしょうか?

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カール1世の軍事遠征については前回大まかにお話しましたが、彼は対外戦争ばかりしていたわけではなく、国政においても優れた手腕を発揮した英邁な君主でした。中でも彼が最も情熱を傾けたのがカトリックの拡大と学問の振興です。

カールは征服した領地に教会や修道院を次々に建設して人々のキリスト教カトリックへの改宗を促進し、各地から学者や知識人を集めると、それらに付属する神学校で古代ローマやラテン語の学問を大いに奨励しました。(彼が行ったこれら一連の文化運動は「カロリング・ルネサンス」と呼ばれています。)さらに王国内を細かくブロック分けした「州」を設け、各地の有力部族の長などをそれらの長官として任命し、後の貴族階級の「爵位」のもとになる「公」その下に「伯」などの位を与えて徴税、統治を徹底させ、中央集権化を推し進めていきました。

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上はカール1世が建てた寺院の一つであるドイツのアーヘン大聖堂とその内部です。1枚目の写真をご覧下さい。彼の時代には中央の八角形の部分が中心でしたが、その後の時代に合わせた様々な建築様式で次々に建て増しされ、デザインがバラバラなのがお分かり頂けると思います。カール大帝は崩御するとこの大聖堂の神殿に埋葬され、今もここに眠っているそうです。そして彼に続くカロリング家の皇帝たちも、さらにその後に開かれた神聖ローマ帝国の歴代皇帝たちもほとんどここで戴冠しています。

(彼は生涯の大半を軍事遠征に費やしたので彼の宮廷は絶えず移動を余儀なくされ、彼のフランク王国でははっきりとした「首都」と呼ばれる所がないのですが、多くの歴史家の間では独仏の中間にあるここアーヘンをカロリング朝の都としています。)

そんな折、時のローマ教皇レオ3世から例の「西ローマ帝国の復活」とカールの皇帝戴冠の話が持ち込まれたのです。正確にはカールが最も信頼し、彼の宮廷で活躍していたイングランドの高名な神学者アルクイン(735?~804)を介して伝えられたのですが、カールはこの時点ではローマ教皇の本当の目的が見抜けず、皇帝即位を受諾しています。

中世最強の王カール1世もやはり「人間」でした。

「すでに西ヨーロッパのほとんどを征服し、わがカロリング・フランク王国は、今や東のビザンツ帝国とヨーロッパを二分する超大国となった。その王である自分こそ、王たちの王、すなわち皇帝となるにふさわしい。そしてキリスト教カトリックの守護者として、全ヨーロッパにあまねくそれを広めるのだ。」

彼の心の中に、このまま歴史に数多くいるただの「王」の一人で終わりたくない。全世界の支配者「ローマ皇帝」となって歴史に自らの名を刻みたいという名誉欲が膨らんでいきました。


西暦800年12月25日、カール1世はローマに赴き、サン・ピエトロ大聖堂で教皇レオ3世より帝冠を授かり、「西ローマ皇帝」として即位しました。しかしこの時カールを驚愕させる事態が起こります。それは教皇レオ3世が、ペテロの石棺の前にひざまずくカールの頭上に「教皇の手により」帝冠を載せたのです。そして様々な美辞麗句で彼を褒め称えた挙句「神の代理として汝をローマ皇帝に任ずる。」と宣言し、時を置かず参列者に「偉大なるカール皇帝万歳!」と叫ばせました。

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上がその時の様子を描いた絵です。もちろん参列者の大半は、本心から偉大な皇帝の即位を喜んでそう叫んだのでしょうが、カール大帝自身はこの時初めて、自分がローマ教皇の大芝居のパフォーマンスを演じさせられた事に気付きました。なぜなら教皇による皇帝の戴冠など、過去に前例が無かったからです。

実はローマ教皇とは、カトリックの頂点に君臨するとはいえ聖職者の最高位に過ぎず、本来なら聖職者などという者は、地上の最高権力者たる皇帝から選任されてしかるべきものでした。それなのにカール大帝はまんまと教皇レオ3世に乗せられ、「教皇が皇帝を選任する」という全く逆の形を創らされてしまったのです。

カールがそれに気付いた時はすでに遅かったのですが、広大な領土を統治するための「神聖かつ巨大な権威」を必要としていた彼は大いに不本意ながら「西ローマ皇帝」としてその後君臨します。

さて、これに怒ったのが「東ローマ帝国」すなわちビザンツ帝国でした。ビザンツ皇帝はカールの「西ローマ皇帝」など「僭称」に過ぎないと断じて認めず、さすがに東のビザンツ帝国とまでは戦うつもりの無いカール大帝を悩ませました。(もちろん教皇レオ3世は知らんぷりです。)結局その後十数年かけて両者の間で交渉がなされ、812年にフランク王国とビザンツ帝国との間で妥協が図られました。

その内容は、ビザンツ皇帝はカールの皇帝即位を認め、その代わりカール大帝は後に海洋都市国家として大発展するヴェネツィアと南イタリアをビザンツ帝国領として認める。イタリア中部の教皇領は両者のどちらにも属さない主権国家とするというものです。(しかしこの時もビザンツ側は「ローマ帝国とローマ皇帝」はあくまでビザンツ帝国とビザンツ皇帝であり、カール大帝は「フランクの皇帝」に過ぎないというものでした。)

こうして「西ローマ帝国」は復活したかの様に見えますが、歴史上の位置付けではビザンツ帝国の主張を正当と認めていて、そのためカール大帝以下カロリング家の皇帝たちは「フランク・ローマ皇帝」などとやや苦し紛れに呼ばれています。

次回に続きます。
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