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カール大帝とカロリング王朝 4

みなさんこんにちは。

様々な紆余曲折を経てようやく実現したカールの皇帝即位でしたが、その後のカロリング・フランク王国とヨーロッパ世界はどうなったのでしょうか?

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上の図をご覧になればお分かりと思いますが、大体大きく3つの大勢力に分かれている事が確認出来ます。紫色がカール大帝のフランク王国、黄土色がビザンツ帝国、そして緑色がアッバース朝イスラム帝国(後ウマイヤ朝のスペインを除く。)ですね。そしてイタリア中部にあって極めて小さいながら、これら3つの超大国の力のバランスを利用しつつ巧みな外交と謀略で翻弄し、したたかに存在していたのがローマ教皇庁です。

カール大帝―ヨーロッパの父 (世界史リブレット人)

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カール大帝について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は96ページで薄いですが、大帝についてコンパクトな知識をつけるには十分な本です。(カール大帝とフランク王国の書籍は他にもありますが、学者さんがお書きになった高度な専門書で、500ページ程度なのになんと価格が8千円以上もする高価なものになってしまうため、上の本をお薦めします。)

カール大帝は、ビザンツ帝国との一応の和平が成った2年後の814年に、71歳でその波乱に満ちた生涯を終えます。前王朝メロヴィング朝の創始者クローヴィス1世と比較すると、前者に比べはるかに人間らしい好人物であった様です。

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上はルネサンス期(1500年前後)にドイツ最大の画家アルブレヒト・デューラー(1471~1528)によって描かれたカール大帝の肖像です。(黄金の帝冠を被ったカール大帝ですが、この帝冠は彼の死後150年後に建国された神聖ローマ帝国皇帝の帝冠であって、カール大帝が身に着けていた物ではありません。画家が事情を良く知らなかったのでしょう。)

記録によれば、カール大帝は身長195センチもある大男で、乗馬や狩り、水泳などのスポーツを好み、焼肉が大好物でしたが酒には弱く、あまり飲めなかった様です。また当初は読み書きが全く出来ず、下が彼のサインですが、なんと真ん中の「菱形」の部分しか書いていないそうです。しかしさすがにこれではまずいと思ったのか、忙しい合間を縫って夜にこっそり石版で読み書きの練習をしたりしていました。

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ただそこは皇帝になるだけの大人物だけあって頭は良く、ラテン語やギリシャ語を習得し、学者たちとも大いに語らい交流していました。上のデューラーの肖像では豪華な衣装を身に着けていますが、儀式以外の普段着は質素で贅沢は好みませんでした。またペットの飼育も趣味で、各地から様々な珍しい動物を送らせてはアーヘンの宮廷内に「動物園」を作って楽しんでいたそうです。

いろいろ調べてみましたが、このカール大帝は先のクローヴィスと大きく違い、正々堂々とした「騎士道精神」と豪快かつ単純な明るい性格で、謀略や残虐なエピソードがほとんどありません。それゆえか今でもヨーロッパでは「ヨーロッパの父」と呼ばれて慕われ、現在のEU(ヨーロッパ連合)を主導するドイツ、フランス両国で高い人気を誇っています。またこの人はトランプのカードのハートのキングのモデルとしても有名ですね。

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カール大帝の死後、フランク王国は彼の長男ルートヴィッヒ敬虔王(778~840)が、父カールがやむなく受け入れた教皇による皇帝戴冠を踏襲して即位します。(彼は「敬虔王」の名の通り大変信仰心が厚く、教皇によって戴冠される事になんら疑念を持たなかった様です。そしてこのルートヴィッヒのフランス語である「ルイ」が、後のフランス王家歴代国王に代々受け継がれ、彼は初代ルイ1世とされています。)その彼が亡くなるとフランク王国はまたしても分割相続されました。

その後彼の3人の息子たちは大方の予想通り兄弟骨肉の領土争いを展開し、結局843年にそれぞれの相続分を取り決めた「ヴェルダン条約」によって一応の決着を見ました。

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こうしてカール大帝の築いたカロリング・フランク王国は分裂し、その後二度と統一される事はありませんでした。やがてカロリング家の血筋も、その最後の人である西フランク王国のルイ5世が987年に亡くなり、カロリング王朝は初代カール・マルテルから数えて240年余りで断絶してしまいます。

メロヴィング王朝のクローヴィス1世が482年に興し、さらにカロリング王朝に引き継がれて通算500年続いたフランク王国のそれが最後でした。そして後に残った西フランク王国がフランス王国に、東フランク王国が神聖ローマ帝国になり、フランク王国は完全に消滅しました。しかしフランク王国の記憶はその後継国家であるドイツ、フランス、イタリアという現在のヨーロッパ主要国の国民形成に大きく影響し、そこで育まれた文化や学問が今日のヨーロッパの原型を造ったのは疑い様もありません。

また古代ローマ帝国に代表される様に、それまで地中海中心に動いていた歴史が、この時代から「北方」に移った事も大きな特徴でしょう。ゲルマン民族のフランク王国が歴史上果たした役割は、ヨーロッパの歴史の区切りと移り変わりというものを知る上でとても興味深い一大スペクタクルであると思います。

フランク王国物語終わり。
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テーマ : 歴史
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