エンリケ航海王子とポルトガル王国の挑戦 1

みなさんこんにちは。

今回から大航海時代の先駆者ポルトガル王国の歴史についてお話したいと思います。

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ポルトガルの歴史や大航海時代について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ページ数は127ページほどですが、豊富な写真や図で丁寧に解説されています。

「大航海時代」というと、まず思い浮かべる主役の強国は「無敵艦隊」で知られるスペイン、次いでオランダ、そしてイギリスという流れになりますが、それら列国に先んじて真っ先に未知の海へと乗り出し、植民と海上貿易で最初に巨万の富を築いたポルトガル王国の歴史についてはあまり知られていません。ヨーロッパ最辺境の西の果ての貧しい小国が、どの様にして他国もうらやむ莫大な富と繁栄を手に入れ、そして衰退していったのでしょうか?

その彼らの活躍と繁栄の秘密を紐解いて行きます。まずはその最初にして最大の貢献者であるエンリケ航海王子の生涯から話を始めたいと思います。

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エンリケ航海王子(1394~1460)はポルトガル王国第2王朝であるアヴィス朝初代国王ジョアン1世(1357~1433)の第3王子としてポルトガル北部の港湾都市ポルトで誕生しました。この国の国名である「ポルトガル」はこの街のローマ時代の古い呼び名「ポルトゥス・カレ」(ポルトの港)から来ています。

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このエンリケ航海王子の生涯について詳しくお知りになりたい方は上の本が良書です。ポルトガル史およびブラジル研究がご専門の金七紀男教授の執筆で、ページ数は230ページ余り。エンリケ航海王子の生涯について詳細に書かれた日本で唯一の本で、先にご紹介した図説も彼の著作です

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上がエンリケ航海王子が生まれたポルトの街並みです。(人口約24万) ここで彼が生まれる以前のポルトガルの歴史をごく簡単に説明しておきましょう。このポルトガル王国は1143年に、建国の父であり、フランスのブルゴーニュ家出身の最初の国王アフォンソ1世(1109~1185)が隣国カスティーリャ王国との戦いに勝利し、ローマ教皇の承認を受けて成立したのが始まりです。(ブルゴーニュ朝)

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上がポルトガル初代国王アフォンソ1世です。彼が開いたブルゴーニュ朝は9代240年ほど続き、1249年にはイベリア半島で最も早くイスラム勢力を追い払ったのですが、その後の黒死病(ペスト)の大流行と英仏百年戦争の影響で衰退し、やがてフランスの影響を打破したい国内勢力がイギリスの支援を受けて成立させたのが、エンリケの父ジョアン1世が開いたアヴィス朝となります。

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上がエンリケの父ジョアン1世です。彼は前王朝ブルゴーニュ家最後の王の子でしたが私生児であったため、彼の代からは新王朝として扱われている様です。また彼が開いたアヴィス朝の名は、彼が王位に付く前に率いていた「アヴィス騎士団」の団長であった事に由来します。

このジョアン1世はなかなかの名将で、建国以前からの長年の宿敵である隣国カスティーリャ王国の侵攻を何度も撃退し、ポルトガル国民から「救国の英雄」とまで称賛され、その功績も相まって新国王として推戴されたのです。また初めて海外に目を向けた王でもあり、エンリケ王子はこの父の影響を特に強く受けて成長したものと思われます。

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上の図が当時のポルトガルを含むイベリア半島の勢力図で、中央のひときわ大きい国がカスティーリャ王国です。ポルトガルにとってカスティーリャがいかに脅威だったか良く分かると思います。

ジョアン1世には5人の王子がおり、先に述べた様にエンリケ航海王子はその第3王子に当たりますが、他の王子たちも父王の影響を受けてかそれぞれに優秀であり、また他国の王家が兄弟で血まみれの王位争いをする中で、珍しく家族仲も良かった様です。

ジョアン1世は1411年に隣国カスティーリャ王国と和平を結んで側面の脅威を除くと、今度はポルトガルの勢力拡大に転じます。彼はその手始めとして、地中海を隔てた対岸のモロッコにあるイスラム勢力の要衝セウタ攻略を計画します。

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上がそのセウタの位置とその遠望です。(現在はスペイン領で人口は7万8千ほど) なるほど地中海の入り口にあって三方を海に囲まれた天然の要塞で、ここを押さえて艦隊と守備隊を常駐させれば、カスティーリャ王国を南からけん制し、またイスラム勢力を封じ込めるのも有利ですね。(こんな所を取られてはカスティーリャ王国が黙っているはずは無いと思われるでしょうが、この頃イベリア半島の南部には、あのアルハンブラ宮殿で知られるイスラムのグラナダ王国が健在であり、彼らとの戦いがまだ終結していないカスティーリャはそこまで手が回らなかった様です。)

当時ここは北アフリカの遊牧民族ベルベル人が1200年頃開いたイスラムのマリーン朝の王国の支配地でしたが、すでにこの王国は衰退期で弱体化しており、それを見越したジョアン1世は一早くここを占領してポルトガル海外進出の足がかりとするつもりでいたのです。

地中海の入り口といえば、スペイン南端のジブラルタル要塞が有名ですが、当時そのジブラルタルはグラナダ王国の支配下にあり、そこを攻略する事は困難でした。またジブラルタルが強力な要塞都市になるのはグラナダ王国が滅び、カスティーリャとアラゴンが合併して「スペイン王国」が誕生してからで、この頃はまだ重要視されていませんでした。

ジョアン1世がセウタ攻略を計画したもう一つの理由は軍事上の重要性だけでなく、新たな財源の確保もその目的でした。度重なるカスティーリャ王国との戦いなどでポルトガルは貧しく、国民は飢えに苦しみ、彼が目指す海外進出に必要な船団や艦隊を造るお金がありませんでした。(この時代のポルトガルの人口は100万程度だったそうです。)ここを取れば、港を出入りする諸国の船からの関税や入港税などが徴収でき、さらに交易により大きな収入も期待出来ます。

ジョアン1世は周囲を説得し、国民にも理解を呼びかけました。国民は彼の熱意と考えに賛同し、送り出す軍勢とそれらを乗せる船団の費用を捻出するため、貧しい自分たちの生活をさらに切り詰めて軍資金集めに協力し、おかげでジョアン1世はおよそ2万の軍勢とそれらを輸送するガレー軍船200隻の大艦隊を編成する事が出来ました。(この数字は当時の貧しいポルトガルの国力を総動員し、そろえる事が出来た精一杯のものだったでしょう。まさに国運を賭けた大作戦だったと思われます。結果として、この彼らの投資は子孫の代に大きく実を結びます。)

そしてエンリケ王子もこの父王の遠征に同行し、他の兄弟たちと供に攻略戦に参加しました。この時彼は21歳の若者でした。

次回に続きます。
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