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エンリケ航海王子とポルトガル王国の挑戦 3

みなさんこんにちは。

1437年国王ドゥアルテ1世とエンリケ王子は周囲の反対を押し切り、ポルトガル軍を差し向けてイスラム勢力の要衝であるモロッコのタンジール攻略作戦を開始します。(位置は下図参照。)しかしこの地で彼らの派遣したポルトガル軍はイスラム軍に大敗し、作戦は大失敗に終わりました。それだけでなく彼らの実弟であるフェルナンド王子(1402~1443)がイスラム軍の捕虜になってしまいます。

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イスラム側は「フェルナンド王子を返して欲しくば身代金を支払い、セウタを返還せよ」とポルトガル側がとても受け入れられない要求を突きつけて来ます。国王ドゥアルテ1世はこれを身分制議会コルテス(聖職者、貴族、市民の代表の3者が集まる議会)にかけて審議させますが、元々反対が多かったタンジール攻略を無理に進めたアヴィス王家とエンリケ王子に批判が集まり、結局事案は否決されてしまいました。

この事にショックを受けた兄王ドゥアルテ1世は精神的に追い詰められ、折から流行していたペストに倒れて弟フェルナンド王子の身を案じながら1438年にわずか5年の在位で亡くなります。(優しい兄上だった様ですね。)

捕虜になった王家の末弟フェルナンド王子は救援の望みが絶たれた事を知るや、このまま捕虜として監禁の身に甘んじる道を選び、イスラムへの改宗を拒んでカトリック信仰を貫き通し、6年後の1443年獄中で40歳で亡くなります。死ぬまで信仰を捨てなかった彼は殉教者としてローマ教皇から「聖人」に列せられ、「フェルナンド聖王子」として祀られているそうです。

もちろんショックだったのはタンジール攻略を兄王と供に強行したエンリケ王子も同じでした。彼は反省の意を体すため、軍の指揮権をもう一人の弟ジョアン王子(1400~1442)に譲り、今後一切の軍事作戦には口を出さず、ひたすら内政と海外探検に集中する事になります。

兄王の死で、王位はその子アフォンソ5世(1438~1481)がわずか6歳で即位します。当然政治は出来ないのでエンリケ王子はもう一人の兄コインブラ公ペドロ(1392~1449)を摂政として彼を支えました。

Infante_d_pedro_duque_de_coimbra.jpg

上がエンリケ王子の兄コインブラ公ペドロ。彼は学問に秀で、10年以上海外に留学した国際感覚豊かな知識人であり、また誠実な人柄で彼の治世はとても善政でしたが、腹違いの兄であるブラガンサ公アフォンソ(1377~1461)との権力争いに敗れ、内戦の末戦死してしまいます。

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上がペドロ公を破ったブラガンサ公アフォンソです。(人相悪いですね。)ペドロ公の戦死の結果、ポルトガル王国の実権はブラガンサ家に握られますが、ペドロ公の孫ジョアン2世(1455~1495)が王位に付くと、祖父の恨みを晴らすべくブラガンサ一族に襲い掛かり、冷酷な復讐が成されます。しかしその後1580年にアヴィス王家が断絶すると、スペイン王の支配を挟んで1640年に再びブラガンサ家が今度は正式な「王家」として復権し、1910年まで実に270年もの間続きます。(まさに「親の因果が子に報い」というか、両家の確執は深いですね。)

さて兄たちの不幸な争いの後も、エンリケ王子はひたすら海外探検事業を推し進めていました。ちょうどこの頃、三角帆を使い、向かい風でもある程度進む事が出来る画期的な新型帆船である「キャラベル船」が建造され、(下図参照。)遠洋航海が飛躍的に伸びる様になりました。

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1444年、エンリケ王子の派遣した探検隊はついにギニアに到達し、これによって彼の当初の目的であったサハラ砂漠のイスラム勢力を中継せずに、アフリカ南部の金などをポルトガル本国へ輸送する航路が確立されました。この航路で大量の金が運ばれ、ポルトガルの国家財政は潤い、この金で1452年に同国初の金貨が鋳造されたそうです。

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上は当時鋳造されたクルザード金貨です。

1450年代には探検船はカーボベルデに到達、さらに1460年にはアフリカ中部シエラレオネにまで達しました。この同じ年、エンリケ王子はサグレスの自分の館において66歳で亡くなります。(下が彼が探検船を送り込んで発見領有した島々で、北から順にアゾレス、マデイラ、カナリア、カーボベルデの各諸島です。なお、カナリア諸島だけはカスティーリャ王国に奪われ、同国が後にスペイン王国となってからは新大陸への中継基地として断じて譲らず、最後までポルトガル領にはなりませんでした。またこの付近一帯の島々を総称して「マカロネシア」と呼ばれているそうです。)

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20代前半から亡くなるまで40年以上に亘ってその生涯の全てを海外探検に捧げた一生でした。なお彼は生涯独身だったので彼の子孫はいません。結局エンリケ王子が生きている間にはこの範囲の探索が限度で、彼の本来の目的であったプレスター・ジョンの王国探しと、東洋の香辛料を手に入れる事は出来ませんでした。

実はエンリケ王子、実際には一度も自分で海洋探検に出た事は無く、その全てを家臣やベテランの船乗りたちに任せ、自らはポルトガル本国を出る事は無かったそうです。その理由というのが、別に彼が臆病だったのではなく、少しイメージダウンになりますが、船酔いがひどくてどうにも我慢ならず、終生これを克服出来なかったのが原因らしいです。

しかし、エンリケ王子が基礎を築いた海洋探検はその後の者たちに受け継がれ、彼の死からおよそ50年後にポルトガル王国はその後に発見された喜望峰経由でインド洋に進出、香辛料貿易を独占して黄金時代を迎え、空前の繁栄を謳歌します。エンリケ王子は後に続く、スペイン、オランダ、イギリスなどによる大航海時代の道筋を開いた先駆者として高く評価され、今日尊敬の意味を込めて「エンリケ航海王子」と呼ばれています。

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上はエンリケ航海王子の偉業を記念して1960年(昭和35年)にリスボンに建てられた「発見のモニュメント」です。斜めに連なる人物たちの最も頂上で船の模型を手に海を見ているエンリケの姿と、彼の後に続く探険家や著名人が表現されています。これは「スーツの独裁者」と言われたポルトガル首相アントニオ・サラザール(1889~1970)の独裁政権下に造られた物で、(上の写真の人物)過去の栄光の記憶を現代に蘇らせ、国民に夢を持たせようとした当時のロマン主義の典型的な作品でしょう。

次回に続きます。
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